ワーナー・アンド・スウェイジー、夢の跡(中編)2024年04月17日 07時28分49秒

写真集の中身を見てみます(以下、原著キャプションは青字)。


「米国海軍天文台、ペンシルベニア大学、その他のために製作された天文機器類」。ワーナー社の倉庫ないし展示室に置かれ、納品を待つ製品群です。手前の4台は天体の位置測定用の子午儀・子午環、その奥は一般観測用の望遠鏡。
前回、前々回触れたように、ワーナー社の光学機器はレンズを外注しており、そのオリジナリティは機械的パーツの製作にこそありました。


たとえば、こちらは「米国海軍天文台の26インチ望遠鏡用の運転時計(driving clock)」。天体の日周運動に合わせて鏡筒を動かし、目標天体を自動追尾するための装置です。


あるいは、天体の位置を厳密に読み取る「位置測定用マイクロメーター(position micrometer)」


あるいは、「自社で製作し使用している40インチ自動目盛刻印装置」。上のマイクロメーターもそうですが、計測機器の「肝」ともいえる目盛盤の目盛りを正確に刻むための装置で、工作機械メーカーの本領は、こんなところに発揮されているのでしょう。


そうした製作加工技術の集大成が、大型望遠鏡であり、それを支える架台であり、全体を覆うドームでした。(「ヤーキス天文台の40インチ望遠鏡、90フィートドームおよび75フィート昇降床」、「ワーナー・アンド・スウェイジー社設計・施工。1897年」。)


上のヤーキスの大望遠鏡は実地使用に先立って、シカゴ万博(1893)にも出展されました。足元には正装をした男女、頭上には巨大な星条旗。天文学では後発だったアメリカがヨーロッパに追いつき、けた外れのスピードで追い越していった時代の変化を如実に物語っています。

(この項、次回完結)

ワーナー・アンド・スウェイジー、夢の跡(前編)2024年04月16日 18時20分15秒

19世紀最後の年、1900年にワーナー・アンド・スウェイジー社(以下、つづめて「ワーナー社」と呼びます)は、自社の天文機器をPRするための写真集を出しています。


■Warner & Swasey
 A Few Astronomical Instruments:From the Works of Warner & Swasey.
 Warner & Swasey (Cleveland)、1900

(タイトルページ。手元にあるのはノースダコタ大学図書館の旧蔵本で、あちこちにスタンプが押されています。)

本書成立の事情を、ワーナーとスウェイジーの両名による序文に見てみます。

 「我々がこれまでその計画と天文機器の製作にかかわった第一級の天文台の数を考えると、それらを一連の図版にまとめることは、単に興味ぶかいばかりではなく、現代の天文装置が有する規模と完璧さを示す一助となるように思われる。

 一連の図版は自ら雄弁に物語っているので、機器類と天文台については、ごく簡単に触れておくだけの方が、詳しい説明を施すよりも、いっそう好ましかろう。

 ここに登場する三大望遠鏡、すなわちヤーキス天文台、リック天文台、海軍天文台の各望遠鏡の対物レンズは、いずれもアルヴァン・クラーク社製であり、他の機器の光学部品については、事実上すべてJ.A.ブラッシャー氏の手になるものである。

 本書に収めた写真を提供していただいた諸天文台の天文学者各位のご厚意に、改めて感謝申し上げる。」

強烈な自負と自信が感じられる文章です。
たしかにアルヴァン・クラークとブラッシャーのレンズ加工技術は素晴らしい、だが我々の機械工作技術がなければ、あれだけの望遠鏡はとてもとても…という思いが二人にはあったのかもしれません。


当時のワーナー社の工場兼社屋。
堂々とした近代的ビルディングですが、よく見ると街路を行きかっているのは馬車ばかりで、当時はまだモータリゼーション前夜です。


この前後、19世紀末から20世紀初頭にかけて、車は内燃機関を備えた「自動車」へと姿を変え、人々の暮らしは急速に電化が進みました。そうした世の中の変化に連れて、天文学は巨大ドームとジャイアント望遠鏡に象徴される「ビッグサイエンス」へと変貌を遂げ、20世紀の人類は革命的な宇宙観の変化をたびたび経験することになります。(このブログ的に付言すると、本書が出た1900年は、稲垣足穂生誕の年でもあります。)

