大正時代の理科少年…『近世科学の宝船』(3)2007年08月21日 06時08分49秒

(「講義も聴かずにラッパの口の開いてゐるわけを考へつヾけてゐる」茶目物理君)

昨日の続きです。
この本には「茶目物理君」と「村山正信君」という、二人の理科少年が登場します。二人がどんなふうに描かれているかを見てみます。

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まず、茶目物理君。彼は「未来の大物理学者を以て自ら任じてゐる 茶目物理君の一日」という章に登場します。その名の通り、茶目っけのある(本人はいたって真面目なのですが、傍から見ると滑稽な)愛すべき少年です。

朝の膳について味噌汁を吹いては、「ウン、これは湯の上の飽和水蒸気を吹き去って比較的乾いた空気の流れを当て湯の蒸発を早める。湯の蒸発を早めるから気化熱が奪れて汁をさますのだナア」と、早速ひとかどの学者を気取って見ます。

その後も、女中のお秋や、旧弊な叔父さんを物理学の知識でやりこめたり(やりこめたと思っているのは当人のみ)、日常些事をことごとく物理的に解釈しては自ら得意になっています。

ところが、この物理君、学校では意外に活躍しません。図のごとく算術の講義も上の空ですし、あまつさえ「理科の時間には大半居眠をしてゐて、実験でも見せられると初めて我に帰ることは帰るが、其の時それが何の実験であるかさへもさっぱり分らずに終わるという塩梅」。

何だか矛盾したような少年ですが、一方的に授けられる知識と、自ら関心を持って学ぶことの違いを、作者はよく知っていたのでしょう。作者は物理君のことを評して、「一体生徒といふものは好奇心の強いもので、物に熱しかけると、つひ馬鹿だと言はれる位に研究的態度を取るものだ」と書いており、モチベーションというものを重視していたことがうかがえます。

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それに対して村山正信君の方は、名前からして堅物そうで、実際先生からも瞠目される利発さをもった少年です。

遠足に行った先で池に石を放り込んだら波ができた、そこから彼は考えます。「どうも僕には一寸わからん、波の出来るわけが」。そこで幾たびも石を放り、波の動きをじっと観察し、彼は波の基本性質を帰納するに至ります。

水に石を放れば波ができる、では空気中で手を振ったときはどうか。先生に質すと、それは空気に疎密波ができるのだと教わります。彼はさらに琴の糸の振動を観察することで、空気の疎密波は音を生むのではないかと気づきます。ではなぜ手を振ったときは音が出ないのか…?

「成程君は偉い。まだ物理を教はるにだいぶ間があるのによくも気がついたね」。先生は「村山正信が自然界に起る現象を一つ捕へれば一の真理を発見して、尚且十の応用をと試みる彼の非凡な頭脳にすっかり感心」します。

しかし、そんな彼にもやっぱり変人じみたところがあって、仲間からは「理科気違いの綽名を貰って」いましたし、未曾有の関東大震災に遭遇した際には、「六十年を略(ほぼ)一周期として東京を見舞ふ大地震〔…〕が愈々来たわい」と思いつつ、発震時刻と振動方向を観察し、冷静に震源地を推測します。避難の途中、建物が倒壊するのを見ても、「直ぐ運動の定律に思ひを致してこんな時に重い屋根や、重い塀の傷み易いのは当然の事」と、あくまでも科学的態度を失いません。この辺の超然ぶりが、いかにも奇人めいて感じられます。(その科学知識の量からすると、地震に出くわしたのは、音波を考究していた頃よりやや後のことでしょう。)

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で、この二人の大正時代の理科少年ですが、いずれも単純な優等生(出木杉くんタイプ)というよりは、理科に淫したエキセントリックな少年、一種の「理科馬鹿」として描かれているのが特徴。

そして作者はそれを是として、あくまでも温かい目で描写しています。作者が評価したのは、二人が現象の背後にある法則を理解しようとする態度で貫かれている点で、それこそが理科的態度だとする思想があったのだと思います。この点は、同時代に出た『理科趣味の友』という本のところで書いたこととも一致します。(http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/04/29/346744


一昨日紹介した黒岩氏の記事へのコメント(※)によると、著者の高田徳佐は1882年(明治15)の生まれ。東京高等師範学校を出た後、1911年(明治44)から38年間にわたって東京府立一中(現日比谷高校)の先生を務めた人だそうです。

(※)「神保町のオタ」氏による。典拠は『理科教育史資料』第6巻(東京法令出版、昭和62年2月)。

現役の理科の先生が描いた理科少年というわけで、物理君と正信君は、現実に作者の周りにいた生徒たちから発想されたのか、あるいはかつての自分自身をモデルにしたのか、いずれにしてもそこに作者の実体験が反映しているのではないかと思います。