囲繞する、何か(15)…書棚まわりもろもろ2009年12月18日 11時59分24秒

昨日の本が中央奥に写っています。
普段はここが定位置。

手前のクリノメーターは、今夏、脳内が一時的に地質学ブームで沸いた頃に買ったものですが、もちろん今後野外で使用する予定は皆無。
何事も形から入るというか、形だけで終るいつもの愚かしいパターンが見て取れます。

冬の華2009年12月19日 16時53分47秒

私の住む町にも、ついに初雪が降りました。
昨夜、夢うつつの状態でゴーゴーという風の音を聞きましたが、あのとき上空には冷たい空気が大量に流れ込んでいたのでしょう。目が覚めたら、辺りが妙に静かで、「あ、これは雪だな」と思い、ぱっと窓の外を見たら木々はもう真っ白でした。暖国(というほどでもありませんが)の人間にとって、雪は楽しい天からの贈り物。

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こういう雪の日は、ひたすら静かに読書をしたいものです。
写真は、そんな折にふさわしい1冊。

■中谷宇吉郎、『冬の華』
 岩波書店、昭和13(1938)、436p.

「雪博士」中谷宇吉郎(なかや・うきちろう、1900-62)の第1随筆集。
同年、岩波新書に収められた『雪』(現在は、岩波文庫に入っています)と共に、著者の処女作でもあります。この『冬の華』は、以後シリーズ化して、『続冬の華』『第三冬の華』と続きます。

当時、著者は北大理学部助教授。2年前に人工雪の製作に成功し、学者として脂が乗っていた時期。

一連の文章の中には、世態人情や歴史について叙した、純然たる「文系」の文章も含まれますが、著者の本領はやはり「科学随筆」で、一見「文系」の文章に見えても、どこかに科学が顔を出しているのが、読んでいて楽しいところです。もちろん、「雪の十勝」「雪を作る話」など、雪に関する話題も豊富です。

その文章は、師匠である寺田寅彦ばりの滋味豊かな筆致で綴られており、話題もまた寺田寅彦をめぐるものが少なくありません。

寺田寅彦のそのまた文学上の師匠が夏目漱石で、『吾輩は猫である』に出てくる「寒月君」のモデルが寅彦だというのは有名な話。ただ、私は知らなかったのですが、作中で寒月が振り回す「首縊りの力学」というネタにはちゃんとした典拠があって、1866年にイギリスのホウトンという学者が、物理学雑誌に発表した論文がそれだとか。それを寅彦から直接聞いた著者は、更にいろいろと考証を加えて、「寒月の『首縊りの力学』其他」という文章にまとめています。漱石や寅彦の人となりをも彷彿とさせる愉しい一編。

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外はもうすぐ日が落ちます。また寒気が強まってきました。
皆さんも、風邪などひかれませんように。

ジョバンニが見た世界…銀河の雑誌と大きな本(6)2009年12月20日 10時59分25秒

日常、妖怪にはなかなかお目にかかれませんが、奇怪な偶然には時おり出くわします。今それで頭がクラクラしているので、そのことを書きたいのですが、まずは本題の「雑誌」の話から。

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以前も引用した(※)井田誠夫氏の「宮沢賢治と銀河・宇宙」(西田良子編『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」を読む』‐創元社‐所収)は、この「雑誌」の件にも触れています。
(※)http://mononoke.asablo.jp/blog/2008/05/03/3449422

井田氏の立場は、ここで私が書いているような「もし、あの作品世界に現実世界のモノが登場するとしたら、どんなものが相応しいか?」という外野的な興味ではなしに、賢治自身が実際に影響を受けたであろうものを論考するというものです。

井田氏は、賢治の天文知識のソースである、盛岡高等農林の図書館蔵書目録を調べて、そこに「天文月報」(日本天文学会発行)があったことを報じています。同校の生徒は新着雑誌を自由に読むことができたので、賢治は在学中から(あるいは卒業後も)同誌から天文学の動向について最新の知識を得ていたのではないか…と、井田氏は推測しています。

井田氏が「天文月報」と並んで注目しているのが、「子供の科学」誌です。

「大正十三年十月創刊の『子供の科学』は少年少女向き科学雑誌
である。〔…〕『子供の科学』はその後も、天文関係の記事や写真
をとりあげ、賢治が亡くなる昭和八年の九月号(第十八巻第三号)
は天文特集で「大宇宙の構造」図がついている。」(上掲書235頁)

