『星の世界をゆく』…星景画の時代(その4)2008年12月09日 21時56分41秒

せっかくなので、もう1枚だけ載せておきます。

Mondlandshaft ―「月のある風景」。

ありがちな構図ですが、波立つ湖面に月が影を落とす様子や、雲間を照らす明暗の描写が、なかなかいいですね。前にも書いたように、この本の挿絵(石版画)は、色使いがちょっと重たいのですが、ここではそれが良い効果を上げているようです。

手前の人家を見ると、左側の窓だけポツンと灯がともっているのも、どこか謎めいた感じ。この家の住人は、月明かりを見つめながら、何か書き物でしているんでしょうか。

  ★

ところで、ドイツ語の Mond (月)とフランス語の monde (世界、人々。ル・モンド紙の“モンド”)って、何か関係があるのかな…と思って辞書を引いたんですが、特に関係はないようでした。Mond と英語の moon が同根というのは、すぐに分かりますが、monde の方は、元々「土塁」の意味で、そこから「土塁で守られたもの」=「世界、人々」の意味になったとか。この意味は、英語に入って mound (ピッチャーマウンドの“マウンド”)になったと聞けば、なるほどと思います。

まあ、全然役に立たない知識ですが。

コメント

_ S.U ― 2008年12月10日 22時40分07秒

玉青様、こんばんは。
このような議論のときに、なぜ、ドイツ語では太陽が女性名詞で月が男性名詞になっていて、フランス語と逆なのか、ということがときどき話題になるようです。(Sonne, Mond, soleil, lune)
 明瞭な理由を知りたいのですが、たいていは、日本ではアマテラスが女神でツクヨミが男神で、ドイツ人は日本人と相性がよいのだとかなんとかとごまかされてしまいます。なんとかならないものでしょうか。
 また、mondeはMondと同様男性名詞ですが、ドイツ語の(世界、人々の)Weltは女性名詞です。まったくどうなっとるのでしょうか。

_ 玉青 ― 2008年12月11日 22時41分26秒

これは議論百出しそうな話題ですね。
そもそも名詞の性というのが、私にはいまだによく分かりません。

月は太陽に対して太陰ですから、陰陽でいえば女性の最たるものですよね。たぶん世界的にも月=女性という見方の方が、優勢なような気がするんですが、どうなんでしょう。

日本神話の構造はなかなか複雑ですね。
陰陽でいうと、イザナギが陽、イザナミが陰なんでしょうが、つらつら思うに、この男女二神のエピソードには、「陽と陰が合一して生命を生み出す」という観念と、「陽=生、陰=死」とする観念が混在していて、その辺で話がゴチャゴチャしてくるんじゃないでしょうか。

月の性格も多義的で、一方には冥界を統べるイメージがあり、他方には農業や漁業と関係する豊饒のイメージがあり…でも、そもそも女性が多義的なのか!…といったところが話のオチのような。。。

_ S.U ― 2008年12月12日 19時40分56秒

とにかく名詞の性は、私にとっては第二外国語を学ぶ上での不合理かつ理不尽な障害になるものとしか思えませんでしたので、どなたかその意味を解明してご説明をいただきたいものだと存じます。
  
 やはり素直に考えると「月=女性」が多数派でしょうね。でも、気候や緯度によって違う傾向があるかもしれないので、世界中をくまなく調べる必要があると思います。月にことさら神秘性を求めたり、これを狂気の原因のように扱う西洋と比べると、日本では月におだやかで良いイメージ与えていることが多いようでほっとします。(でも、女性についてはまた別!?)

_ 玉青 ― 2008年12月12日 21時14分30秒

あははは。まことに洋の東西を問わず、女性は神秘的で、狂気の原因かもしれませんが、穏やかかどうかは確かに別ですね。(せめて月だけは穏やかであってほしい、という願望がにじみ出たのかもしれません。)

ところで、昨日コメントした後も、月のこと、それに神話のことをしばらく考えていました。

子どもの頃に、月は夜出るものとばかり思っていたのに、昼間の空にも出ているのに気付いたときの驚きを、ぼんやり覚えています。それで、「何だか月というのは得体が知れないなぁ」と思い始めた気がします。あるいは、人類の精神史においても、それと似たステージがあったのかもしれません。

それと、日本神話と陰陽の件。
もう一度頭を整理すると、大いなる陽(イザナギ)の単為生殖によって、現象界の陽(アマテラス)と陰(ツクヨミ)が生まれ、その二気によって、人の生の営みが展開していく…と、まとめられないでしょうか。

ここで、時計を逆回しにすると、陰陽相和して大いなる陽(イザナギ=生)となり、それが大いなる陰(イザナミ=死)と合して始原の時に還る…というストーリーが描けます。イザナギは実は超性の両性具有者であり、それ自体「全き者」なのですが、やはりまだ足りない部分がある。それが「死」であり、生は本来的に死と惹かれあう…。何か、星野之宣さんや、諸星大二郎さんが漫画に描いていそうですが……いや、むしろ似非宗教家っぽいかも(笑)。

_ S.U ― 2008年12月13日 19時00分24秒

子どもの時に初めて気づいた昼の月、私も不思議に憶えているような気がします。どう感じたかはよく憶えていません。

 なるほど、ご達見だと思います。イザナギ・イザナミ神話は、世界を維持するためには個体の死が必要である、ということを象徴しているのかもしれません。なかなか先進的ですね。(以下、私なりにお説を解釈させていただきました)

 神話には、日本神話に限らず、世界を創生し改革(あるいは破壊)する神と、人間の世間を含めた実世界を統べる神がいるパターンがあり、原理的には前者が男性的で後者が女性的とされる。これを人間側から見ると、後者は俗世間の支配者として「陽」として見え、前者は「闇の世界(死の世界も含む)」の支配者として「陰」と見える。だとしますと、男神が「陰」であって女神が「陽」である、という多義性のあるパターンができあがります。

 たとえば、大本教では、開祖出口なお(女性)が男性格、教祖出口王仁三郎が女性格とされ、なおが厳格な立て替え・立て直しの神を体現したのに対し、王仁三郎は柔軟なスタンスで俗世間での活動をしていました。しかし、その教義を知っている信者にとっても、王仁三郎が「陽」で、なおが「陰」と見えたはずです。これは日本人のための宗教として、理解しやすく、かつ宗教の威厳と神秘性を保持できるパターンだったのかもしれません。

_ 玉青 ― 2008年12月14日 18時38分20秒

陰陽はあざなえる縄の如し。何とも不思議ですね。

創造と破壊が表裏一体…と聞くと、ただちにスサノオのことが連想されますが、彼がアマテラスやツクヨミと同時に生み出されたことに、今深い意味を感じています。日本神話侮り難し。

大本教の例も興味深く思いました。こういうのは、卑弥呼以来の一種の「型」なんでしょうか。

_ S.U ― 2008年12月14日 23時08分58秒

うーん。難しい問題ですね。いわゆる「建国神話」は支配者の戦いの歴史を正当化する意図も含んでいるでしょうから、創造とともに破壊も賞賛されねばならないのかもしれません。
 
 ところが、お風邪のほうはもうおよろしいのでしょか。お見舞い申し上げますとともに、大事をとられるようお願いします。 風邪気味の頭で神話の意味などを考えると、いろいろと思わぬ発展してよいかもしれませんが、それが嵩じてうなされたりするといけません。

_ 玉青 ― 2008年12月15日 22時41分20秒

風邪はもう大丈夫ですが、今宵は大事をとってお説に従います(笑)。

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