理科学習帳に見る戦後…「理科」とは何であったか2009年09月27日 16時40分27秒

昨日、S氏、Y氏がお出でになり、ひととき清談しました。
その際、いろいろ結構な物を頂戴したのですが(ありがとうございました)、上はその中の一つ。昭和25年(1950)前後の理科学習ノートです。

この「くすんだキッチュさ」に時代の空気を感じます。
そして、これを見ると、半世紀以上前に「理科」がどのようなものとして観念されたか、分かるような気がします。

運河の走る火星、天文台、土星、星座絵、
ジェット機、人体解剖図、風力計、恐竜、
U型磁石、顕微鏡、火山の断面、灯台、蝶。

電脳系のイメージがないのは、時代的制約からして当然ですが、それ以外にも、現在の目で見ると、ちょっとずれて感じられる物もありますね。

例えば、今では飛行機に「理科」を感じる子供は少ないでしょう。
灯台も分かりにくいですね。
拡大するトランスポーテーションに科学の力を感じる…という感性は、ある時期まで強固だったと思いますが(「夢の超特急」の頃まででしょうか)、いつの間にか消え去って、リニア中央新幹線などは、開業前からすでにレトロ・フューチャーな哀愁さえ漂っているようです。

人体解剖図も何となく懐かしい。こうした図は、純粋に解剖学的な知識よりは、むしろ「保健衛生」の分野、つまりビタミン不足や寄生虫駆除、結核予防といったタームと結び付いて、戦前の衛生博覧会の隠微な影をも引きずっているように感じられます。これも最近の「サイエンス」の語感からは、はみ出る部分ですね。

理科のシンボルとして、ビーカーもフラスコも試験管も登場しないのは、ちょっと意外です。その代りに風力計が入り込んでいるのは不思議な感じもしますが、当時は気象学が今よりもずっと「エライ」学問で、百葉箱が尊ばれた時代だということと関係がありそうです。

そして―。
中央にひと際大きく描かれているのは、鮮やかな炎を上げて飛翔する白銀のロケット。
昔は「宇宙の征服」とか「月世界征服」とかいった、不穏当な表現が盛んに使われましたが、その頃の理科は、まさに「外界を征服する科学技術」のイメージによって染め上げられていた…と言ってよいのではないでしょうか。

環境問題や、科学のはらむ矛盾を説く人は、このノートの当時もいたと思うんですが、何となく、そこにはイデオロギー的・観念論的な色彩が漂っていて、現代のように痛切なリアリティを持ち得なかったんじゃないか…そんな気がします。

つまり、当時は科学の暗黒面を正面切って説くと、リアリティが減じた(=「ためにする議論」と受け取られた)のに対し、現代ではそれに触れないと、むしろリアリティが感じられない、という点に大きな違いがあるように思います。

何だか、古いノート1冊で大層な熱弁をふるっているようですが、昨今の「理科離れ」の背後に、理科イメージそのものの大きな変質があることを、改めて感じた次第です。

コメント

_ cat1516 ― 2018年02月28日 00時40分50秒

一冊のノートでこれだけ考察ができる玉青さんの洞察力、知識はすばらしいです。確かに、おっしゃるように、1950年ごろになると、理科の対象や雰囲気が鉄腕アトムやウルトラマンのイメージとかぶるものがあります。これらは、子供ごころのを捉えたものだと思います。男の子は、当時ぐらいからそう言ったようなものがかっこいいという価値観が生まれて来たのではないでしょうか。しかし、私や玉青さんもおそらくそうだと勝手に想像しますが、がもつ理科趣味へのかっこよさは、古めかしい、悪くいうと原始的なフラスコなどの装置や人体模型や色のついた金属イオンの液体などにあるのかもしれません。これは、いわば大人の抱く理科趣味の「かっこよさ」だと思います。しかし、僕もそうですが、多くの人はおそらく、子供の時にはそういうようなかっこよさはきずかなかったと思います。あくまで僕の勝手な決めつけですが、明治時代くらいの子供は、理科の持つかっこよさは、現代の私たち大人が抱くかっこよさと一致していたのではないかということです。僕の決めつけです。それが、1950年とかになると、第二次世界大戦の影響や東西冷戦の国がロケットを開発しはじめたころ?なので、ロケットや宇宙や遺伝子やら電子やらにかっこよさのベクトルが移っていったのではないかと考えてしまいます。もし、ご意見頂けるなら嬉しいです。

