トロートン望遠鏡始末2007年09月16日 22時26分48秒

東京天文台の年表をリニューアルしました(http://www.ne.jp/asahi/mononoke/ttnd/tokyo_observatory/table)。新しい情報も入れ込んであります。

トロートン望遠鏡の来日をめぐるストーリーを、状況証拠から大胆に推測してみます。もちろん、これが正しいという確証はありませんが、矛盾のない形で各イベントをつなぐと、こんなふうではなかったかな…という、一種のノベライズです。

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1870年(明治3)と72年(明治5)の2回にわたって鮫島外交官に託された、合計1万ドルもの天文機材購入資金。あとは予定の機材を買い上げるばかりとなっていたのですが、ここで問題が起ります。すなわち組織の急速な改変と、その性格の変質です。

そもそも機材の購入を計画したのは、大学の星学局だったわけですが、1872年8月に星学局は天文局と名称を変え、大学から文部省直属の組織となります。一応この時点で5,000ドル(天文関係以外の費用も含めれば6,000ドル)の追加支出が認められたわけですが、文部省に移った天文局は、太陽暦への移行や、頒暦に伴う事務に忙殺され、天文台建設を担うことが事実上不可能となっていました(『東京大学百年史/部局史3』816頁参照)。

したがって、いったん購入が決まった機材も、おそらく1872年末の時点で発注がペンディングされ、いったん計画は凍結されたのだと思います。さらにその後、1875年(明治8)には、現地責任者だった鮫島外交官も体調を崩して帰国してしまいます。

事態が再度動き始めたのは、編暦事務が内務省に移管された1876年(明治9)2月のことです。内務省は本格的な天文台の建設に意欲を見せ、旧星学局の計画を下敷きにして、20センチ屈折赤道儀を主力とする機材購入計画を改めて提出します。この処置は何ら新たな支出を伴うものではなく、以前からの経緯を考えれば、ごく自然な成り行きでもあったので、速やかに現地に発注がなされたのでしょう。

ところがここで事態は再び妙な動きを見せます。
天文台建設で競合する関係にあった海軍水路部から強硬な反対意見が出されたために、翌年(1877年、明治10)内務省自ら天文台建設計画を撤回してしまったのです。内務省は「本格的な天文台建設は3、4年棚上げにして、まずは量地課のスタッフを増員し、機材は同課の既存機材を流用する」という方針を打ち出しました。

既に発注がなされた機材は、1877年(明治10)以降、順次到着したはずですが、その受け入れ先が問題です。もちろん一部は内務省がそのまま保有し、それを基礎として1880年(明治13)に、「縮小天文台計画」が立案・実行されます。

しかし、そこに収まりきらなかった機材をどうするか。その一部は、内務省から文部省に再度管理替えされた形跡があります。1878年(明治11)2月に、文部省が東京大学理学部観象台の設立を計画した背景には、そのことが追い風として吹いていたのでしょう。同年9月には、文部省から大学に対して15センチ赤道儀と6センチ子午儀が交付されています。この件は前後の記事からすると唐突な感じがするのですが(文部省がなぜそんなものを持っていたのか)、上のように考えれば整合します。

さらに内務省の機材が大学に渡ったことを直接示す証拠もあります。それは年表の1880年(明治13)末尾の記事で、「この年、内務省から大学に対して録時筒〔クロノグラフの類か〕と大型の赤道儀が送られたが、結局内務省に返還した」旨記載されています。15センチ赤道儀のほかに「新たに送られた大型赤道儀」とは、すなわちトロートン望遠鏡に他ならず、トロートン望遠鏡は着荷後いったん大学の手に渡ったものの、当時の大学の観測施設では十分な運用ができなかったために、内務省に返還されたことが窺い知れます。

ちなみに1878年に文部省が交付した6センチ子午儀とは、現在も三鷹にあるトロートン・シムズ製の1875年の刻印のあるものでしょう。(http://mononoke.asablo.jp/blog/2007/07/11/1645489
同じメーカーのものなので、この子午儀はトロートン望遠鏡と同時に発注されたものではないでしょうか。ただし、子午儀の方は小型の機材なので当然既製品、20センチ赤道儀の方は受注生産だったでしょうから、発送の時期にずれがあっても何ら不思議ではありません。いずれにしても発注の時期は1876年~77年(明治9~10)頃と思われ、上記の推測と矛盾しません。

大学に送られる前か、大学から返還された後かは不明ですが、まだ据付前のトロートン望遠鏡の姿を目撃したのが、同じく1880年に東京を訪れたイギリス人、ヘンリー・パーマーです(年表にある10月6日というのは、彼が駐留先のホンコンに戻ってから覚書を書き上げた日付であり、その実況を見たのは多分春~夏ごろでしょう)。文中「新着の8インチ赤道儀」とわざわざ書いているので、トロートン望遠鏡の到着は1879年(明治12)後半から80年(明治13)前半頃、即ち上のトロートン子午儀よりも1~2年後だったろうと思います。

なお、トロートン望遠鏡をいったんは大学に引き渡したことからすると、1880年の時点では、内務省に大型天文台を建設する腹積もりはまだなかったことが明らかです。内務省が海軍観象台と同規模の天文台設立を再度公言するのは翌1881年(明治14)のことです。


■■まとめ■■

トロートン望遠鏡は1870年(明治3)に購入が計画されたものの、受け入れ側の都合により、実際の発注は1876~77年(明治9~10)頃にずれこみ、日本に到着したのは1879~80年(明治12~13)であった。来日当初、内務省からいったん大学に引き渡されたものの、間もなく内務省に返却され、その後は赤坂葵町の内務省地理局構内に据えつけられて観測に用いられた。1888年(明治21)9月、東京天文台の設立に伴い、内務省から東京天文台に移管。1893年(明治26)7月に赤坂から麻布に移設。さらに1924年(大正13)、東京天文台の三鷹移転にともない同所に移設された。現役を引退後、1967年(昭和42)に国立科学博物館に移管され、1999年(平成11)、国の重要文化財に指定され現在にいたる。

■付記■

さて、前に書いた「資料」というのは、佐藤利男氏の『星慕群像―近代日本天文学史の周辺』(星の手帖社、1993)に引用紹介されていたものです。

年表中でも記事としてあげましたが、改めて書き出せば、1つは「青山墓地に眠るイギリスの天文学者、パーマー」の章に出てくるもので、外交史料館所蔵の「天文台及測量部設置ニ関スル在香港パルーメル氏ノ意見書」という綴りに綴じ込まれた覚書。ヘンリー・スペンサー・パーマー(1838~1893)はイギリス陸地測量部所属で、当時イギリス陸軍の工兵少佐として香港に駐在していた人物です。

もう1つは、「草創期の東京天文台で活躍した團琢磨」という章に出てくる『東京大学第三年報』中の「星学教師ポール申報」です。ヘンリー・マーティン・ポール(1851~1931)は、1880年に東大に赴任した星学専任教授です。