『彗星の劇場』…星の翁を復活させた古書の力 ― 2007年06月06日 21時35分27秒

昭和20年秋。既に還暦を迎えた野尻抱影は、日本の敗戦という苛烈な現実を前にして呆然自失、自宅で籠居の日々を送っていました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
明治十年代の末年にお生まれになった野尻先生にとっては、大正デモクラシー時代に育ったわたしたちとはちがって、日本の敗戦は極めて深刻な打撃を与えた事件であり、わたしは当時、星の魔術師が神通力を失ったと感じたものである。また神通力を取り戻していただきたいと、古い銅版画入りの厚い彗星の本をかたにかついで、世田ヶ谷の御宅へうかがったことがあった。
(広瀬秀雄『星の民俗学』〔野尻抱影著〕解説)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
戦後のある晴れた、しかもうすら寒い日だったように覚えています。武蔵野の西辺近く(三鷹の天文台官舎)から、いつもあやしく面白いお話を聞かせて頂いている魔術師を何とかおどろかさんものと、重い羊皮装丁の1600年代出版のルビエントスキーの『彗星全集』をかついで、まだ戦災の跡の生々しかった地域をぬけて世田ヶ谷のお宅にお尋ねした事でした。
いろいろお話をしたり聞いたりしましたが『彗星全集』が非常に先生の気にいったように思えました。そこに集められた彗星の写生図ののった銅版の古星図の数々は、恐らくは戦争の現実に一時呪文を忘れていたように見えた魔術師をいくらか若がえらせたに違いないと信じられます。とにかくもその頃から、星の言葉を聞く法の伝達者として再び昔の野尻先生の姿が見られるようになりました。
(広瀬秀雄『新星座巡礼』〔野尻抱影著〕角川文庫・解説)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
文中 『彗星全集』 とあるのは、他でもない 『彗星の劇場』 のこと。星の翁の迷夢を払い、戦後のさらなる飛躍をもたらした原点こそが、この17世紀の古書だったのです。したがって、翁の文章に親しみ、その後を慕う者は、すべて間接的にルビエニエツキの恩沢を蒙っているわけです。
★ ★ ★ ★ ★
なお、筆者の広瀬秀雄氏(1909‐1981)は、後に東京天文台長をつとめ、天文啓発家として、多くの一般書を執筆された方。天文学史にも造詣の深い人でしたが、この『彗星の劇場』は、氏の個人蔵書だったんでしょうか?今見た限りでは、国立天文台の蔵書目録には見えませんでしたが…。だとしたらそれも凄い話。まあ、人の懐を気にしてもしょうがないんですが。。。
〔※上の広瀬氏の文章は、いずれも石田五郎著 『野尻抱影―聞書“星の文人”伝』(リブロポート)より転載しました。写真も同書口絵より。昭和30年、翁70歳のポートレート。〕
■付記(6月9日訂正済み)■
先に、この欄で「急いで訂正です。野尻翁が目にしたのは〔…〕『彗星の劇場』以前に出版された、別の本だったようです」と書きましたが、再度訂正します。やはり『彗星の劇場』で間違いありません。この辺のことは、書名等の書誌的情報の混乱に因るものですが、Bay Flamさんが、この点について的確なまとめをされていますので、ぜひご覧下さい。
★ARCHIVVM VRANOGRAPHICVM(天球誌文庫)
ルビエニエツキ 『彗星の劇場』
http://urano-research.txt-nifty.com/uranog/2007/06/post_f598.html
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明治十年代の末年にお生まれになった野尻先生にとっては、大正デモクラシー時代に育ったわたしたちとはちがって、日本の敗戦は極めて深刻な打撃を与えた事件であり、わたしは当時、星の魔術師が神通力を失ったと感じたものである。また神通力を取り戻していただきたいと、古い銅版画入りの厚い彗星の本をかたにかついで、世田ヶ谷の御宅へうかがったことがあった。
(広瀬秀雄『星の民俗学』〔野尻抱影著〕解説)
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戦後のある晴れた、しかもうすら寒い日だったように覚えています。武蔵野の西辺近く(三鷹の天文台官舎)から、いつもあやしく面白いお話を聞かせて頂いている魔術師を何とかおどろかさんものと、重い羊皮装丁の1600年代出版のルビエントスキーの『彗星全集』をかついで、まだ戦災の跡の生々しかった地域をぬけて世田ヶ谷のお宅にお尋ねした事でした。
いろいろお話をしたり聞いたりしましたが『彗星全集』が非常に先生の気にいったように思えました。そこに集められた彗星の写生図ののった銅版の古星図の数々は、恐らくは戦争の現実に一時呪文を忘れていたように見えた魔術師をいくらか若がえらせたに違いないと信じられます。とにかくもその頃から、星の言葉を聞く法の伝達者として再び昔の野尻先生の姿が見られるようになりました。
(広瀬秀雄『新星座巡礼』〔野尻抱影著〕角川文庫・解説)
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文中 『彗星全集』 とあるのは、他でもない 『彗星の劇場』 のこと。星の翁の迷夢を払い、戦後のさらなる飛躍をもたらした原点こそが、この17世紀の古書だったのです。したがって、翁の文章に親しみ、その後を慕う者は、すべて間接的にルビエニエツキの恩沢を蒙っているわけです。
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なお、筆者の広瀬秀雄氏(1909‐1981)は、後に東京天文台長をつとめ、天文啓発家として、多くの一般書を執筆された方。天文学史にも造詣の深い人でしたが、この『彗星の劇場』は、氏の個人蔵書だったんでしょうか?今見た限りでは、国立天文台の蔵書目録には見えませんでしたが…。だとしたらそれも凄い話。まあ、人の懐を気にしてもしょうがないんですが。。。
〔※上の広瀬氏の文章は、いずれも石田五郎著 『野尻抱影―聞書“星の文人”伝』(リブロポート)より転載しました。写真も同書口絵より。昭和30年、翁70歳のポートレート。〕
■付記(6月9日訂正済み)■
先に、この欄で「急いで訂正です。野尻翁が目にしたのは〔…〕『彗星の劇場』以前に出版された、別の本だったようです」と書きましたが、再度訂正します。やはり『彗星の劇場』で間違いありません。この辺のことは、書名等の書誌的情報の混乱に因るものですが、Bay Flamさんが、この点について的確なまとめをされていますので、ぜひご覧下さい。
★ARCHIVVM VRANOGRAPHICVM(天球誌文庫)
ルビエニエツキ 『彗星の劇場』
http://urano-research.txt-nifty.com/uranog/2007/06/post_f598.html
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