めでたくもあり、めでたくも…2008年11月25日 20時47分29秒


天文とも鉱物とも関係のない呟きです。
今日は年に1度巡ってくる日。

現代において中高年の誕生日が格別めでたくないのは、それが老いや死をただちに連想させるからでしょう。一休和尚風に言えば「冥途の旅の一里塚」というやつです。

しかし、考えてみると「死」が「老」と結びついたのは、本当にごく最近のことで、ちょっと前まで「死」は圧倒的に「乳幼児」と結びついていました。今でも少なからぬ国がそうでしょう。

そして乳幼児期を脱してもなお、死は常に身近にあり、同世代の友人知人の幾人かは、毎年確実にあの世へと旅立った。だからこそ人口ピラミッドは、文字通りピラミッド型をしていたわけです。

今では、殆んどの人が自動的に老人になりますから、老いという現象を社会の側もご当人も甚だ軽んじていますが、昔は天寿を全うできたのは、ほんの一握りの人だけですから、老人はまさに人生のエリートであり、それだけ尊ぶに足る存在だったのだと思います。

もちろん老いの先には必然的に死があるわけですが、それは「めでたい死」であり、周囲も「ああ、あやかりたい」と手を合わせるような死だったんじゃないでしょうか。

調べてみたことはありませんが、「ぽっくり寺」というのも、「長患い」したくてもできない時代には成立しようがないわけですから、その習俗は意外に新しいような気がします。

…と理屈をこねた上で、やっと一年を生き延びたこと、そして齢を重ねたことの喜びが感じられるというのも、幸せすぎて不幸な時代なのかもしれません。今宵は余生を引き算して嘆く前に、古人の如く人生の足し算を素直に感謝しようと思います。


(追記:老いを嘆く場面は古典にも数限りなくありますし、仏教でいう四苦の一つには違いないんですが、でも、何か苦悩の質が「後期高齢者」というグロテスクな発想が横行する時代とは、違ったような気がします。)

(写真の背景は、宮崎学写真集 『死-Death in Nature』、平凡社、1994。野生生物の死体が白骨化するまでを追った異色の作品)