(この項続く)

蛮族の侵入2024年04月13日 16時06分42秒

ここに1枚の絵葉書があります。


ガートルードという女性が、友人のミス・ウィニフレッド・グッデルに宛てたもので、1958年7月31日付けのオハイオ州内の消印が押されています。――ということは、今から76年前のものですね。

「ここは絶対いつか二人で行かなくちゃいけない場所よ。きっと面白いと思うわ。早く良くなってね。アンソニーにもよろしく。ガートルード」

彼女は相手の身を気遣いながら、絵葉書に写っている天文台に行こうと誘っています。

(絵葉書の表)

改めて裏面のキャプションを読むと


「オハイオ州クリーブランド。ワーナー・アンド・スウェイジー天文台は、ケース工科大学天文部門の本部で、イーストクリーブランドのテイラー通りにある。研究スタッフである天文学者たちは、とりわけ銀河の研究に関心を向けている。また学期中は市民向けに夜間観望会を常時開催し、講義と大型望遠鏡で星を眺めるプログラムを提供している。」

   ★

ワーナー・アンド・スウェイジー(Warner & Swasey Company)は、オハイオ州クリーブランドを本拠に、1880年から1980年までちょうど100年間存続した望遠鏡メーカーです。

同社の主力商品は工作機械で、望遠鏡製作は余技のようなところがありました。
そして本業を生かして、望遠鏡の光学系(レンズや鏡)ではなく、機械系(鏡筒と架台)で実力を発揮したメーカーです。ですから、同社はたしかに「望遠鏡メーカー」ではあるのですが、「光学メーカー」とは言い難いところがあります。たとえば、その代表作であるカリフォルニアのリック天文台の大望遠鏡(口径36インチ=91cm)も、心臓部のレンズはアルヴァン・クラーク製でした。

   ★

同社の共同創業者であるウースター・ワーナー(Worcester Reed Warner 、1846-1929)アンブローズ・スウェイジー(Ambrose Swasey 、1846-1937)は、いずれも見習い機械工からたたき上げた人で、天文学の専門教育を受けたわけではありませんが、ともに星を愛したアマチュア天文家でした。

その二人が地元のケース工科大学(現ケース・ウェスタン・リザーブ大学)の発展を願って建設したのが、ワーナー・アンド・スウェイジー天文台で、1919年に同大学に寄贈され、以後、天文部門の本部機能を担っていたことは上述のとおりです。

   ★

1910年代、二人の職人技術者の善意が生み出し、1950年代の二人の若い女性が憧れた「星の館」。ここはもちろん天文学の研究施設ですが、同時にそれ以上のものを象徴しているような気がします。言うなれば、アメリカの国力が充実し、その国民も自信にあふれていた時代の象徴といいますか。

ことさらそんなことを思うのは、ワーナー・アンド・スウェイジー天文台の今の様子を伝える動画を目にしたからです。関連動画はYouTubeにいくつも挙がっていますが、下はその一例。



アメリカにも廃墟マニアや心霊スポットマニアが大勢いて、肝試し感覚でこういう場所に入り込むのでしょう。それにしてもヒドイですね。何となく「蛮族の侵入とローマ帝国の衰亡」を連想します。

もっとも、ワーナー・アンド・スウェイジー天文台は、別に廃絶の憂き目を見たわけではなく、今も名を変え、ロケーションを変えて観測に励んでいるそうなので、その点はちょっとホッとできます。そして旧天文台がこれほどまでに荒廃したのは、天文台の移転後に土地と建物を取得した個人が、詐欺事件で逮捕・収監されて…という、かなり特殊な事情があるからだそうです。まあ、たとえそうだとしても、ワーナーとスウェイジーの純な志や、建物の歴史的価値を考えれば、現状はあまりにもひどいと言わざるを得ません。

   ★

冒頭のガートルードとウィニフレッドの二人は、その後この天文台を訪問することができたのかどうか? 訪問したならしたで、しなかったらしなかったで、このお化け屋敷のような建物を目にした瞬間、きっと声にならぬ声を漏らすことでしょう。

