稲垣足穂 『水晶物語』(2)2006年07月18日 21時44分06秒

「私」はまず鉱物標本を収めるための紙箱作りから始め、標本の名を記すためのカード、標本に貼付する番号シール、細粒状の資料を容れるガラス管、そして標本全体を収める専用戸棚の入手へと歩を進めます。

「私」は、そのすべてに学校にある品と同等の完成度を求めます。

紙箱の外側に張る青ペーパは 「なるべく似かよった紙を、紙屋さんが何回も奥から持ち出した巻紙の中に探し当て」 ましたし、カードは 「何某標本部選集」 と刷り込んだものを活版屋に特注し、小型のガラス管は 「町で一等古い硝子商」 を訪ね、店の隅から恰好の品を見つけ出しました。

「私」が最も苦心したのは、番号(ナンバー)です。

「鉱石に貼付する小さな円内の数字はどうしても活字でないと、感じが出ないからです。このために、算術教科書のページが切り抜かれました。鋏では機械的小円になりませんから、ブリキ屋さんに依頼して、真鍮パイプのきれはしで打抜き道具を作って貰いました。」

そして、ついに「私」は自分だけの理想世界を手に入れます。


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私はお父さんといっしょに、掘割ぎわの家具商がならんでいる区郭へ出かけ、三軒目にやっと目的通りの戸棚を見付けたのでした。それは自分の肩ほどの高さしかありません。けれども、抽斗の配置も、ニツケル鍍金した金具も、学校の応接間にあるものとそっくりでした。

私はお昼には、学校からそんなに隔たっていない自宅へ食事に帰るのが例でしたが、そんな折には何より先に玄関を上った所の脇に置いた、自分の標本戸棚の抽斗をあけます。

その最下段には、毛氈苔や虫取菫や狸藻や、その他羊歯類の押葉、緑や褐や紅の海草を貼りつけた紙片もはいっています。その上段が貝類、更に上段が、フォルマリン漬のモロコやイカや龍の落し子など……ですから、更に上段全部の抽斗を埋めている鉱石類は、あたかも学校備品のそれのように ―― 応接間の戸棚は、鉱物の他は措葉がはいっているだけでした ―― 自分の戸棚にもある植物の区域から発散されるナフタリンの臭いが、鉱物たちから放射する加里やナトリウムや満俺(マンガン)やチタンの香と、ちょうどいい具合に雑り合って、そこに、学校にあるものと同様な、目覚ましい、人をして世俗を離脱したすがすがしい学的操作に赴かしめるところの、博物標本の雰囲気を醸成するのでした。

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この主人公の行動は、理科室趣味に侵されていない人には、不可解なものに思えるかもしれませんが、私はこれを読んで、刃物で身を裂かれるほどの痛烈なシンパシーを感じます。ひょっとして、私も当時もっと裕福な家に育ち、自分の思うがままの行動がとれたなら、こうした挙に出たかもしれません。(私の場合は、ドイツ式標本箱のぎっしり並んだ昆虫標本棚を志向したと思いますが。)

それにしても、これが足穂の自伝的回想だとすれば、何と早熟な子供だったことでしょう。年端もいかぬうちから、物言わぬ非情の鉱物に、これほどまでに入れあげていたとは…。