戦前の少年向け天体望遠鏡事情2010年01月18日 22時16分47秒

(昨日のつづき)

昭和3年、野尻抱影はスチーブンソンの『宝島』の翻訳仕事をし、それが折からの円本ブームで売れに売れて、印税でしこたま儲けました。その金で彼は初めてのマイ望遠鏡(日本光学製4インチ屈折。抱影の付けた愛称は“ロング・トム”)を購入したのですが、その価格、実に600円余り。今の金にすれば2~3百万円にはなるでしょう。

そんな話を聞くと、戦前の望遠鏡はみな途方もなく高価だった…という印象を受けますが、そこは魚心あれば水心。乏しい小遣いを握りしめた、少年天文家の需要にこたえる供給元もちゃんとありました。

その一例が上の写真。昨日と同じく、「子科」昭和9年9月号の巻末広告です。
「子科」の版元・誠文堂は、これまた原田三夫の発案によって「子供の科学代理部」という名称で物販も行っており、望遠鏡の他にも、鉄道模型部品やら、顕微鏡やら、鉱石ラジオやら、各種理系グッズを手広く扱っていました。

上の画像を拡大して見ていただくとわかりますが、いちばん安価な「プルトー天体望遠鏡」(口径不明。40倍卓上用)が4円、最上位機種の「58ミリ屈折天体望遠鏡」が75円。両者の間にあって、スタンダード機と思われる「シリウス天体望遠鏡」は8円50銭。(シリウスは、次ページにも単独で広告が載っていて、「学生天文愛好家用として絶好」とあります。口径は35ミリですが、木製三脚付きで、なかなかそそる望遠鏡です。)

初任給でいうと、小学校の先生が50円、銀行員が70円の時代ですから、ざっとプルトーが1万5千円、シリウスが3万円、58ミリの最上位機種で30万円弱ぐらい。

どうでしょう、わりとリーズナブルというか、今とあまり変わらない感じがしないでしょうか(さすがに性能比でいうと、今よりも高価ですが)。これぐらいならば、親にねだって買ってもらう少年も、結構多かったような気がします。

これらの望遠鏡が、実際どの程度見えたかはわかりません。
ただ、思うに、たぶんスペックは二の次で、少年たちにとっては、何よりも「天体望遠鏡を所有する」ことが大事であり、たとえ物理的に対象がよく見えなくても、きっとそれを心眼で補っていたんじゃないか…と、想像します。

そして、それでは満足できなくなったハイレベルの少年たちは、地域の天文同好会や学校の天文部に入って、さらに上を目指した…というのが、当時の天文少年のあり様だったと思います。(この辺は、戦後もあまり変わらない時代が長かったかも。。。)