_ 玉青 ― 2018年02月28日 18時57分09秒

たくさんのコメントをいただき、ありがとうございます。過去の記事も丁寧にお読みくださり、嬉しく思うと同時に、自分が過去に書いたものを読み返して、ちょっと懐かしい気分になりました。お返事の方は、なかなか一度にというわけにもいきませんので、取り急ぎこちらのみで失礼いたします。

Cat1516さんの論旨と類似したこととして、「理科のカッコよさ」について、私も以前3回にわたって考察したことがあります。

http://mononoke.asablo.jp/blog/2014/05/18/
http://mononoke.asablo.jp/blog/2014/05/20/
http://mononoke.asablo.jp/blog/2014/05/21/

そこでは、<同じ「理科」という言葉を使いながらも、最先端の科学やSFチックなものに憧れる「理科趣味」と、古めかしい理科室の風情を良しとする「理科趣味」とでは、理科室を愛する心は一緒でも、その中身はずいぶん違う。その最大の違いは、それぞれ視線が前(未来)に向くか、後(過去)に向くかという点ではないか?>…ということを、結論として書きました。

ここに時代の変遷ということを重ねると、現代の我々にとっての「古めかしい理科への嗜好」は、同時に「戦前の最先端科学嗜好」でもあるということになるのですが、ただ、その場合も、視線(ベクトル)の向きが過去を向いているか、未来を向いているかという違いはそのまま保存されている点に注意が必要だ…という風に整理できるように思います。

_ cat1516 ― 2018年03月02日 22時41分27秒

丁寧なコメントを頂戴し、ありがとうございます。理科趣味についてとても的確で意義深いまとめをしていただきました。ここで、質問があるのですが、下の段落の「ベクトルが...そのままの向きで保存されるべきである」とは噛み砕いていうと、どういうことでしょうか。お時間がある時で構いませんのでよろしくお願いいたします。

_ 玉青 ― 2018年03月05日 07時13分58秒

例えば、私が大正時代の中学校の理科室にタイムスリップして、そこで当時の理科少年と向き合ったとします。もちろん、私も彼も理科室は大好きで、そこに憧れに近い気持ちを抱いているのですが、でもしばらく言葉を交わすうちに、齟齬が徐々に明瞭になることでしょう。

「これはすごい!これこそ私の憧れる理想の理科室なんですよ。この静かに眠る標本も、鈍く光る真鍮の実験器具も、何だか無性にノスタルジーを掻き立てられるじゃありませんか。」
「ノスタルジーですって?ここはそんなものから最も遠い場所のはずですよ。確かに過去の科学者たちは偉大で尊敬すべき人たちです。でも、僕たちは彼らに学んで、さらに先へと進まねばなりません。この部屋は僕たちの未来への入り口であり、だからこそ輝かしいのだと思います。」

私たちは同じ場所で同じモノを目にしながら、一方は過去を懐かしみ、他方は未来に目を輝かす。これは現代にもある理科趣味の二大潮流とまったく同じ構図です。「過去にさかのぼっても視線(ベクトル)の向きがそのまま保存される」云々と書いたのは、そうした意味合いですが、この辺のことは私自身の偏った捉え方かもしれないので、どうぞ話半分にお聞きください。

_ cat1516 ― 2018年03月05日 11時14分27秒

ご回答いただき有難うございます。よくわかりました。納得できました。

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