暗い理科室 vs. 明るい理科室2007年12月07日 20時05分22秒


昨日の朝日新聞の朝刊を見て、「おっ」と思いました。

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小学生のころ、木造校舎の理科室は、近づきたくない場所だった。遮光した薄暗がりにホルマリン漬けの標本がひっそり並び、何より、あの人体模型が突っ立っていた。オバケが出るという噂もあった。▼あのころの理科室の光景が、同世代の「科学する心」にどう作用したかは知らない。今の理科室は明るく、設備も充実していると聞く。ところが日本の15歳は、科学への興味が世界でも際立って低いらしい。明るくない実態が浮かび上がっている▼経済開発協力機構(OECD)の国際学力テストの結果、日本は…〔以下略〕 =天声人語=

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「そうか!理科室が明るくなったために、理科の魅力が薄れ、学力が下がったんだな」…というのは完全な誤解で、天声人語子の主張を曲解していると思いますが、しかし、そう思いたくなるほど理科に対する「情念」が薄まっているのは事実のようです。

まあ、日本一国にとらわれず、他国に理科好きの少年少女が輩出しているなら、それはそれで結構だと思いますが、しかし身近な子どもたちと話が噛み合わなくなるのは、少々寂しいことですね。

それにしても、あの「天声人語」に、理科室と人体模型が載るのは、ひょっとしてこれが最初?で最後かもしれません。それを思うと、これは歴史的な紙面ではありますまいか。

コメント

_ S.U ― 2007年12月08日 16時05分16秒

本当に誤解であれば良いのですが...
子どもたちの興味を引きたいあまりに「わかりやすい」、「楽しい」、「見た目に
かっこいい」理科を追い求めすぎて、本当の理科にある深淵、自然に対する畏怖、
そして、足穂が指摘するところの未来的、機械的、A感覚的といえる感性を、明るい
理科室が覆い隠すとしたら、子どもたちの興味は一時的なものに留まり、やがて
感動はなくなり、彼等は興味を失っていくのではないかと心配します。
明るい理科室は、科学に「ふれあうきっかけ」になるという意味ではいいかも
しれませんがその後のフォローに期待が持てないとしたらどうでしょうか。現に、
本調査では、科学に関する「長期的な」関心はまったく向上していないようです。
朝日新聞コラム子も無意識にそれを心配してこのようなことを書いたのだと
思います。本欄末尾の「満腹にさせてはいけない」という朝永博士の言葉は、
静かに思索を重ねることにより、自然の深淵に近づく計算方法を発見した人の
言葉として重みがあります。

望遠鏡を虚空に向けること、キャビネットに鉱石の紙箱を並べること、それだけの
ことにシンプルに魅力が感じられなければならないと思います。アインシュタインは、
5歳の時に買ってもらった方位磁石が北を指すのが不思議でたまらず、おそらくは
これが後の相対性理論の発見にまでつながったということが多くの伝記で指摘
されています。玉青様は、目を引く実験も良いとしても日常のものに不思議を
感じとらねばならない、というような意味のことを膨大な「天文古玩」のどこかに
書いていらっしゃったと思います。同感です。

大人が子どもにできることは、せいぜい磁石を買い与えることだけかもしれません。
そして、それが、うす暗い理科室で静かに北を指している、こういう空間が
より必要なように思います。

_ 玉青 ― 2007年12月08日 20時37分21秒

コメントありがとうございます。

なぜ青少年の理科離れが生じたのか?
じっと考えても、いまだにその理由がよく分りません。
それとも、理科も数学も歴史も美術も、みんな離れつつあるのでしょうか?

パッと思いつくのは、自己効力感の全般的低下といいますか、「自分ひとり頑張っても大勢に影響はない」という気分が蔓延して、焼け付くような探究心の刃先が鈍っているのではないか?ということです。しかし、では半世紀前の若者が自己効力感に満ち満ちていたのか?と考えると、当時は当時で「無気力なしらけた若者」が問題になっており、どうもこれは通時代的な嘆きのようでもあります。

一つはっきり言えるは、理科離れは分りやすい1つの理由で説明がつくわけではなく、いろいろ複合的な要因があるのだろうということです(全く答になっていませんが)。

 ▼

さて、我が身を省みて、冷や汗が背中をしきりに伝います。
Uさんは、巧みにフォローしてくださいましたが、我が身はいったいどうなのか?

拙ブログは、ひたすら暗い理科室の魅力を説き、そうした世界の創出を夢見ているのですが、見方を変えれば、単なる猟奇趣味のようでもあり、それが「科学する心」にプラスになっているかと問われれば、全く自信がありません。鉱石を紙箱に入れたり、標本をあれこれ飾ったりしても、そこから真の理科マインドまでの道のりは非常に遠いのではないかと反省しています。

辛うじて、明るいだけのノッペリした理科室に対する対抗勢力として、その謎めいた奥深さを伝える旗振り役の意味はあると自負していますが…。

_ TOKO ― 2007年12月08日 22時38分30秒

玉青さんのおっしゃりたいことが身にしみてわかります。

私が現在働いている職場には、実験をするのに適した明るくて便利な実験室がありますが、それはあくまで「実験のしやすい単なる作業場」であって、決して理科室ではないのです。そこには好奇心を刺激する暗闇は存在しません。安全衛生と作業効率を考えて作られた職場の実験室と、今の学校の理科室が同じ姿なのだとしたら、そこに「理科室の魅力」は微塵もないことを証言いたします。

しかも私が中学生だった頃はMacが学校に進出し始めた時代で、Macのヘビーユーザーだったある理科教師が理科の授業にMacを使い始めたために(特に私にとっての)理科の魅力は激減しました。小中学校に理科の授業は自然科学を体感する貴重な場だというのに…。

それできっと、少年少女はゲームのダンジョンの暗闇に好奇心を向けるのです(思いっきり私見です)。

_ 玉青 ― 2007年12月09日 11時01分31秒

TOKOさんや、Uさんのように、リアル理系の方の共感が得られたというのは、本当に心強く思います。やはり、何か大切なものが抜けているのです。理科室を暗くしただけで問題が解決するとも思えませんが、何か大切なものが…。あるいは、朝永博士が憂えたように、問題は「何かの不足」ではなく「過剰」なのかもしれません。それとも、その両方でしょうか。

TOKOさんが仰るように、闇の部分に惹かれる心は、今も全く変らないのでしょう。問題はその方向性ですね。まあ、最大の闇は人の心かもしれないんですが、それ以外にも現実世界には深い謎が限りもなく広がっていることに、子供たちはそのうち気付くでしょうか。ゲームをしている場合じゃありません。

みながみなアインシュタインにはなれないにしても、一人のアインシュタインや、結晶に興味を持った少女が現れたときに、その疑問や好奇心を正面から受け止めてくれる人の存在はとても大切ですね。それは教師であってもいいし、あるいは家族でも、近所のおじさんでもいいわけですが、そうした人間関係がやせ細ってしまったことが、あるいは好奇心の成長を阻んでいるのではないか…今、書きながらそんなことを思いました。

ところで、TOKOさんの思い出話、とてもいいですねえ。心に沁みる話です。

このコメントを読まれた方は、ぜひ以下もお読みください。

■我楽多倶楽部・部活動日誌 http://www.junk-club.com/diary/
(12月8日「理科実験の思い出」の項)

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