再び理科室の歴史について(3) ― 2006年10月03日 22時55分15秒

(明治33年発行 『小学理科教科書 巻二』 挿絵)
引き続き、青木正夫著『建築計画学8 学校Ⅰ』からの摘録です。
(以下は、上の著書の不完全な引用と、私のコメントの入り交じったものです。)
■明治後期■
本格的な理科室が設置されるようになるのは、国内の産業資本が急激な成長を示し、重工業へと移行した日露戦争後のことです。(この点からも、近代の理科教育と軍事、産業とが密接に結びついていたことが垣間見えます。)
この頃、理科の教育法にも変化があり、児童中心の教授法が一般的となりました。その流れを受けて普及したのが「学校園」で、児童自ら植物を栽培してその成長を観察することが始まりました。また、物理化学でも生徒実験が行なわれるようになり、中には学芸会の演目として、児童による理化学の実験が演じられる場合もありました。
このように実験・観察が盛んになり、児童による実験の機会が増えたことから、いくつかの学校で、理科教室が設けられるに至りました。この時期が、理科室の揺籃期といえるでしょう。
しかし全体的に見れば、この時期に理科室を設置した学校は、まだまだ少数派でした。
「明治42年文部省において、各県から1校ずつ優良小学枝として表彰した学校を見ても、平面図の明らかな17校中、理科教室を設置している学校は2校にしかすぎない。教室内に観察棚を設けた例が多く報告されていることから、依然として〔授業は〕教室内で行なっていたと考えられる。明浩42年、文部省普通学務局編纂の「小学校建築図案」中の7校いずれにも理科室はない」…という状況でした。
明治末年になって、官製教科書が作られたことは(明治41年=教師用、43年=児童用を発行)、理科教育の普及徹底に功を上げましたが、一方では教材の画一化を招き、再度教科書の機械的暗唱を強いる結果となりました。そのため、理科室の普及もペースダウンせざるを得なかったのです。
この頃(明治41年8月)、文部省図書課から「尋常小学校理科書内容ニ基キ民間ニ於テ製作ノ掛図使用並ニ実物標本器械類購入ニ関スル注意」という通知が出されています。文中、「掛図は実物・事物の取扱いがおろそかになる」点が強調されていますが、一般教室で教科書を使って授業をする分には、確かに掛図の方が便利であり、重宝がられた様子がうかがえます。
なお、この時期の特徴として、理科をはじめ、実習を必要とする他教科と共同使用するための、折衷的な作業室を設けた学校もありました。床を漆喰土間とし、壁面に理科実験器具の格納棚を作り、家事科のためにかまどを設け、流しの下に調理器具や洗濯器具を格納する…などが、その例です。
(この記事続く)
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