再び理科室の歴史について(2) ― 2006年10月02日 23時31分16秒

(明治33年発行 『小学理科教科書 巻二』 挿絵)
理科室の歴史を調べようと思って、理科教育史の文献に当ったのですが、なかなかこれというものが見つからず途方に暮れていました。その後、資料は学校建築史の分野からひょっこり出てきました。
参照したのは『建築計画学8 学校Ⅰ』(青木正夫著、丸善、昭和51)という本です。第2章にある「理科教室」の項は、戦前の理科室の通史として、私が目にした唯一の文献です。以下これに依拠(というか受け売り)して、その歴史を概観してみます。
■明治前期■
他の分野と同じく、明治の教育制度もまず「形」から入りました。理科教育も例外ではありません。
「早いところでは、明治12、13年より、理化学器械を購入し始め、また各県とも新築祝いに理化学器械や庶物標本などを記念品として贈り、明治16年には文部省も学事奨励品として、これらの品を付与」しましたが、絶対量としては微々たるものでした。
学校現場にもそれを使いこなせる教員がおらず、そうした品々は単なる記念品としてキャビネットに恭しく飾られるのが常でした。理科の授業はまったくの読本中心で、不ぞろいながらも博物掛図があれば「先ず中等の部」という状態がしばらく続いたのです(文部省第12年報告/学事巡視功程/福岡県)。
その後、読本中心から、徐々に実物教育や実験授業が取り入れられるようになりましたが、購入された器具は少なく、実験ももっぱら教卓実験であったため、独立した理科室へのニーズはありませんでした。
「ただその器械や標本を格納する場所が必要となり、しかも貴重品であることから『大なる小学校は図書標本等を置くべき特別の場所を要す』と、また『図書標本器械の置場等は教員室に設くるを要す』と規定され」ました(明治24年小学校設備準則、同28年学校建築図説明及設計大要)。この「特別の場所」こそ、理科室のいわばルーツに当たるものでしょう。
日清戦争に勝利し、日本の新体制が強固なものとなったこの時期が、理科室の胎動期といえます。(一方には、神戸小学校のように、明治17年という早い時期に化学教室を備えた学校もありましたが、それはあくまでも例外的な存在です。)
(この記事続く)
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