賢治の理科教材絵図(3) ― 2009年07月01日 20時18分04秒
賢治の科学観…というような話題を、コンパクトに書くことは、とてもできそうにないので、この件はしばらく寝かせておくことにします。
ここでは天文古玩的に「モノ」のレベルにこだわって、賢治の絵図について、気付いたことをメモしておきます。
(1)絵図の大きさ
この本(『宮澤賢治 科学の世界』)を含め、手元の本には、なぜか絵図の大きさが書かれていません。それだと現物をイメージしづらいので、文中の記述をもとに大体の大きさを書いておきます。
まず、通番2「原子・分子と岩手県」の図↑では、一番下の水素原子の直径(電子軌道径)が16センチとあります。とすると、絵図全体のサイズは、約60×40センチ(本に掲載するにあたって、周囲がトリミングされている可能性もありますが、とりあえず印刷された部分のみ考えることにします)。
また通番10「土壌粒子の粒径区分」では、土壌の顕微鏡拡大図の視野径が9センチとあるので、同じく約56.5×32センチに相当します。
さらに通番4「日出・日入時刻と日照時間」は、図中の賢治のメモ書きから判断して、約38×25.5センチの大きさ。
要するに、賢治はA2版(59.4×42センチ)やB4版(36.4×25.7センチ)に近い大きさの用紙を使って作図したようです。「掛図」というには一寸小さいですね。手書きという制約もありますし、羅須地人協会の教室(※)は10畳間程度なので、これで十分だったのかもしれません。ただし、下述のように花巻農学校でも使っていたとすると、やや小さすぎるような気もします。
(※)以下のサイトに内部の様子が紹介されています。
○宮澤賢治の里より:羅須地人協会について(その6:賢治先生の家)
http://blog.goo.ne.jp/suzukikeimori/e/52536250784dd27e3343b080ec4266f1
(2)これらの絵図はいつ作られたか?
今回、一連の記事を書くにあたって、畑山博氏の『教師宮沢賢治の仕事』(小学館、1988)を通読しました。これは教師としての賢治の姿を、昔の教え子たちに取材してまとめた労作です。同書を読むと、人々の記憶の中では―ごく自然なことですが―かなり理想化・神格化されている気配があって、ただそれを割り引いても、彼はきわめて魅力的な先生であったようです。(前回、唐突に「土」の話題が出てきたのは、畑山氏の本にそれが感動的なエピソードとして書かれていたことに由来します。)
で、そこに次のような話が出てきます。
「羅須地人協会で、賢治先生が、青年たちに講義をするために作られた教材絵図がありますね〔……〕あれは、羅須地人協会のために初めて賢治先生が作ったもののように皆思われているようですが、実はそうではありません〔……〕農学校で、同じものを、すでにわたしたちも習っておったのですよ」(話者:瀬川哲夫氏、上掲書68ページ)
現存する絵図が、花巻農学校時代にも既に使われていたのか、あるいは農学校で使われたのは似たような別の図だったのかは不明ですが、現役教師時代にも、賢治が手製の教材を使っていたのは確かなようです。
既製の教材にあきたらず、いろいろ工夫していたのは、賢治がごく良心的な教師だった証拠でしょう。(彼は英語、代数、化学、気象、作物、土壌、肥料、実習を担当しました。)
上の画像の中央右に見えるのは水素分子の運動模式図です。
「これは水素ガスの分子運動なのです。/水素ガスの分子が、一秒間にどれだけ多く他の分子にアタックする機会があるかということを示しています。/何回だと思いますか。/100億回。100億回ですよ。/生きものたちの身体を作っている分子たちだって同じです。/生物でない無機物だって同じです。/無機物のからだの中でだって、同じように分子たちは飛びまわり、いつもぶつかり合っているのです。/そうなると、生きものも無機物も区別のつかない面も出てきます。/そうです。そうなのです。/こうしてじっと息をつめていたって、細胞は、黙ってないんだ。/黙ってない細胞が沢山集まって出来ているのが人間なんだ。/人間というのはだから、細胞が集まってやっているお祭りなんですね。」(同、77‐78ページ)
賢治の教え子・瀬川哲夫氏が、遠い日を回想して再現した賢治の授業風景です。
夢のような光景であり、体験ですね。。。
