さらに「子供の科学」のこと(2)2009年12月30日 16時07分48秒

(↑『大東亜科学綺譚』の表紙を飾る、ロボット三等兵by前谷惟光)

〔昨日のつづき〕

ああいう言葉は、同好の士が集う雑誌という、ある意味特殊な場所だから吐露されたものかもしれず、古今の少年気質を比較して論じる材料としては不適当かもしれません。現代は単にそういう場がないだけの可能性もあるぞ…と、あの後で考え直しました。つまり、問題は人の変化ではなくて、場所(メディア)の変化であると。

もちろん、この手の議論の結論は最初から決まっていて、変わったのは人もメディアも含む<社会全体>だということになりますが、ああいう素朴な自負の念を安心して表明できたのは、周囲にそれを受け入れる素地があったからで、少なくともその点は昔の方が良かったと感じます。

このブログは世を憂える場ではないので、あまり深入りはしませんが、まあもう一寸世間全体に単純素朴さが帰ってきて欲しく、あんまりシニカルに、常に他人のことを笑殺することばかり考えているような空気は改まってほしいなあ、と個人的には思います。

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さて、話題を「子供の科学」に戻します(以下、同誌愛読者にならって「子科」と呼ぶことにしましょう)。
先日コメント欄でshigeyukiさんに『大東亜科学綺譚』(荒俣宏著、ちくま文庫)に、原田三夫と子科のことが載っているよと教えていただき、早速読んでみました。

原田三夫は、晩年に『思い出の七十年』という自伝を出していて、荒俣氏の本も主にそれに基づいて書かれているようです。

原田の個人史的なことについて補足しておくと、彼は明治23年(1890)に名古屋で生れ、東大理学部の植物学科に入学する前、クラーク博士に憧れて札幌農学校に入り、有島武郎に師事しています。原田はそこで有島の超心理学実験に付き合わされ、トランプを使ったテレパシー実験ではほぼ百発百中の成績を挙げたとか。彼は晩年、宗教に傾倒しますが、すでに若年の頃から超自然的なものに惹かれる心性を秘めていたのかもしれません。

その後、原田は肺を病んで、いったん郷里に戻った後、東大に入り直すのですが、当時の生物学科は定員割れしていたため、高校を卒業した者は誰でも無試験で入れたそうです。何だか優雅な感じもしますが、当然のごとく就職では苦労し(彼は学校で海藻学を専攻しましたが、あまり潰しの利く学問ではなかったようです)、やっと府立一中の生物学教師の仕事が見つかったものの、彼は早くに学生結婚していたので、その後も生活苦が続き、副業として雑誌作りに手を染めた…というのが、科学ジャーナリスト・原田三夫誕生の機縁でした。

彼が最初に出したのは「子供の科学」という、後の子科とは同名異誌で…ということを、以前の記事には書きましたが、これは間違いです。最初の雑誌は「子供と科学」といいます。しかし、あまり売れなかったのは前に述べたとおり。結果的に原田は1年もしないうちに中学教師を退職し、著述に専念するようになります。これが大正6年(1917)のこと。

その後、彼は子供向きの科学読み物で評判をとり、大正12年には大人向けの「科学画報」というのを新光社から出します。以前の記事で、「子科は外国誌にお手本があったのか?」という疑問を述べましたが、「科学画報」については、Popular Science など欧米の通俗科学雑誌に取材して(要するにパクリでしょう)記事を書いたと原田自身が述べているので、彼が欧米の雑誌の動向によく気を配っていたのは確かです。

大正12年は震災の年ですが、原田は地震後、すばやく地震の科学についての本を出し、これがまたよく売れたとか。実に目端の利く人です。そして翌大正13年に、誠文堂から「科学画報」の子供版という格好で子科が出た…というのが、子科誕生までのあらまし。

荒俣氏の筆は、さらに原田が戦後、日本宇宙旅行協会なるものを組織して、火星の土地を売りに出したり、各地で宇宙博覧会を催したり、という部分を面白く叙していますが、その辺は原著をご覧ください。

ちなみに漫画家・前谷惟光(1917-1974)は、原田が学生結婚した最初の妻との間にもうけた子で、この結婚は早くに破局し、前谷は母親に引き取られて育ちました(前谷は母方の姓)。原田の方は、その後2回結婚し、いずれも相手に先立たれるという悲劇に見舞われ、それが原田の宗教心に影響しているようでもあります。

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原田三夫の話に続き、肝心の昭和9年の「天文特集号」の中身を次に見ておこうと思います。

(この項つづく)

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