コメント

_ S.U ― 2009年04月04日 00時03分53秒

こ、これぞ、タルホの『黄漠奇聞』のエンディングの世界ですね。
我々が、これを見ているうちに...ああ、その短い時間のあいだにすべてが消え失せてしまいそうな...

_ 玉青 ― 2009年04月04日 11時15分27秒

おお、この品はタルホに捧げることにしましょう!

砂漠の真ん中に建設された、壮麗な白い都市。
かつて神の都をもしのぐと言われた、大理石の街並みも、不可思議な時のはざまで夢幻のごとく消えうせ、ただ新月の輝きだけが昔に変らず…。

とはいえ。人の記憶とイマジネーションは、時に月をも、星をも、さらに宇宙をも越えるのではありますまいか。果たして狂王と神との勝負は本当に決したのかどうか、そしてバブルクンドの都は永遠に失われたのか、私は微妙に疑っています。(あの王はなかなか魅力的な人物に描かれていますね。)

_ S.U ― 2009年04月04日 16時48分21秒

 バブルクンドの王は神よりも人間を信じたという意味では人間的な人だったのでしょう。現代人は、イマジネーションをどんどん広げたり、神の領域にハイテクで挑んだりして危なっかしい限りですが、それでも自然の法則を踏み越えることは決して出来ない、ということをすでに知っていますので、それが気持ちの安全弁になっているのかもしれません。
 私は、それを知らない狂王に処刑されてしまった学者さんたちが気の毒でなりません。

_ 玉青 ― 2009年04月04日 18時53分34秒

(笑)確かに、紙幅の都合なのか、途中から名だたる碩学たちがズバズバやられて、可愛そうですね。

ところで、「一千一秒物語」などの初期短編には、(月/土星/ほうき星/星)を相手に(ケンカする/ピストルで撃つ/食べる/石を投げる/いらざる悪口を言う)という話がやたらに出てきます。

で、私にはバブルクンドの王が、何となくタルホの分身、あるいは前世のように感じられます。『黄漠奇聞』の最後は、ダンセーニと「私」が砂漠を行くシーンで終わりますが、その辺にも足穂の思いがにじんではいないでしょうか。(彼もペンでズバズバ学者を斬っていたかもしれません・笑)

作中の王は、人の似姿としての神よりも、人間そのものを、そして何よりも「造化」を高く評価していた…という点が、ちょっとモヤモヤする(もうちょっと跡付けたい)部分です。

_ S.U ― 2009年04月05日 09時03分25秒

足穂の文学をそのような視点で考えたことはなかったので、今後の睡眠導入を兼ねた検討課題とさせていただきます。

>作中の王は、...、そして何よりも「造化」を高く評価

 これは「天体博物学的」指向ですね。確かに、この王に共感できるところが多いです。

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