金満蒐書家を気取る(3)2009年11月24日 21時34分20秒

ケプラーのオリジナルがずらり。
左から、(カッコ内は落札価格)

『天文学の光学的部分を扱うウィテロへの補遺』($22,500)
『へびつかいの足の新星について』(オークション不成立?落札表示なし。評価額は5~7万ドル)
『新天文学』($230,500)
『コペルニクス的天文学要綱』($92,500)
『世界の調和』($362,500)
『ルドルフ星表』($134,500 )
『夢(ソムニウム)』($92,500)

落札額はしめて60万5千ドル。スゴイといえばスゴイですね。

さて、問題はここからです。
仮にそれだけのお金が自由に使えるとして、自分はここにある本を買うだろうか?その場になってみないと分かりませんが、たぶん買わないでしょう。…なぜか?

ここで費用対効果という言葉を使うと甚だ浅薄な気もしますが、自分がそこに払った金額に見合う価値を汲みだせるかどうか、そこが自分が買い物をする際の基準なのだと思います。私はわりと古書好きな方ですが、それにしても、ケプラーに限らず1冊の本から1千万円以上の価値を汲みだせようとは、到底思えません。その意味では、真のビブリオマニアの資格はないですね。

いや、それとも、ささやかな本に、ささやかな価値を見出して、ささやかな喜びを味わうというのも、ビブリオマニアの1つの姿なのでしょうか。…うーん、これはマニア(狂)というよりは、健全な愛書趣味ですね。

ひるがえって、かつての持ち主であるリチャード・グリーン氏。
彼の財力はもちろん素晴らしいですが、古びた本に無限の価値を感じ取る、その能力自体驚きです。
投資の対象として見た場合、古書は全く頼りにならないというのが大方の声なので、お金があって本好きならば、誰でも金満蒐書家になれるというものでもなくて、やはりそこには「狂」の要素がないとダメのようです。

コメント

_ S.U ― 2009年11月26日 23時24分11秒

古書の価値をどこに見いだすかですが、この額になるともう情報とか芸術的な価値ではなく、ただただ知名度vs希少価値ということだと考えざるを得ません。マイケル・ジャクソンの手袋のようなものです。
 知名度の高い古典は売れるので、逆にテキスト情報としての価格は低いのではないかと思います。現代の情報化社会ではたくさんのコピーが作られて、情報価格のデフレが起こっているのではないでしょうか。

 情報が高価だった時代、ということで思い出すのは、私が子どもの時に「西遊記」を絵本だったかで見て、「お経」をインドまで取りに行くのに怪物と戦いながら命がけの旅を続けたということに本当に驚いたということです。「お経」の価値というものは当時も今もわかっていませんが、とにかくその情報の価値ははかりしれないものだったのでしょう。
 「西遊記」のショックのためかどうかは分かりませんが、私は今でも古書の価値というのはおおむね情報でしか測ることができません。古書マニアの資格無しです。

_ 玉青 ― 2009年11月27日 21時02分11秒

情報…ここが悩ましいところです。

森羅万象すべて情報なり…と考えれば、古書の価値はたしかに情報に還元できるのでしょうが、その場合の情報は「文字情報」に限定されないという点がポイントなのでしょう。つまり、紙の手触り、染み、煤け、匂い、余分な書き込み等々、それらも全て含んだ上での情報ということですね。

お経の貴さは、本来純粋に文字情報にあったのでしょうが(三蔵法師が求めたのはそれかも)、でも、人間はそれだけでは満足できないようで、時代と共に古い写経の切れっ端を有り難がって蒐め出したり、やはりモノに執する部分が出てきます。お経の内容は、そういう欲望を超克するよう説いているはずですが、なかなか人間は業が深いものです。

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