暦のはなし(3)…伊勢暦2009年01月04日 20時14分14秒

なぜか正月早々だというのに、家の模様替えの話が持ち上がって、いろいろ画策中です。この分だと、今年もずっとバタバタしそうな予感。。。

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暦の話を続けます。
地味というか、あまり話としては面白くはないんですが、せっかくなので、この機会に書いておきます。

写真は幕末の伊勢暦。文久2年(1862)と元治2年(1865)のものです。元治2年の方は、「五月より慶応元年と改元」と欄外に注記されていて、風雲急を告げる時代がしのばれます。新撰組やら篤姫の時代ですね。

伊勢暦は江戸時代に最も出回った暦で、伊勢のお札といっしょに土産物として地方に配られました(伊勢暦は、暦だけを単独で販売するのは禁止されていました)。

伊勢にも内宮と外宮とがありますが、ポピュラーなのは外宮の方で、たくさんの暦師が乱立していましたが、一方、内宮の方は版元が一軒しかなく、この「佐藤伊織」というのがそれに当るのでしょう。

お経のような、折本仕立てになっているのが、伊勢暦の特徴。高さは文久が約23センチ、元治が約26センチあります。

内容は、言ってみれば現代の高島暦の親分のようなもので、びっしりと暦注があり、その日の吉凶が記されています。まあ、江戸時代の人は相当開明的になっていたので、平安貴族のように物忌みや方違えをした訳ではないでしょうが、今の目からすれば相当仰々しい感じがします。当時の人々の精神生活がうかがわれます。

肝心の天文史のことを言っておくと、当時の暦は、天保暦(天保壬寅元暦)と呼ばれたもので、日本における最後の、そして最もすぐれた太陰太陽暦であり、近世天文学の総決算の意味を持つものでした。
(今の高島暦とか、天気予報で言う「今日は旧暦の○月○日…」というのも、すべてこの天保暦を踏襲しているので、ある意味では現代でも生きている暦法です。)

この偉業を成し遂げたのは、渋川景佑(カゲスケ、1787~1856。近世天文学界の鬼才、高橋至時 ヨシトキ の次男)、足立信頭(ノブアキ、1769~1845。師は麻田剛立 ゴウリュウ。高橋至時とは兄弟弟子の関係)の二人です。

ただし、実質はこの2人の学者の努力で完成した暦とは言え、建前上は、「陰陽頭」の安倍晴親が校正し、「暦道本家」の土御門春雄が帝に奏上して布告された…というのが、前近代社会の限界であったとも言えます。