「銀河の説明を雑誌で読んだとくり返し書く賢治自身も『天文月
報』や、〔…〕『子供の科学』等の雑誌から新しい天文情報を得たの
ではないだろうか。」(同233頁)

確証はないまでも、常識で考えれば、例の「雑誌」の一語に、賢治自身の読書体験が反映されているのは、ほぼ確実でしょう。その有力候補が「天文月報」であり、「子供の科学」等である、というわけです。

で、私の興味は、欧米における子供向け科学雑誌の歴史にと向くのですが、もし「子供の科学」に外国雑誌の影響があれば、その筋から調べが付かないかと、創刊時の事情を知ろうと思って、写真↑の本を手に取りました。


(「奇怪な偶然」の話も含め、この項続く)

「子供の科学」創刊前後のこと(付・再び首縊りの力学について)2009年12月21日 21時58分09秒

(「子供の科学」創刊号表紙。下の本より。藤澤龍雄の描く、あまりにも叙情的な科学の世界)

昨日のつづきですが、あんまりジョバンニとは関係ないので、別タイトルにします。
昨日本棚から引っぱり出したのは↓の本です。

■子供の科学編集部(編)
 『復刻ダイジェスト版・子供の科学1924-1943』
 誠文堂新光社、1987

結論から言うと、「子供の科学」のお手本が外国にあるのか、ないのかという話は分からずじまいでしたが、青木国男氏による序文に、同誌創刊の事情が書かれていたので、私なりにまとめてここに記しておきます。

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「子供の科学」創刊時の編者主幹は、科学ジャーナリストとして名をはせた、原田三夫(1897~1977)。彼は大正5年に東大を卒業し、最初は旧制中学の教員をやりながら「子供の科学」という雑誌を出しますが、時宜を得ず、あっけなく廃刊(これは、後の「子供の科学」とは同名異誌で、系譜的つながりはありません)。

【12月28日付記: 原田三夫が最初に出したのは「子供の科学」ではなく、「子供と科学」でした。上の記述は誤りですので訂正します。】

その後に出した「科学知識」「科学画報」の方は見事に当たり、当時の代表的科学誌となります。原田はさらに誠文堂から「子供のききたがる話」シリーズ全10巻を出版するなど、科学知識の普及に力を注ぎ、その延長線上に「子供の科学」の創刊(大正13年9月)があった…という話。

原田については、はてなキーワードの記述がけっこう強烈で、
「戦後の宇宙ブーム時代には、日本宇宙旅行協会を設立し、宇宙開発関係の啓蒙書を多数執筆。晩年は、『宇宙を支配する神は無限の愛であって、人間をそれに帰一させようとしているのであり、幸福と平和への道は、この神に帰依して、愛を強化するほかにない』とする、字宙神教を唱えた。」
とあります。(http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%B6%C5%C4%BB%B0%C9%D7

私はその人となりをよく知りませんが、これだけ読むと、どうもかなりの奇人ですね。

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さて、ここから昨日の<偶然>の話に入るのですが、「子供の科学」から、さらに「科学画報」について調べようと思って検索したら、最初に見つかったのが高田誠二氏による以下のページでした。

■科学雑誌の戦前と戦後
 http://wwwsoc.nii.ac.jp/~jps/jps/butsuri/50th/50(3)/50th-p189.html

欧米の雑誌は知らず、日本の科学雑誌の歴史(明治~戦後)については、これで大要が知れました。

当然ながら、原田三夫の扱いも大きいのですが、科学ジャーナリズムの周辺にいながら、原田流のジャーナリズムとは距離を置いたのが、寺田寅彦と中谷宇吉郎だ…という話が、まず私の目を引きました。高田氏の整理によれば、寅彦や中谷は権威主義を嫌う一方で、同時に原田流の奔放なジャーナリズムにも違和感を覚える「アカデミズムの人」という括りになります。彼らはいわゆるケレンを嫌ったのでしょう。

私は寺田寅彦と中谷宇吉郎にひょんなところで再会したのにも驚いたのですが、あまつさえ、ここにも「首縊りの力学」の元ネタの話が登場していたことに一層驚きました。全く別の話題を追いながら、かくも特殊な素材に、2日続けて出会うとは!まあ、何といっても話題が話題ですし、詳らかには書きませんが、この件は私が今取り組んでいる仕事にも浅からぬ縁があって、まことに不思議な暗合と言うほかありません。

