理科少年のタイプ論2008年11月19日 20時44分03秒

とこさんの「我楽多倶楽部」でまた興味深い記事を拝見しました。
とこさんも、いろいろコメントされていますが(http://www.junk-club.com/diary/?p=1004)、このブログにも縁の深い話題なので、私も一つ便乗して記事を書いてみます。

問題の記事は、Tech総研の「“理科少年には3つのタイプがある”の法則」というタイトル。
http://next.rikunabi.com/tech/docs/ct_s03600.jsp?p=000005&__m=1

原著者は、まず「理科」と「文学」とを対照させて、自分の外にある自然界に興味を向けるのが理科好き、自分の内にある精神世界に興味を向けるのが文学好きとくくっています。

で、その理科好きをさらにタイプ分けすると、図工の好きな<工作型>、図鑑や標本の好きな<博物型>、算数の好きな<計算型>の3種に分類することができ、この3タイプは、それぞれさらに、既存の枠の中で活躍する「スキル系」と、自ら新たな枠を作り出す「創造系」という2種類のサブタイプがあるので、理科少年には都合6つのカテゴリーがある、というのが記事のあらまし(ちょっと私なりの解釈も加えました)。

眺めていると、具体的な顔が生き生きと思い浮かぶのは、この分類が優れた着想に基づいている証拠でしょう。ただし、この類型論の第1段階で、「理科少年」から「文学好き」の資質が真っ先に排除されているのは、ちょっと違和感があります。

理科少年は明朗闊達な赤い頬の少年ばかりではありませんし、むしろ典型的な(理念形としての)理科少年は、病的なほど感受性の鋭い少年であったり、思考や行動が普通以上に内向きであったりするんじゃないでしょうか。(反対に文学少女や文学青年だからといって、いつも夢見がちの瞳でうっとりしていたり、肺を病んで青白い顔をしているわけでもありません。)少なくとも、賢治や足穂が理科少年の資格なしとされるような分類は、何かを見落としているような気がします。原著者は、どうも「理科少年」と「技術者」を重ねて見ているらしいので、そこでバイアスがかかっているのかもしれません。

改めて考えてみると、原著者の挙げる「理科-文学」の対照は、心理学でいうところの「外向-内向」の考えとほぼ重なっています。これは人間の基本的な行動・認知のスタイルであって、理系と文系というアーティフィシャルな学問分類体系とは、本来無関係のはずです。でも、そこに何か関係があると思って論を進めたところに混乱の元があったのでした。

で、私なりに元の体系を改良するなら、第1の分類枠も理科少年のタイプ分けに取り込んで、「外向型理科少年」と「内向型理科少年」の区別をまず設けたいと思います。で、「工作」「博物」「計算」の各軸に、この「向性」の軸を直交させると。つまり三矢サイダーの矢羽模様の中心に棒を突き立てたイメージですね。これが仮想的な「理科少年の空間」です。(なお、「スキル系」と「創造系」の区分は、「外向-内向」と重なる部分が多いので、ここでは割愛します。)

そして、各軸は相互に排他的ではなく、独立した連続量をとりうるものとすれば、一人の理科少年は(原著者が言うように)この空間内で1つの点(××タイプ)として定位されるわけではなく、独自の形と広がりを持ったユニークな存在として表現されることになります。(より正確には、時間とともにこの空間内で生成変化する群雲のような感じでしょうか。)

便宜的に各軸を5段階(向性は内向を負、外向を正として-5~+5)で表現すると、私の自己評価は現在[向性-4、工作2、博物4、計算1]くらいです。(もちろん私は「理科少年」ではありませんが、ここでは老若男女を問わず、広く「理科趣味の徒」と考えることにしましょう。)

ところで、とこさんは「理科少年とは別に『理科少年が好きな人、その雰囲気を気に入っている人』も居ます」という指摘をされています。以前、別の記事で書いた表現を使うと、「文系(あるいは叙情派ないし軟派)理科趣味」に近いと思いますが、これを強引に上のモデルに当てはめると、そういう人は「極端に内向型の(=現実の事象より自分の内界のイメージを大事にする)理科趣味の徒」として捉えることができるかもしれません。

以上、取り急ぎの試論です。(ブログのカテゴリはとりあえず「理科室」に入れておきます。)