神戸、悲運の巨人望遠鏡(3)2010年02月21日 20時01分55秒

神戸の25センチ・クック望遠鏡。

(神戸市立青少年科学館のリーフレットより。「たいよう」は望遠鏡の愛称)

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神戸に海洋気象台が置かれたのは、大正9年(1920)のことでした。
海洋気象台は、その名の通り、船舶の航行の安全のために海洋気象情報を提供するのが主任務です。で、本来これは官の事業なのですが、その設備費を国は支出することができず、設置費用はすべて地元の海運業者が賄ったのだそうです。何とも太っ腹な話です。

当時の金で21万円、現在の金にすれば数億~10億円の巨費を投入した本館は、まさに城館建築のような威容を誇りました。白黒写真ではよく分かりませんが、建物は純白のレンガを積み、その上の大屋根は赤という、実に華やかな欧州風のたたずまいでした。国の金ではない、いわば「おらが気象台」ですから、その辺は地元の意向が十分に反映されたのでしょう。これは神戸に是非残って欲しかった。

(旧海洋気象台本館。神戸市教育委員会編『ふたたび太陽を追って―よみがえった25cm屈折望遠鏡』より)

その本館の脇に、立派なドームを備えた別館(無線室棟)ができたのは、大正13年(1924)のことでした。これまた堂々たる建築です。

(旧海洋気象台無線室棟。上掲書より)

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さて、ここで疑問に思われないでしょうか。
なぜ、海洋気象台に天体観測施設があるのか?と。
それが、ここでいう「悲運」の悲運たるゆえんです。
有体にいって、この巨人望遠鏡は海洋気象情報とはあまり関係がないのです。

この気象台の設立事情が上のようなものでしたから、国のしばりが弱く、関係者の「行け行けドンドン」的な発想でエイヤッと作ってしまった…上記『ふたたび太陽を追って』の説明からは、どうもそんな風に読みとれます。

当時の台長は、その後も長く気象界のトップに君臨した岡田武松(1874-1956)。その下で望遠鏡の設置と観測実務を担った技師は、後に東京天文台長に転身した関口鯉吉(1886-1951)で、巨大望遠鏡の設置は、主に彼らの意向を反映したものでした。

関口は東京帝大の星学科の出で、在学中から太陽物理学を専攻し、その後英国に留学して研究を続けています。その延長線上に海洋気象台の仕事があるので、「太陽活動と気象変動には密接な関連がある。だから、気象台でも太陽を観測する必要があるのだ!」という理屈は、嘘ではないにしても、100%混じり気のないものだったとは思えません。

関口が中央気象台に転出すると(昭和2年)、数年を経ずして、望遠鏡の運用がストップしてしまったのは、この望遠鏡と一研究者との密接な関わり(言わば属人的性格)を物語るものでしょう。

そして、これは単なる憶測ですが、岡田も関口も東大閥の人だったために、京大と連携がうまくいかなかったことが、この望遠鏡の運用がうまく後に引き継がれなった理由ではないか…とも思います。

(この項つづく)