冬至、地を這う太陽2009年12月22日 20時44分30秒

今日は冬至。
北半球では最も夜が長くなる日。
夜を愛する人にとっては祝うべき日であり、昼を愛する人にとっても、今日からだんだん昼が長くなってくるので、やっぱり祝うべき日です。

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写真はアラスカの冬至の光景。
1920年代のホワイトボーダータイプの写真絵葉書です。

キャプションを読むと、「12月21日、冬至の太陽。午前10:45から午後1:15まで20分おきに露光。アラスカ、フェアバンクス」 とあります。

南の地平線をなめるように、上り、沈む、よわよわしい太陽。
昔の人が、弱った太陽に活力を与えるために、この日いろいろな祭儀を催したのが分かる気がします。

フェアバンクスは北緯約65度に位置し、ここからもう1度ちょっと北によると、太陽が完全に大地の下に隠れる「極夜(きょくや)」の世界となります。


【付記】今ウィキペディアを見たら、冬至の日付は年によって12月21日から23日の間を動きますが、20世紀前半に限れば22日か23日のどちらかだったので、キャプションにあるMidwinter は「冬至」ではなしに、単に「真冬」と訳すのが正確かもしれません。

【付記の付記】やっぱりこれは「冬至」でいいようです。下のコメント欄を参照してください。

燃える太陽2009年12月23日 19時12分19秒

弱った太陽を応援するべく、燃え盛る画像を載せます。

上は昔の幻燈用ガラススライド。
描かれているのは、太陽のプロミネンス4態です。
鮮やかなピンクの色合いがいいですね。
プロミネンスは、いわゆる「炎」とは違うんでしょうが、絵的にはいかにも燃え盛っている感じです。

このスライドはメーカー名不明ですが、裏側に「Astronomy 19」という印刷ラベルが貼られていて、たぶん天文教育用に市販された教材の一部でしょう。

こうした色つきスライドは、19世紀のものだと手彩色だったり、色ガラスを使ったりしていますが、これは2枚のガラスの間に色セロハンを挟んで、お手軽に色を出しています。時代的にはちょっと下って、1920~30年代ぐらいでしょうか。

(ガラススライドは、撮影のセッティングが面倒くさいので、このブログに登場する機会は余りありませんでした。上の画像はふつうにスキャナーで読んでみたのですが、やっぱり透過原稿だとうまく読めなくて、またガラスの厚みがある分、かなり像がぼけます。何か簡便な方法があるといいのですが。)

聖夜の思い出2009年12月24日 19時47分54秒


古書を買って、思わず二コリとすることが時々あります。
写真は、100年前に英国で出た、飛行機に関する児童書の見返しに貼られていた蔵書票。

  ワタリガラスは悪い奴
  ミヤマガラスも悪い奴
  でももっと悪いのは、この本を盗る子

  W. Bernard Whittey 蔵書
  ― お父さんとお母さんより。1910年クリスマス

その場の光景が浮かんで、じわっと心が温まります。
ホイッティ家のお父さんとお母さんは、きっとこの蔵書票を選ぶ段階から、クスクス笑いながら息子の反応を予想したりしたんでしょうね。

親の愛情とはありがたいものです。
ホイッティ君の幸せを、私も100年後の未来から祈りたい気分です。

皆さん、よいクリスマスを!

大掃除のさなかに理科室風書斎の現況を省みる2009年12月27日 17時35分24秒

例によって片付け三昧の年の暮です。
昨日CDミニコンポを買い換えて、結果としてごく僅かな余剰スペースが生じました。それを活用するべく、パズルを解くように物の配置を細かく細かく動かして…という作業に今取り組んでいます。こういうポジティブな要素のある片付け仕事は、やっていても少し心が軽いです。

  ★

さて、ちょっと早いですが、この1年を振り返って反省の弁。

この1年、何だかんだ言って、やっぱり物が増えました。
改めて周囲を見回してみると、定番の天文古書をはじめ、明治の地球儀解説書とか、白鳥の解剖図とか、結晶構造模型、大きな惑星軌道図、異国の理科室写真、色鮮やかな地質図、菌類模型、古い月面図、年代物の鉱石ハンマー、吹管分析器、蝶の図譜…と、いちいち文字にすると、何だか我ながら鬼気迫る感じです。

こんな風に、古びた理科室の匂いを発散するモノたちが徐々に積み上がっていくこと自体は、理科室風書斎の首唱者(といっても追随者はいませんが)として、もちろん大いに喜ぶべきことなのでしょう。ただし、この先果たしてどうなるのか?