驚異への扉を開く2024年04月11日 05時36分56秒

奇想のイベント「博物蒐集家の応接間」のご案内を、主催者である antique  Salon さんからいただきました。


■博物蒐集家の応接間―気配 悪戯な天使
 2024年4月20日(土)~4月23日(火)
 12:00~19:00(最終日は17:00まで)
 会場:antique Salon
 (名古屋市中区錦2-5-29 えびすビルパート1 2F)

今回はアンティークショップとして antique Salon(名古屋)メルキュール骨董店(長野)JOGLAR(神奈川)の皆さんが、またクリエイターとして、いしかわゆか犬飼真弓#ISO1638400eerie-eery山掛とろろ伽十心RISA OKADAひんArii Momoyo Pottery川島朗の皆さんが参加されます。今回クリエイターさんの数が多いのは、名古屋を拠点に活動するクリエイター・グループ、「#casement13」とコラボされていることによるようです。

   ★

「博物蒐集家の応接間」は、2015年に名古屋の antique Salon さんの店舗で開催されたのが第1回で、以後は東京をはじめ、神戸や大阪の各地で開催されてきました。そして節目の第10回は、ふたたび名古屋での開催です。


思い起こすと、第1回の会場でお会いした方々の顔が懐かしく浮かんできます。
いきなり回想モードに入るのもどうかと思いますが、でも趣味の世界にあって9年という歳月は、その世界の住人を、揺りかごから冒険の旅へと駆り立て、老練な人間に鍛え上げ、静かな回想へといざなうのに十分な長さです。


博物趣味の世界にあっても同様で、老獪…とまでは言わないにしろ、あの第1回の会場に集った方たちも、それぞれに年輪を重ね、成長を遂げられ、もはや昔日の談ではないでしょう。十年一日のごとき私にしても、やっぱり変化した部分はあるはずです。


そこには良い変化もあるし、初々しさが失われたという意味で、必ずしも良いとばかりはいえない変化もあります。でも、 antique Salon さんに譲っていただいた、小さな驚異の断片を前にすれば、

「目慣れただけで汲み尽くせるようなものを、キミは驚異と呼ぼうというのかい? キミは‘驚異’を‘目新しさ’と取り違えているんじゃないのか? そもそも、キミはボクの何を知っているというのか? 」

という声がしきりに聞こえてくるのです。


そんなことを自問しながら、悪戯な天使が待つ会場を訪ねようと思います。

星のかさね色目(後編)2024年04月09日 05時37分41秒

夜空を彩る星のかさね色目の続きです。


キャプションには、「7 Étoile double du Navire(船の二重星)」とあって、「?」と思いますが、「Navire」とは、今は廃された「Navire Argo(アルゴ船座)」のこと。現在のりゅうこつ座、とも座、ほ座の3つの星座を合わせた巨大な星座です。その二重星といえば、まず「りゅうこつ座イプシロン星」に指を屈さねばなりませんが、正しい答は未詳。


色目としては「紅菊(くれないぎく)」が好いですね。


ギユマンの図とはだいぶ違いますが、現実の「りゅうこつ座イプシロン星」はこんな配色です。


「8 エリダヌス座32番星」
図版の印刷がかすれているのか、このままでいいのか、判然としない図ですが、


色目を当てるなら「柳」でしょうか。


「9 カシオペヤ座シグマ星」


すっきりとした寒色の取り合わせなので、「夏萩」を選んでみました。


「10 はくちょう座ベータ星」。言わずと知れたアルビレオです。


あまりしっくりきませんが、とりあえず「移菊(うつろいぎく)」を当てておきます。
主星と伴星の関係を考えると、これは表地と裏地を入れ替えた方がいいのですが、残念ながら、そういう色目が見つかりませんでした。


天上の宝石にたとえられるアルビレオ。今だと「ウクライナカラー」が真っ先に連想されるかもしれません。


「11 しし座ガンマ星」、固有名はアルギエバ。なんだか妙ちきりんな図ですが、これはいったいどういう状態を表現してるんですかね?


