「子供の科学」創刊前後のこと(付・再び首縊りの力学について)2009年12月21日 21時58分09秒

(「子供の科学」創刊号表紙。下の本より。藤澤龍雄の描く、あまりにも叙情的な科学の世界)

昨日のつづきですが、あんまりジョバンニとは関係ないので、別タイトルにします。
昨日本棚から引っぱり出したのは↓の本です。

■子供の科学編集部(編)
 『復刻ダイジェスト版・子供の科学1924-1943』
 誠文堂新光社、1987

結論から言うと、「子供の科学」のお手本が外国にあるのか、ないのかという話は分からずじまいでしたが、青木国男氏による序文に、同誌創刊の事情が書かれていたので、私なりにまとめてここに記しておきます。

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「子供の科学」創刊時の編者主幹は、科学ジャーナリストとして名をはせた、原田三夫(1897~1977)。彼は大正5年に東大を卒業し、最初は旧制中学の教員をやりながら「子供の科学」という雑誌を出しますが、時宜を得ず、あっけなく廃刊(これは、後の「子供の科学」とは同名異誌で、系譜的つながりはありません)。

【12月28日付記: 原田三夫が最初に出したのは「子供の科学」ではなく、「子供と科学」でした。上の記述は誤りですので訂正します。】

その後に出した「科学知識」「科学画報」の方は見事に当たり、当時の代表的科学誌となります。原田はさらに誠文堂から「子供のききたがる話」シリーズ全10巻を出版するなど、科学知識の普及に力を注ぎ、その延長線上に「子供の科学」の創刊(大正13年9月)があった…という話。

原田については、はてなキーワードの記述がけっこう強烈で、
「戦後の宇宙ブーム時代には、日本宇宙旅行協会を設立し、宇宙開発関係の啓蒙書を多数執筆。晩年は、『宇宙を支配する神は無限の愛であって、人間をそれに帰一させようとしているのであり、幸福と平和への道は、この神に帰依して、愛を強化するほかにない』とする、字宙神教を唱えた。」
とあります。(http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%B6%C5%C4%BB%B0%C9%D7

私はその人となりをよく知りませんが、これだけ読むと、どうもかなりの奇人ですね。

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さて、ここから昨日の<偶然>の話に入るのですが、「子供の科学」から、さらに「科学画報」について調べようと思って検索したら、最初に見つかったのが高田誠二氏による以下のページでした。

■科学雑誌の戦前と戦後
 http://wwwsoc.nii.ac.jp/~jps/jps/butsuri/50th/50(3)/50th-p189.html

欧米の雑誌は知らず、日本の科学雑誌の歴史(明治~戦後)については、これで大要が知れました。

当然ながら、原田三夫の扱いも大きいのですが、科学ジャーナリズムの周辺にいながら、原田流のジャーナリズムとは距離を置いたのが、寺田寅彦と中谷宇吉郎だ…という話が、まず私の目を引きました。高田氏の整理によれば、寅彦や中谷は権威主義を嫌う一方で、同時に原田流の奔放なジャーナリズムにも違和感を覚える「アカデミズムの人」という括りになります。彼らはいわゆるケレンを嫌ったのでしょう。

私は寺田寅彦と中谷宇吉郎にひょんなところで再会したのにも驚いたのですが、あまつさえ、ここにも「首縊りの力学」の元ネタの話が登場していたことに一層驚きました。全く別の話題を追いながら、かくも特殊な素材に、2日続けて出会うとは!まあ、何といっても話題が話題ですし、詳らかには書きませんが、この件は私が今取り組んでいる仕事にも浅からぬ縁があって、まことに不思議な暗合と言うほかありません。