賢治とサイエンス・エイジ ― 2009年07月02日 21時58分06秒
■以下、前の記事にいただいたS.Uさんのコメントへのレスを兼ねて■
「1秒間に100億回の衝突」というのは、大正11年に翻訳が出た、ジョン・ミルス著、寮佐吉訳『通俗電子及び量子論講話』という本に出てくる一節だそうですが、賢治はこれに強い印象を受けたようです。
「静の中の動」、「動を秘めた静」というのが、いかにも賢治的ですし、その点が賢治の心の琴線に触れたのでしょう。
『宮澤賢治 科学の世界』によれば、上の本は、「物理学に関する賢治の唯一の蔵書」だそうで、そのこともちょっと意外な感じがします。
訳者の寮佐吉については、お孫さんである作家の寮美千子氏が以下のようなまとめをされています。内容は、大正期におけるアインシュタインブームと通俗科学書の流行、その中で科学ライター・寮佐吉が果たした役割、そうした時代相と賢治の宇宙観・科学観の醸成との関連をめぐる一連の論考。
★HARMONIA :祖父の書斎/科学ライター寮佐吉
http://ryomichico.net/sakichi/index.html
賢治作品と大正時代の科学思潮との対応関係は、多分これまでもいろいろ論じられてきたのではないかと思いますが、とても興味深い問題です。あるいは賢治作品というのは、宮澤賢治という一個人を通じて受肉した、人類の巨大な知的跳躍の経験そのものではあるまいか…とまで言うと、つまらない駄法螺になってしまいますが。
ちょっとまじめに考えると、大正時代の科学至上主義の背後には、明瞭に軍事のテーマがあったはずなので、そのことに賢治がどう対峙したのかは気になる点です。
「1秒間に100億回の衝突」というのは、大正11年に翻訳が出た、ジョン・ミルス著、寮佐吉訳『通俗電子及び量子論講話』という本に出てくる一節だそうですが、賢治はこれに強い印象を受けたようです。
「静の中の動」、「動を秘めた静」というのが、いかにも賢治的ですし、その点が賢治の心の琴線に触れたのでしょう。
『宮澤賢治 科学の世界』によれば、上の本は、「物理学に関する賢治の唯一の蔵書」だそうで、そのこともちょっと意外な感じがします。
訳者の寮佐吉については、お孫さんである作家の寮美千子氏が以下のようなまとめをされています。内容は、大正期におけるアインシュタインブームと通俗科学書の流行、その中で科学ライター・寮佐吉が果たした役割、そうした時代相と賢治の宇宙観・科学観の醸成との関連をめぐる一連の論考。
★HARMONIA :祖父の書斎/科学ライター寮佐吉
http://ryomichico.net/sakichi/index.html
賢治作品と大正時代の科学思潮との対応関係は、多分これまでもいろいろ論じられてきたのではないかと思いますが、とても興味深い問題です。あるいは賢治作品というのは、宮澤賢治という一個人を通じて受肉した、人類の巨大な知的跳躍の経験そのものではあるまいか…とまで言うと、つまらない駄法螺になってしまいますが。
ちょっとまじめに考えると、大正時代の科学至上主義の背後には、明瞭に軍事のテーマがあったはずなので、そのことに賢治がどう対峙したのかは気になる点です。
動画で登場、パリの“理系骨董+古書”の店 ― 2009年07月03日 19時37分43秒
ちょっと賢治の話題を離れます。
例によって人から教わった情報ですが、ネット上にこんな動画が。
★Librairie Alain Brieux
http://www.alainbrieux.fr/video.htm
わずか1分あまりの映像ですが、店内の雰囲気はよく分かります。
(ぜひフルスクリーンモードでご覧ください。)
いやぁ、たまらないですね。
日本にもこういうお店があったら…
なければ、せめて雰囲気だけでも自前で作るか…!
と唐突に思ったりもしますが、目指せば目指すほど、ますます乱雑になって、かえって目標から遠くなるという矛盾にも直面しそうです。
例によって人から教わった情報ですが、ネット上にこんな動画が。
★Librairie Alain Brieux
http://www.alainbrieux.fr/video.htm
わずか1分あまりの映像ですが、店内の雰囲気はよく分かります。
(ぜひフルスクリーンモードでご覧ください。)
いやぁ、たまらないですね。
日本にもこういうお店があったら…
なければ、せめて雰囲気だけでも自前で作るか…!