望遠鏡で覗くとこんな感じで、何も妙なことはないんですが…。


この奇妙な図とぴったり同じものはありませんが、このトリコロールに注目して「比金襖(ひごんあお)」を挙げておきます。これは表地と裏地に中倍(なかべ)を加えた3色のかさね色目です。

袷(あわせ)を仕立てるとき、裏地を表地よりちょっと大きくして、表地のふちを覆うように折り返して縫い合わせると、裏地が表地のへり(袖口や裾)を彩ることになりますが、中倍とは、表地と裏地の間に、さらにもう1色加えた布地のことをいいます。


「12 ヘルクレス座アルファ星」


とりあえず「青朽葉(あおくちば)」とします。緑にもう少し青みがあるとなお良かった。


とはいえ、写真でも伴星の青はそれほど感じません。


最後は「13 ペルセウス座イータ星」です。


赤と青で「薔薇(そうび)」

   ★

こうして星のかさね色目は、「桜」で始まり「薔薇」で終わりました。

改めて見返すと、かさね色目の名称はすべて植物にちなむものばかりです。
衣服の染料や、繊維そのものが植物由来だから…ということもあるかもしれませんが、日本にだって鉱物顔料の伝統はあるし、美しい色合いを表現するのに、瑠璃やら辰砂やら碧玉やらを登場させない法はないと思うんですが、まあこの辺が日本らしい感覚なのでしょう。

天上には豊かな山野があり、あまたの花が咲き誇るかと思えば、若葉が芽吹き、濃い樹陰をつくり、やがて紅葉して朽葉となり、静かな冬木立の季節を迎える…。星を眺めながらそんな想像をするのも、王朝人にインスパイアされた風雅な天文趣味のありようだという気がします。

星のかさね色目(中編)2024年04月08日 05時42分31秒

さて、ギユマンの『Le Ciel』掲載の二重星を順次ながめていきます。以下、かさね色目については、長崎氏の前掲書からお借りします。またWikipedia(英語版、日本語版)に写真が掲載されている二重星は、その画像も載せておきます(アトリビュートが必要なものを除き、撮影者名は省略)。


まずは「2 ペガスス座カッパ星」です。


これはもう「桜」で決まりでしょう。


お次は「3 はくちょう座61番星」


これは「黄朽葉(きくちば)」がピッタリです。
「かさね色目」には、こんな風にあえて同色を取り合わせたものもあります。


写真に写った61番星を見ても、この色目はかなりリアルであることが分かります。


次いで青い双子星、「4 へび座デルタ星」


この鮮やかな青は、日本の伝統色にない色調で、強いて挙げると、この「朝顔」がわりと近い感じです。これも縹(はなだ)の同色のかさねです。


「5 アンドロメダ座ガンマ星」、固有名はアルマク。ここではオレンジの主星とグリーンの小二重星の「三重連星」として描かれていますが、グリーンの方は実際には三重星で、全体として「四重連星」を構成している由。


これもうまい色目が見つかりませんが、この「黄柳(きやなぎ)」なんかはどうでしょう。

(撮影:NVN271)

望遠鏡ごしに眺めると、はくちょう座のアルビレオばりの美しい多重星です。


「6 カシオペヤ座イータ星」


これは「裏山吹(うらやまぶき)」がよさそうです。
最初は下の「莟菊(つぼみぎく)」を当てたんですが、目立つ主星を表地に、差し色となる伴星を裏地に当てた方がいいいと思い直して、改めて「裏山吹」としました。


ちなみに、「かさね色目」という言葉は、装束の表地と裏地の色の配合をいう場合と、重ね着した装束が生む襟元や袖口の美麗な色彩配列をいう場合があって、引用書の著者・長崎盛輝氏は、前者を「重色目」、後者を「襲色目」と書き分けています。拙記事で採り上げているのは、もっぱら前者の意味ですが、二重星に対して「重色目」の用字はまさにぴったり。

(この項つづく。次回完結)

