トロートン望遠鏡…追加情報2007年08月30日 23時38分31秒

(上野の国立科学博物館に鈍く光るトロートン望遠鏡)

この望遠鏡の由緒来歴がどうもはっきりしない…ということを先日書いたのですが、虎ノ門天文会館でお世話になっている野地一樹さんから、『東京天文台90周年記念誌』という資料を教えていただきました。

で、結論からいうと、この望遠鏡は岩倉使節団と直接の関係はなさそうだということが見えてきました。

以下、多少不得要領ながら、虎ノ門のメーリングリストに書き送ったことを再録します。

  ★    ★    ★

野地様

たいへん貴重な資料をありがとうございました。
しかしどうも固有名詞が入り乱れて、混乱しそうです。
改めて時間を追って自分なりに整理してみました(〔 〕内はウィ
キペディア等による追加事項)。

●明治の初め、複数の関係者が、編暦業務を遂行するため、新式天
 文台の建設を提案していた。
●最初に編暦を担当したのは、文部省星学局(大学内に設置)で、
 この星学局を中心とした一派が6,000ドルの予算で赤道儀の購入を
 計画した。
●1870年閏10月、星学局は、鮫島少務弁使〔鮫島尚信〕のヨーロッ
 パ赴任に合わせて5,000両を託し、赤道儀他の天文機器の購入を委嘱
 した。(注:原文では主語がはっきりしません。文脈からは上のよ
 うに読めます。)
●〔1871年、鮫島がロンドン着。以後、主にパリにあって外交任務
 に当った。〕
●〔1871年11月 岩倉使節団出発。〕
●1872年10月、星学局は、天文機器購入費用の追加として、洋銀
 5,000ドルを鮫島あて送金。(注:同上)
●〔1872年末~1873年はじめ、鮫島、パリで岩倉使節団を迎え入れ
 る。〕
●〔1873年9月、岩倉使節団帰国。〕
●〔1875年、鮫島、体調を崩し帰国。〕
●1876年2月、編暦業務が文部省から内務省に移管。
●1876年4月、内務省のお雇い外国人、ヘンリー・シャボーが20セ
 ンチ赤道儀の購入を建議(見積もり価格900ポンド)。
●〔1878年、鮫島再度ヨーロッパに派遣。1880年、鮫島パリで客
 死。〕
●1888年、東京天文台設立。
●1889年4月1日、トロートン望遠鏡が内務省地理局から東京天文台
 に移管される(備品台帳上は「購入」と記載)。

■以上から分ること■

①望遠鏡の購入を委嘱されたのは現地の外務官僚であり、岩倉使節
 団は同時期に滞欧していたものの、直接の関係はなさそう。
②上記委嘱は1870年の時点で行われたが、その後すぐに望遠鏡が購
 入された形跡はない。
③内務省地理局では1876年の時点で、改めて20センチ望遠鏡の購入
 を計画している。(即ちトロートン望遠鏡購入の上限は1876年。)
④その結果購入された望遠鏡が、1889年の時点で東京天文台に移管
 された。

■依然分らないこと■

①1870年、72年に鮫島宛送られた天文機器購入費用はどうなったの
 か?そのまま後のトロートン望遠鏡購入費用に当てられたのか?
②1876年~1889年の、いつの時点で望遠鏡は購入されたのか?その
 とき、現地で購入に当ったのは誰なのか?

…といったところでしょうか。  (この項つづく)