と唐突に思ったりもしますが、目指せば目指すほど、ますます乱雑になって、かえって目標から遠くなるという矛盾にも直面しそうです。
衣替え ― 2009年07月04日 19時09分16秒
ブログのデザインを変えてみました。
特に深い意味はなくて、別に元のままでもよかったのですが、もうちょっとフォントやレイアウトを読み易くしようと思って、CSSの記述をいじっているうちに、だんだん収拾がつかなくなってきたので、思い切って別のテンプレートを使うことにしました。
そのうち、気が変わったら、また元に戻るかもしれません。
でも、こうして見ると、明るい背景に黒文字の方が、目には優しく感じます。最近、目が疲れやすいので、その点では今の配色の方が良さそうです。
特に深い意味はなくて、別に元のままでもよかったのですが、もうちょっとフォントやレイアウトを読み易くしようと思って、CSSの記述をいじっているうちに、だんだん収拾がつかなくなってきたので、思い切って別のテンプレートを使うことにしました。
そのうち、気が変わったら、また元に戻るかもしれません。
でも、こうして見ると、明るい背景に黒文字の方が、目には優しく感じます。最近、目が疲れやすいので、その点では今の配色の方が良さそうです。
彗星タブレット(1) ― 2009年07月05日 18時39分42秒
先日、デロールの店員さんに、デロールの絵本にメッセージをもらうという企画がありました(http://mononoke.asablo.jp/blog/2009/06/20/4377875)。
写真は、その件をお願いした待鳥さんから、絵本をお送りいただいた際に同封されていた品(コルク栓を除き、長さは約10センチ)。
戦前のかわいい錠剤びんの中には、小さく折り畳まれたメッセージが。。。
心憎いご配慮、改めてどうもありがとうございました。
同好の士とは実にありがたいものです。
待鳥さんは、ここにタルホ的空気を読み取っていますが、まさに然り、ですね。
★Mademoiselle Loulou:タルホとコメット
http://mllelou.blog10.fc2.com/blog-entry-30.html
写真は、その件をお願いした待鳥さんから、絵本をお送りいただいた際に同封されていた品(コルク栓を除き、長さは約10センチ)。
戦前のかわいい錠剤びんの中には、小さく折り畳まれたメッセージが。。。
心憎いご配慮、改めてどうもありがとうございました。
同好の士とは実にありがたいものです。
待鳥さんは、ここにタルホ的空気を読み取っていますが、まさに然り、ですね。
★Mademoiselle Loulou:タルホとコメット
http://mllelou.blog10.fc2.com/blog-entry-30.html
彗星タブレット(2) ― 2009年07月05日 18時45分26秒
甲虫女王、東京ヲ制ス。 ― 2009年07月06日 23時35分58秒

今、かなりショックを受けています。
以前も取り上げた、奇想系ブログ Curious Expeditions (http://curiousexpeditions.org/)。
それをさっき久しぶりに見たら、ちょっと下の方、6月14日の記事に、至極妙なフィルム作品の紹介があって、頭が混乱しています。
それがJessica Oreck (米)のプロデュースによる 「Beetle Queen Conquers Tokyo」。
同記事はフィルムの公式サイト(http://beetlequeen.com/)にリンクを張っています。
それをパッと見で紹介すると、日本人の昆虫愛好癖を切り口に、禅やら何やら日本文化をメッタ切りにして、返す刀で西洋の自然観に再考を迫るというもの。
「日本人を見習い、西洋人よ、すべからく自然との調和を図れ!」とぶち上げているのですが、これって本気なんでしょうか?