星のかさね色目(前編)2024年04月07日 06時46分38秒



ふと思いついて、1877年に出たギユマン『Le Ciel』(第5版)を開いてみます。


その<図版41>には、美しくも愛らしい二重星(多重星)が描かれています。

図版タイトルの「étoiles colorées」は、英語でいう「colored stars」のことで、鮮やかな色味を帯びた恒星を指します。まあ、どんな星でも何らかの色はあるので、ことさら「colored」と呼ぶ必要もないわけですが、眼視とモノクロ写真の時代には、白く輝く星々の中にあって色味の強い星はやっぱり目立つので、こう呼ばれたのでしょう。いずれにしても、これは古風な言い回しで、現在日本語の定訳もないと思いますが、強いて訳せば「有色星」でしょう。

   ★

最近のマイブームに合わせて、二重星の色彩のコントラストを、平安装束の「かさね色目」に当てはめてみてはどうか?と思いつきました。というよりも、「かさね色目」の本を読んでいて、二重星のことを思い出したというのが正確ですが、いずれにしても、これは我ながら風雅な試みと自画自賛。

ギユマンの図版は、望遠鏡ごしに見る現実の二重星の色とはずいぶん違う気がしますが、ここではあくまでも図版を基準に、下の本と対照してみます。

(長崎盛輝・著『新版かさねの色目―平安の配彩美』、青幻社、2006)

(この項つづく)

朝の教訓2024年04月04日 05時57分46秒

音楽家から天文学者に転身したウィリアム・ハーシェル(1738-1822)。
彼が天王星を発見したゆかりの地である、イングランド西部の町バースは、英国ハーシェル協会の本部があるところで、地元のバース王立文学科学協会(BRLSI)とも協力して、ハーシェル関連のイベントがなかなか盛んです(彼の旧居は現在ハーシェル天文博物館として公開されています)。

(Googleストリートビューで見るバースの町とBRLSIの建物(正面左手))

そのBRLSIが主催して、ウィリアムの息子で同じく天文学者のジョン・ハーシェル(1792-1871)に関する講演会があると聞き、たまには勉強しようと思ってオンラインで参加することにしました。

同講演会の案内ページより。晩年のジョン)

しかし参加はしたものの、何だか様子がおかしい。
入室した時点で話がえらく進んでいて、おや?と思う間もなく「結論 Conclusion」というパワポのスライドが出て、そのまま講演は終わってしまったのでした。

   ★

「指折り数えても時間は合っているはずなのに、おかしいなあ」
…というのを読んで、「ははーん」と思われた方もいるでしょう。

そうです、私はやっぱり時間を間違えていたのです。
イギリスでは先月末からサマータイムが始まっていて、日本との時差は今は9時間ではなく、8時間で計算しないといけないのでした。イベント慣れしている人には何でもないことかもしれませんが、ごくたまに発心する程度の人間にはちょっと難易度が高かったです。

参加チケットを事前購入して、がんばって早起きまでしたのに、何たることか。
まさに時間どろぼうに遭った気分ですが、まあここで一度失敗しておけば、次回からはたぶん大丈夫でしょう。

一瞬先は闇2024年03月31日 17時49分00秒

怒涛の3月が終わり、明日からはいよいよ4月。

今年の年度替わりは、例年以上に心身を痛めつけられました。それでも、とりあえず年度を越すことができてホッとしています。落語に出てくる昔の大みそかは、庶民にとって今とは桁違いの大イベントだったらしく、借金取りとの手に汗握る?攻防が面白おかしく言い伝えられていますけれど、今の世の年度替わりも、一部の人間にはちょっと似たところがあります。とにかく無茶でも何でも、事務の形を整えねばならないので、日本中でずいぶん珍妙なやり繰り算段があったことでしょう。

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そんな山場を越えて、今日はメダカの水を替えたり、小庭の草をむしったり、のんびり過ごしていました。ブログもそろりと再開せねばなりませんが、気ままなブログといえど、しばらく書いてないと、書き方を忘れるもんですね。まずはリハビリ代わりの気楽な話題から。

