愛しき鉱石キャビネット(2)2007年12月03日 19時57分29秒

そもそも、私は鉱石マニアでは全くなくて、「鉱石の並ぶキャビネット」を愛する者なのです。

これは、単品の標本ではなく、総体としてのコレクションを愛でるのとも一寸違います。コレクターとはモノ自体に愛を注ぐ人であり、モノの集積たるコレクションの完成度を競うのに対し、キャビネット好きの人間がこだわるのは、そこに漂う博物学的色彩であり、味わいであり、香気であり、モノを離れた抽象的な「何か」です。

この辺は、どうもうまく説明ができないのですが、例えば「本も好きだが図書館も好き」、あるいは「本以上に図書館が好き」という人は結構いそうです。同様に、博物館の空気が好き、プラネタリウムの空気が好き、という人も多いでしょう。キャビネット好きというのも、それと相通ずるものがあります。

特定の空間に満ちた、そうした「空気」を愛するというのは、たぶんその場所と、過去の深い情緒的経験が、連想の糸で緊密に結びついているためでしょう。ここで情緒的経験というのは、輪郭の明らかな単独のエピソードというよりは(そういう場合もあるかもしれませんが)、いくつかのエピソードが縒り合わされてできた、一種のイメージの束、コンプレックスだろうと思います。

その追体験を求めて、繰り返しその場に立ち返ること、それは「捉われ」以外の何物でもなく、はっきりと強迫的な色彩があるのですが、同時に何ともいえない甘美さを伴うことが、この捉われの特徴です。一種のプルースト的な体験といえばいいのでしょうか。

ともあれ、標本棚や理科室に漂う空気は、私にとってとても大切なものであり、圧倒的な意味を持つものなのです。理科室の魅力や標本棚の魅力を言葉で語ることも、たぶんある程度まではできるでしょうが(だからこそこうしてブログも続けているのですが)、何か言葉にならぬものがその先に控えているのを感じます。

意識の古層に横たわる、言葉を越えた「経験」そのもの、それを求めて今宵も鉱石の棚をそっと開けるのです。

(この項つづく)