こうした主張自体、かなり遠い過去に属するステロタイプな論(そしてアメリカ人よりも、当の日本人が自ら好んで主張した論)と思えるのですが、そうなるとこれは比較文化論に名を借りた一種のパロディ作品なのでしょうか…?うーむ、分からない。ここは、もっと事情の分かる方に是非解説をお願いしたいところです。
予告編(http://www.vimeo.com/5020588)を見ると、希代の昆虫マニア・養老孟司氏へのインタビューがまずあって、現代のトーキョーの映像とかぶせて、いい年をしたクワガタマニアやら、夏休みの標本製作教室に集まる少年少女なんかが登場して、さらにムシキングが出てきます。
抱腹絶倒物のような気もするし、何だか日本人を「イエロー・フェイス」として、ことさら戯画化して描いた戦前のハリウッド映画のような、ちょっと厭な感じも受けます。
「日本人を見よ!我々が本能的とも思えるほど虫を恐れるのは、単に西洋文化における条件付けが生み出したトリックに過ぎない!」って、そんなにムキになって言うほど、現代のアメリカ人は虫が恐いんでしょうか。ちょっと意外ですね。
はっきり言って、一般の日本人はそんなに虫が好きではないと思います。
(「虫愛づる姫君」なども、近代的再評価はさておき、同時代の人にとっては単なる変態的な奇人に過ぎません。)
江戸時代にも昆虫を採集した人はいますが、それは蘭学や本草学を学んだごく一部の人であり、近代の昆虫採集趣味となれば、これははっきりと西洋の博物学の影響下で生まれたものでしょう。江戸時代の都市で流行した鳴く虫の飼育と、そうした昆虫採集趣味とは、明らかに不連続なものだと思うのですが、どうでしょうか。
曽祖父や曽々祖父の頃は、網を持って虫を追いかける西洋人を嗤って見ていたはずですが、何だかすっかり攻守所を換えた感があります。
虫を見れば、日本人のすべてが分かる―。
かつて西洋文明を全て「牧畜文化」から説明した人がいましたが、ちょっとそれに似たオッチョコチョイぶりを感じます。
昆虫の劇場…イタガキノブオ 「アリジゴク・エレジー」 ― 2009年07月07日 19時45分20秒
水の中にいるかのような、ねっとりとした空気。
どうも七夕は毎年こんな感じです。
★ ☆
さて、昨日の混乱が静まり、ちょっと冷静にものが考えられるようになりました。
昨日は例の作品を全否定するようなことを書いてしまいましたが、でも確かに、日本には「昆虫文化」と呼びうるものがあるし、それは他国から見るとやっぱり特異なものかもしれない…と、思い直しました。
昆虫を主人公にしたアニメや特撮ヒーローの数々を考えただけでも、そう思います。いわゆる先進国の内で、日本の昆虫相はとびきり豊饒なので、昆虫がより身近な存在である(あった)ことは確かでしょう。
問題は、「日本の昆虫文化は世界的に見て特異だ」というのが仮に正しいとしても、だからといって、別に日本文化は昆虫だけで成り立っているわけではないし、「昆虫を見れば日本文化のすべてが分かる」とは決して言えないぞ、という点です。
落ち着いて考えれば当たり前のことですね。
★ ☆
さて、「日本の昆虫文化」と聞いて、自然と思い浮かぶ作品があります。
私はナショナリズムとはおよそ相容れない人間ですが、でもこれは日本でなければ生まれ得なかった作品ではないか…という気がしています。
■イタガキノブオ作 「アリジゴク・エレジー」
(86年「ガロ」2,3月号に掲載、同年刊行の作品集『ネガティブ』-青林堂-所収)
主人公は「小鬼」のような形相で恐れられながら、不思議な歌で他の虫たちを魅了するアリジゴク。「彼」は、仲間のアリジゴクが次々と羽化して、優美なウスバカゲロウの姿となり、恋を交わすようになっても、なぜか1人だけ「子供」の姿のままでいるため、仲間からも徹底的に忌避されています。「彼」は自分自身を呪い、他者を激しく憎悪し、相手と心を通わせることがありません。
その「彼」を見つめ、シンパシーを感じながらも、常にシニカルな態度をくずさない蜘蛛がもう1人の主人公。二人は、徐々に心の距離を縮めていきますが、そのラストはあまりにも衝撃的。
黒々とした闇と月光の下で、静かに、ときに凄惨に展開する昆虫たちの生と死の営み。豊穣なエロスとタナトス。虫たちが繰り広げるサイコドラマ。
こういう繊細な作品を前にすると、ディズニーの「バグズライフ」が何とも厭わしく感じられます。
★ ☆
今日、帰り道で墓地の脇を通ったら、卒塔婆に真新しい蝉の抜け殻がとまっていました。きっと今年生まれた蝉のものでしょう。
(付記:イタガキノブオさんのことは、昔shigeyukiさんにコメント欄で教えていただきました。)