   ★


「ぼくの保険会社だって?もちろんニューイングランド生命保険に決まってるじゃないか。でも何でそんなこと聞くんだい?」

蝶ネクタイでワイン片手に望遠鏡を覗きこむ2人のアマチュア天文家。
実にお洒落な二人ですが、なんで保険会社が話題になっているかというと…


雑誌「タイム」1969年10月24日号に掲載された、ニューイングランド生命保険の広告イラストです。描き手は諧謔味のあるイラストで、「プレイボーイ」や「ザ・ニューヨーカー」の誌面も飾った Rowland B. Wilson(1930-2005)。思わずクスリとする絵ですが、今だとちょっと難しい表現かもしれませんね。まあ画題はいささかブラックですが、この青い空と白い星の取り合わせはいかにも美しいです。

現実のアマチュア天文家が、当時こんな小粋なムードを漂わせていたかどうか。実際こんないでたちの人もいたかもしれませんが、でもこの広告の裏面(この広告は雑誌の表紙の真裏に載っています)を見ると、小粋でも気楽でもなく、「うーん」と大きくうならされます。

(「WHAT IF WE JUST PULL OUT? このまま撤退したらどうなるのか?」)

市松模様になっているのは、ニクソン大統領とベトナム戦争の惨禍、そしてアメリカ国内の反戦運動の高まりです。当時はアメリカのみならず、日本も熱い政治の時代で、この年はそこにおっかぶさるようにアポロの月着陸があり、翌年には大阪万博(Expo’70)を控え、今にして思えば、かなり騒然とした時代でした。まあ、私はまだ幼児だったのでリアルな記憶は乏しいですが、でも半世紀あまりを経て、人間のふるまいはあまり変わらんもんだなあ…とつくづく思います。

「あこがれ論」…天文古玩趣味の根っこを考える2024年03月24日 08時14分07秒

記事の間隔が空きました。

ふつうに年度末で忙しいのに加え、ちょっと天文関係から横道に逸れて、よそ見をしていたというのもあります。よそ見というのは、かなりミーハーな気もしますが、大河ドラマの影響で、平安時代に興味を向けていたのです。いわゆる「王朝のみやび」というやつです。そして、このよそ見は私に少なからず省察を迫るものでした。

   ★

今年は大河ドラマ「光る君へ」の影響で、紫式部と源氏物語に世間の関心が集まっていますが、今から16年前、2008年にも紫式部と源氏物語のブームがありました。それは『紫式部日記』の寛弘5年(1008)の条に、紫式部のことを源氏物語の作者としてからかう人物が登場することから、この頃に物語として一応の完成を見たのだろう…と見なして、2008年を「源氏物語の成立1000年」として、記念のイベントや出版が相次いだことによります。

(特別展「源氏物語の1000年―あこがれの王朝ロマン―」図録、横浜美術館、2008)

当時(今も?)、各地の展覧会では「王朝へのあこがれ」というフレーズが盛んに使われました。少し皮肉に考えると、展覧会を企画するにしても、紫式部の同時代のモノは――道長の自筆日記『御堂関白記』という途方もない例外を除けば――ほとんど残ってないので、展覧会の尺を埋めるには、近世の品も大量に混ぜる必要があり、そうなれば自ずと「江戸の人々の王朝へのあこがれ」という視座になるのでした。

ただ、江戸の人が王朝にあこがれたのは事実なので(雛飾りや源氏絵の盛行はその一例です)、それにいちゃもんを付ける理由はありません。さらに江戸の人ばかりではなく、実は室町時代の人も、鎌倉時代の人も、院政期の人も、みんな平安中期にあこがれの目を向け、源氏物語の世界に夢を託してきたことが、展覧会の図録や解説書を読むと深く頷かれます。

もっといえば『源氏物語』自体が、作者のあこがれの産物であり、その時代設定は、紫式部や道長の頃よりも100年ばかり前、醍醐天皇の「延喜の御代」を念頭に置いて、フィクショナルな王朝絵巻を作者は描いたのだと言われます。

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我々の先祖があこがれたのは、時間を超えた過去ばかりではありません。
空間的に隔てられた「異国」の文物に対するあこがれが、『源氏物語』の世界には繰り返し描かれています。すなわち「唐物(からもの)」に対する強烈な嗜好です。

(河添房江・皆川雅樹(編)『唐物とは何か』、勉誠社、2022)