私は別に創作家ではないので、こうした品々から何かアウトプットを求められるわけではないのですが、こんな風にゴミ屋敷のように溜め込む一方で、本当にいいのか?

いわゆるコレクターと呼ばれる人は、今のようなネット時代にあっても、そのこだわりのコレクションを完成するために、並々ならぬ努力をされているのでしょうが、私のように外延がはっきりしない対象を求める分には、時間さえかければ、懐の許す限りいくらでもモノは集まるわけで、正直きりがない話です。

自分が本当に求めるのはどんな空間であり、そのために必要なものは何で、不要なものは何なのか。一体どうすることが、集積したモノたちの声に耳を傾けることになるのか。
これまで素通りしてきた問題に、来年あたり真剣に向き合わねばならないと感じています。

さらに「子供の科学」のこと2009年12月29日 00時39分10秒

(一応12月20日の記事の続きですが、これまたジョバンニとはちょっと遠い話なので、別タイトルにします。)

先の記事中、井田誠夫氏の「銀河鉄道」に関する論考を引用し、「子供の科学」誌が、昭和8年の9月号で天文特集を組んでいることに触れました。

写真はその翌年、昭和9年の9月号。
「子供の科学」では、この頃毎年9月に天文特集を組んでいたらしく、この号もやっぱり「特輯 天文号」と銘打っています。
編集後記には、「広茫果しない大空が心地よく澄みきって、天の川の底に沈む銀梨地の砂粒のやうな星の一つ一つがハッキリと見える季節になりました。皆様がお待兼の天文号、今年は大ふんばり増大号として『天体観察の手引き』を特集しました」云々とあります。

で、宇宙船で月世界を目指す表紙絵もすごいのですが、中身がまたいちいち面白くて、それも記事本編よりも広告とか投稿欄とかが一層興味深く、ついつい瑣末なところを読みふけってしまいます。

当時は雑誌を紐帯にして理科少年のネットワークが強固に形成されていたらしく、投稿欄には独特のムードが漂っています。

「談話室の皆さん。私も仲間に入れて下さい。私は相中の三年生です。
模型飛行機のファンの一人です。否世界各国の飛行機の性能小研究家
を自認してゐる者です。モデル・プレインに趣味をお持ちの方お便り
を下さい。愛機の写真をお送致しませう。お待ちして居りまし〔ママ〕
/福島県相馬町 加藤鉄三」

「僕は『子科』を昨年の八月から愛読致して居ります、子科は他の科
学雑誌よりダンゼン優秀で雑誌界の第一人者といつてよろしいでせう。
僕は今尋常六年生でありますが大人になってからも子科を愛読したい
と思つて居ります。まだ初歩ですからご指導下さい。(電気に趣味をも
つて居ります)子科の発展及び記者様の健康を祈つて失礼させて頂き
ます。/東京市荏原区 伊藤康夫」

「談話室の皆様御気元よう〔ママ〕。僕も『子科』の愛読者にならせて
いたゞきます。東京の小林一君と同じに天文学に趣味を持つておりま
す。そして天体望遠鏡を手に持つて、月、太陽、水星等のなぞをとき、
歴史にのこるやうな大天文学者にならうと心がけております。天体ファ
ンは御手紙下さい。/埼玉県羽生町 笠松敏雄」

「七月号を手にすると急に皆様がなつかしくなつてお仲間入りをいた
します。私に別に趣味と言つてありませんが『子科』の記事をいろい
ろに分けて集めて居ます、まあ趣味と言へば博物と物理の研究くらい
の所です。今中学一年生ですが理科の点はいつもよい方です。皆様お
便り下さい。お待ちして居ます。/呉市 石田順一」

…といった個人の投稿や、各地に結成されつつあった「岳南科学研究会」やら「旭光少年科学愛好会」やら「中央模型飛行機統制研究会」やら、諸団体の会員募集広告が大量に載っていて、何だか大変な状況になっています。実に熱いです。

一連の投稿を見ていると、往時の理科少年は皆相当な「小天狗」ですね。平成の少年たちはすっかり脂気が抜けて、常に自分を客観視しているので、戦前の少年たちの強烈な自負の言葉を聞いても、微妙な笑いを以て応えるだけでしょうが、しかし…うーん…この辺りはどう評価すべきなのでしょう。どちらかが良くて、どちらかが悪い、という単純なものでもないのでしょうが…。

(この項続く)