どうも七夕は毎年こんな感じです。
★ ☆
さて、昨日の混乱が静まり、ちょっと冷静にものが考えられるようになりました。
昨日は例の作品を全否定するようなことを書いてしまいましたが、でも確かに、日本には「昆虫文化」と呼びうるものがあるし、それは他国から見るとやっぱり特異なものかもしれない…と、思い直しました。
昆虫を主人公にしたアニメや特撮ヒーローの数々を考えただけでも、そう思います。いわゆる先進国の内で、日本の昆虫相はとびきり豊饒なので、昆虫がより身近な存在である(あった)ことは確かでしょう。
問題は、「日本の昆虫文化は世界的に見て特異だ」というのが仮に正しいとしても、だからといって、別に日本文化は昆虫だけで成り立っているわけではないし、「昆虫を見れば日本文化のすべてが分かる」とは決して言えないぞ、という点です。
落ち着いて考えれば当たり前のことですね。
★ ☆
さて、「日本の昆虫文化」と聞いて、自然と思い浮かぶ作品があります。
私はナショナリズムとはおよそ相容れない人間ですが、でもこれは日本でなければ生まれ得なかった作品ではないか…という気がしています。
■イタガキノブオ作 「アリジゴク・エレジー」
(86年「ガロ」2,3月号に掲載、同年刊行の作品集『ネガティブ』-青林堂-所収)
主人公は「小鬼」のような形相で恐れられながら、不思議な歌で他の虫たちを魅了するアリジゴク。「彼」は、仲間のアリジゴクが次々と羽化して、優美なウスバカゲロウの姿となり、恋を交わすようになっても、なぜか1人だけ「子供」の姿のままでいるため、仲間からも徹底的に忌避されています。「彼」は自分自身を呪い、他者を激しく憎悪し、相手と心を通わせることがありません。
その「彼」を見つめ、シンパシーを感じながらも、常にシニカルな態度をくずさない蜘蛛がもう1人の主人公。二人は、徐々に心の距離を縮めていきますが、そのラストはあまりにも衝撃的。
黒々とした闇と月光の下で、静かに、ときに凄惨に展開する昆虫たちの生と死の営み。豊穣なエロスとタナトス。虫たちが繰り広げるサイコドラマ。
こういう繊細な作品を前にすると、ディズニーの「バグズライフ」が何とも厭わしく感じられます。
★ ☆
今日、帰り道で墓地の脇を通ったら、卒塔婆に真新しい蝉の抜け殻がとまっていました。きっと今年生まれた蝉のものでしょう。
(付記:イタガキノブオさんのことは、昔shigeyukiさんにコメント欄で教えていただきました。)
『天文学辞典』と昭和モダン(1) ― 2009年07月09日 21時11分15秒
画像は先日の「彗星タブレット」の記事で、小びんの背景に写っていた本の扉。
この字体だけで時代相がわかる感じですね。
■山本一清・村上忠敬(著)
『天文学辞典』
昭和8年(1933)、恒星社
こうして「天文古玩」をめぐる記事を書いていると、必然的に「ちょっと昔の天文学」について知りたいと思うことが多いのですが、これが予想以上の難仕事。
現代の天文学辞典を見ても、載っているのは主に最新の知見であって、既に廃れた学説にページを割く余裕はあまりなさそうです。天文学史の話題といえば、プトレマイオスやケプラー。ですから、例えば「宮澤賢治の頃の宇宙理解」について調べようと思うと、いろいろ同時代の本を引っぱり出してくる必要が生じて、かなり骨の折れる作業になってしまいます。
その意味で、これはすこぶる便利な1冊。
この辞典については、いろいろ書くべきことがあるので、明日以降つづきを書こうと思います。
(この項つづく)
この字体だけで時代相がわかる感じですね。
■山本一清・村上忠敬(著)
『天文学辞典』
昭和8年(1933)、恒星社
こうして「天文古玩」をめぐる記事を書いていると、必然的に「ちょっと昔の天文学」について知りたいと思うことが多いのですが、これが予想以上の難仕事。
現代の天文学辞典を見ても、載っているのは主に最新の知見であって、既に廃れた学説にページを割く余裕はあまりなさそうです。天文学史の話題といえば、プトレマイオスやケプラー。ですから、例えば「宮澤賢治の頃の宇宙理解」について調べようと思うと、いろいろ同時代の本を引っぱり出してくる必要が生じて、かなり骨の折れる作業になってしまいます。
その意味で、これはすこぶる便利な1冊。
この辞典については、いろいろ書くべきことがあるので、明日以降つづきを書こうと思います。
(この項つづく)
『天文学辞典』と昭和モダン(2) ― 2009年07月11日 12時39分33秒
(同書巻末広告。山本一清のベストセラー『星座の親しみ』の激しい惹き句!)
