南京・紫金山天文台と昭和の憂鬱2006年05月20日 18時34分06秒

(紫金山天文台に残る カール・ツァイス製60cm反射望遠鏡)

先日(5月17日)書いた紫金山天文台の件について書きます。

内容的に「リリカルな郷愁の天文趣味」というには、あまりにも現実的な話なのですが、これも昭和天文側面史と思い、敢て掲載しました。なお、以下の通り関連情報がごく断片的なので、識者のご教示を得られれば幸いです。


紫金山天文台は、前身の国立中央研究院天文研究所まで遡れば、1928年以来の歴史を持ちます。

当時の蒋介石政権はドイツから軍事顧問団を受け入れるなどドイツと密な関係にあり、ドイツ商人も中国国内で盛んに兵器や工業製品の売込みをしていました。紫金山天文台の観測機器類も、ドイツ資本の「南京カルロヴィッツ商会」が納入したものであり、ツァイスが採用されたのにはそうした背景があるようです。(参考サイト 「ラーベは武器商人か」 http://www.geocities.jp/yu77799/rabe3.html )

天文台完成後まもなく勃発した戦争の影響は、この機材の運命に濃い影を落としています。

1937年(昭和12)、日本軍の猛攻による南京陥落を前にして、この機材の破壊を免れるために、中国側はこれを箱詰めにし、遠く雲南省昆明まで運びました。翌1938年8月、天文学者である荒木俊馬博士(1897-1978)は、現地で以下のような述懐をもらしています。(『天文と宇宙』第7版、昭和16年)

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 陸軍特務機関の厚意による自動車を駆って南京城外紫金山頂を訪れたが、正義皇軍の攻撃精神に文化を愛する細心の注意が払われたものか、天文台の建物は完全に残って居るのに、内部の諸観測器械が無惨乱暴に奪取運び去られた跡を目撃して、支那人の誤てる抗日意識がかくも非文化的であるかに一驚した。

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時あたかも、荒木博士の師・新城新蔵博士(1873-1938)が、病を得て南京で客死した直後のことでした。新城博士は戦時の混乱から文化資産の散逸を防ぐため、死の間際まで中国現地で尽力しており、その努力は確かに貴いものだったろうと思いますが、しかしながら、そもそもの混乱の原因を無視することはできませんし、ましてや機材の疎開を「無惨乱暴に奪取…かくも非文化的」と筆誅するのはいかがなものかと、個人的には思います。

さて、その後、このツァイス望遠鏡を復活させようという日本側の動きがありました。その製作に当たった人物こそ鏡面磨きの達人と謳われた木辺成磨氏(1912-1990)だったのです。

この件については、木辺氏自身が詳しく書き残しています。(『改訂版日本アマチュア天文史』1995、305-306頁)


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 その年には支那事変がいよいよ拡大の一路を辿りつつあった。そこヘ一つの転機が生じた。

 それはこの戦争で日本軍が南京を占領した際,同市郊外の紫金山天文台にあった60cm反射望遼鏡の主鏡だけ外され,昆明に持ち去られていたので,我が国で60cm鏡を新しく作って補充しようというのであった。

この話は定かではないが,当時の東京天文台長関口鯉吉先生も一枚噛んでいたらしい。そこで同氏の知人逓信省(郵政省)元技宮須山正躬氏を頭に小糸製作所という当時海軍へ探照灯を納入していた会社を引請会社として構想が立てられ,筆者と服部博がスタッフとして指名された。

(中略)

研磨機械も二台小糸で新作することにした。もちろん原型は中村〔要〕が作らせた花山天文台の研磨機だったが,研磨運動が楕円になるからどうしても手磨のごとく,直線運動にしようかと考えていた際,須山氏が機関車のピストンの理を利用したらどうかといったので、その方法を採用して設計し,同年秋頃手始めに20cm,次いで翌年には30cm鏡も試作した。ガラス材は同社のガラス工場で素材から作った。実作業は多く前田〔静雄〕が行った。これが軌道に乗ると,筆者の学業の時間はなくなった。

(中略)

しかし時局はそれどころではない。何とか我が国の名誉のためにといった気持につつまれて,1942年中は頻繁に小糸へ通った。前田も割合早く召集解除になって戻ってきた。遮二無二に20cmや30cm,中にはカセグレン用の穴あき鏡も作ったし,凸の副鏡も磨いた。工場内で夜明ししたことすら2~3度はあった。しかし製品は会社に収められ,手許には今は何も残っていない。磨いた鏡の正確な記録すらない。

 1943年に入ると戦局は傾いてきた。公けの発表こそないが,明らかに不利になった。60cm用の素材の試作はできたが,研磨器の大型化が必要だが、末だ完成していない。会社は軍需品に追われてそれどころではなくなってきていた。筆者も多少身体の調子を損ね,砂ズリもできないうちに60cm鏡の話は雲霧のごとく消えた。正に幻の60cmであった。仏典にある「覚了一切法 猶如夢幻響 満足諸妙願 必成如是刹」とややパラドキシカルな句を思いうかべながら,静かに小糸から去った。

 後は我が国の敗戦と混乱である。しかしこの小糸製作所での経験は復興後に我が国での60cm鏡完成へと結果的には再生、生きてきていたのである。個人的な記述が過ぎたが,今この戦時中のことを感覚的におぼえている人は,少なくなってきた。小史の一駒としてあえて書き加えた。それにここの節に名を挙げた人達もほとんど今は故人となってしまった。

〔行頭1字下げした箇所は原文の改段落、それ以外は引用者による便宜的改行〕

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なお、昆明に運ばれた問題の主鏡ですが、新中国成立(1949)後に修復され再使用されたと、紫金山天文台に置かれている説明板には書かれていました。