さらに「子供の科学」のこと(2)2009年12月30日 16時07分48秒

(↑『大東亜科学綺譚』の表紙を飾る、ロボット三等兵by前谷惟光)

〔昨日のつづき〕

ああいう言葉は、同好の士が集う雑誌という、ある意味特殊な場所だから吐露されたものかもしれず、古今の少年気質を比較して論じる材料としては不適当かもしれません。現代は単にそういう場がないだけの可能性もあるぞ…と、あの後で考え直しました。つまり、問題は人の変化ではなくて、場所(メディア)の変化であると。

もちろん、この手の議論の結論は最初から決まっていて、変わったのは人もメディアも含む<社会全体>だということになりますが、ああいう素朴な自負の念を安心して表明できたのは、周囲にそれを受け入れる素地があったからで、少なくともその点は昔の方が良かったと感じます。

このブログは世を憂える場ではないので、あまり深入りはしませんが、まあもう一寸世間全体に単純素朴さが帰ってきて欲しく、あんまりシニカルに、常に他人のことを笑殺することばかり考えているような空気は改まってほしいなあ、と個人的には思います。

  ★

さて、話題を「子供の科学」に戻します(以下、同誌愛読者にならって「子科」と呼ぶことにしましょう)。
先日コメント欄でshigeyukiさんに『大東亜科学綺譚』(荒俣宏著、ちくま文庫)に、原田三夫と子科のことが載っているよと教えていただき、早速読んでみました。

原田三夫は、晩年に『思い出の七十年』という自伝を出していて、荒俣氏の本も主にそれに基づいて書かれているようです。

原田の個人史的なことについて補足しておくと、彼は明治23年(1890)に名古屋で生れ、東大理学部の植物学科に入学する前、クラーク博士に憧れて札幌農学校に入り、有島武郎に師事しています。原田はそこで有島の超心理学実験に付き合わされ、トランプを使ったテレパシー実験ではほぼ百発百中の成績を挙げたとか。彼は晩年、宗教に傾倒しますが、すでに若年の頃から超自然的なものに惹かれる心性を秘めていたのかもしれません。

その後、原田は肺を病んで、いったん郷里に戻った後、東大に入り直すのですが、当時の生物学科は定員割れしていたため、高校を卒業した者は誰でも無試験で入れたそうです。何だか優雅な感じもしますが、当然のごとく就職では苦労し(彼は学校で海藻学を専攻しましたが、あまり潰しの利く学問ではなかったようです)、やっと府立一中の生物学教師の仕事が見つかったものの、彼は早くに学生結婚していたので、その後も生活苦が続き、副業として雑誌作りに手を染めた…というのが、科学ジャーナリスト・原田三夫誕生の機縁でした。

彼が最初に出したのは「子供の科学」という、後の子科とは同名異誌で…ということを、以前の記事には書きましたが、これは間違いです。最初の雑誌は「子供と科学」といいます。しかし、あまり売れなかったのは前に述べたとおり。結果的に原田は1年もしないうちに中学教師を退職し、著述に専念するようになります。これが大正6年(1917)のこと。

その後、彼は子供向きの科学読み物で評判をとり、大正12年には大人向けの「科学画報」というのを新光社から出します。以前の記事で、「子科は外国誌にお手本があったのか?」という疑問を述べましたが、「科学画報」については、Popular Science など欧米の通俗科学雑誌に取材して(要するにパクリでしょう)記事を書いたと原田自身が述べているので、彼が欧米の雑誌の動向によく気を配っていたのは確かです。

大正12年は震災の年ですが、原田は地震後、すばやく地震の科学についての本を出し、これがまたよく売れたとか。実に目端の利く人です。そして翌大正13年に、誠文堂から「科学画報」の子供版という格好で子科が出た…というのが、子科誕生までのあらまし。

荒俣氏の筆は、さらに原田が戦後、日本宇宙旅行協会なるものを組織して、火星の土地を売りに出したり、各地で宇宙博覧会を催したり、という部分を面白く叙していますが、その辺は原著をご覧ください。

ちなみに漫画家・前谷惟光(1917-1974)は、原田が学生結婚した最初の妻との間にもうけた子で、この結婚は早くに破局し、前谷は母親に引き取られて育ちました(前谷は母方の姓)。原田の方は、その後2回結婚し、いずれも相手に先立たれるという悲劇に見舞われ、それが原田の宗教心に影響しているようでもあります。

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原田三夫の話に続き、肝心の昭和9年の「天文特集号」の中身を次に見ておこうと思います。

(この項つづく)