奥付によると、この辞典の発行は昭和8年6月20日。同年9月21日に宮沢賢治没。
ですから、賢治の天文知識というのは、おおむねこの辞典に盛られた内容と重なっているはずです。
山本一清が書いた、冒頭の「発刊に就て」によれば、この辞典の母体となったのは、雑誌「天界」〔=当時の東亜天文協会、現在の東亜天文学会の機関誌〕の付録として掲載された「天文語彙」という記事だそうです。それが好評を博し、段々に増補された結果、
「結局、最初の『天文語彙』といふ名は、もはや相応はしくなくて、堂々たる『天文学辞典』となって了った。同時に、其の内容は、単にアマチュアのためのものではなくて、可なりに専門家向きのものとなった。そして此の種のものとして、外国にも全く例が無く内外独歩の学術辞典となったことは、十余年前に創意した自分として、我が児の成長を見届けた者の喜びと誇らしさとを感じる次第である。―若し出来るものならば、之れを英語か独逸語にでも訳して見て、世界中の学俗たちと共に、其の利便を頒ちたいと思ふ。」
強烈な自負の言葉です。
当時、欧米にも天文学辞典がまだなかったどうか、これは議論のある点だと思います。専門家向き、あるいはアマチュア向きの分厚いハンドブックの類は以前から多く出ていましたし、巻末の詳細な索引を参照すれば、それらは十分辞書の役割も果たしたからです。
ただ、この『天文学辞典』は、天文学用語はもちろん、有名無名の天文家や各地の天文台のような固有名詞も多く収め、さらに「たなばた」のような民俗語彙まで配列したので、その意味では類書がないというのは、多分その通りでしょう。
高橋健一氏の『星の本の本』を見ても、これが日本最初の天文辞典であることは確かです。
この本は、大正の後半から昭和戦前にかけて、日本で天文趣味が盛んとなりつつあった時代を背景に生まれた1冊であり、同時に山本一清という強烈なキャラクターを考える糸口ともなると思います。
この辺のことは、どうもあまり上手く書けそうにありませんが、当時の天文シーンについて、一度は書いておきたい気がするので、以下少しずつ書いてみます。
(この項つづく)
奥付によると、この辞典の発行は昭和8年6月20日。同年9月21日に宮沢賢治没。
ですから、賢治の天文知識というのは、おおむねこの辞典に盛られた内容と重なっているはずです。
山本一清が書いた、冒頭の「発刊に就て」によれば、この辞典の母体となったのは、雑誌「天界」〔=当時の東亜天文協会、現在の東亜天文学会の機関誌〕の付録として掲載された「天文語彙」という記事だそうです。それが好評を博し、段々に増補された結果、
「結局、最初の『天文語彙』といふ名は、もはや相応はしくなくて、堂々たる『天文学辞典』となって了った。同時に、其の内容は、単にアマチュアのためのものではなくて、可なりに専門家向きのものとなった。そして此の種のものとして、外国にも全く例が無く内外独歩の学術辞典となったことは、十余年前に創意した自分として、我が児の成長を見届けた者の喜びと誇らしさとを感じる次第である。―若し出来るものならば、之れを英語か独逸語にでも訳して見て、世界中の学俗たちと共に、其の利便を頒ちたいと思ふ。」
強烈な自負の言葉です。
当時、欧米にも天文学辞典がまだなかったどうか、これは議論のある点だと思います。専門家向き、あるいはアマチュア向きの分厚いハンドブックの類は以前から多く出ていましたし、巻末の詳細な索引を参照すれば、それらは十分辞書の役割も果たしたからです。
ただ、この『天文学辞典』は、天文学用語はもちろん、有名無名の天文家や各地の天文台のような固有名詞も多く収め、さらに「たなばた」のような民俗語彙まで配列したので、その意味では類書がないというのは、多分その通りでしょう。
高橋健一氏の『星の本の本』を見ても、これが日本最初の天文辞典であることは確かです。
この本は、大正の後半から昭和戦前にかけて、日本で天文趣味が盛んとなりつつあった時代を背景に生まれた1冊であり、同時に山本一清という強烈なキャラクターを考える糸口ともなると思います。
この辺のことは、どうもあまり上手く書けそうにありませんが、当時の天文シーンについて、一度は書いておきたい気がするので、以下少しずつ書いてみます。
(この項つづく)
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