唐物というのは、中国に限らず広く異国から輸入された品ということで、後の言葉でいう「舶来品」と同じ意味です。そして後世の「舶来品信仰」と同様、唐物は質が良くて高級なのだ…という理解が、人々に共有されていました。(もともと財力のある人しか手にできない「威信財」の側面があったわけですから、唐物は実際良質ではあったのでしょう。でも、そこには「どうだ、こいつは舶来品なんだぜ!」と誇る気持ちが露骨にあって、実際以上に下駄を履かされていた側面もあったと思います。)

唐物嗜好は、奈良・平安にとどまらず、その後も長く日本文化の基層をなし、後には南蛮貿易や長崎貿易を介してヨーロッパ文化へのあこがれを生んで、そのまま近代に接続しています。

(各種展覧会図録。千葉市美術館(編)『江戸の異国趣味―南蘋風大流行』、2001/北海道立函館博物館・神戸市立博物館(編)『南蛮・ハイカラ・異国趣味』、1989/京都文化博物館・京都新聞社(編)『Winds From Afar 異国の風―江戸時代 京都を彩ったヨーロッパ』、2000)

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遠い時代へのあこがれ。
遠い異国の文物へのあこがれ。

あこがれの根っこには、常に時間的・空間的な隔たりがある。…というと、「じゃあ、『身近な先輩へのあこがれ』みたいなのはどうなの?」という問いも出るでしょうが、たとえ時間的・空間的に近接していても、その先輩はやっぱりどこか遠い存在なんだと思います。つまり物理的遠さならぬ心理的な遠さ。

「あこがれ」の古形は「あくがれ」で、原義は「本来の居場所を離れてさまようこと」の意味だと、語源辞典には書かれています。そこから「心が肉体を離れてさまよう」、「心が対象に強く引きつけられる」という意味に転じたとも。

この「(心が)本来の居場所を離れてさまよう」というニュアンスは、今の「あこがれ」にも色濃く残っている気がします。

(荒木瑞子『竹久夢二の異国趣味』、私家版、1995/鹿沼市立川上澄生美術館(編)『南蛮の川上澄生』、同館、1993)

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冒頭にもどって、「王朝のみやび」が私に省察をせまったのは、こうしたあこがれの本質が、私の天文古玩趣味にも色濃くにじんでいると思ったからです。

星はそれ自体遠い存在なので、普通の天文ファンも、星に対する強いあこがれを掻き立てられていると思います。その上さらに「古人の星ごころ」という迂回路を経由して星の世界に接近しようというのは、迂遠な上にも迂遠な方法ですが、そうすることで一層あこがれは強まり、思いが純化されるような気が何となくするのです。

そういえば、唐物趣味の話のついでにいうと、紫式部の時代は唐(618-907)が滅び、王朝が北宋(960-1127)に交代したあとの時期ですが、当時のいわゆる「国風文化」の人々があこがれた中国文化とは、実は同時代の北宋の文化ではなく、すでに失われた唐の文化だったという指摘があります(注)。そういう話を聞くと、天文古玩趣味の在り様とまさにパラレルだと感じ、ドキッとします。

まあ、日本が憧れた中国の人だってインドや西域に憧れたし、ヨーロッパの人はといえば、東洋の鏡写しのようにシノワズリやジャポニズム、オリエンタリズムに入れ込んだので、「今・ここ」でない、「どこか遠い対象」に心を寄せるというのは、ある意味普遍的な文化現象であり、ヒトの本性でもあるのでしょう。

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「来てみれば さほどでもなし 富士の山( 釈迦や孔子も かくやあるらむ)」

昔から有名な川柳/狂歌ですが、遠いからこそ貴く感じる人間の心意を上手くうがっています。と同時に、好奇心の赴くまま、遠い道のりをものともせず富士山頂まで押しかけ、聖賢の道を求めずにはおられない人間の性(さが)や業もうかがえて、そこに『2001年宇宙の旅』の作品テーマなんかを重ねると、さらに深い味わいがあるような気がします。


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(注)皆川雅樹「人・モノ・情報の移動・交流からみた「日本文化」―「唐物」と「国風文化」をめぐる研究の狭間から考える」(河添房江・皆川雅樹(編)『唐物とは何か』(勉誠社、2022)所収)に引用される佐藤全敏氏の所論。