神戸、悲運の巨人望遠鏡(4)2010年02月25日 19時35分38秒

この文章を書く参考にしているのは、前にも書いたように、神戸市教育委員会が編纂した『ふたたび太陽を追って―よみがえった25cm屈折望遠鏡』という本です。この本は四半世紀前の昭和59年に出ているのですが、当時、すでにこの望遠鏡購入のいきさつは霧の中でした。

そもそも購入費用5万円(今の金で1~2億円)が、国庫から出たのか、それとも建物と同じく海運業者の寄付金で賄ったのか、それすら不明で、たぶん今でも不明のままでしょう。

ただ、25年前には、まだ関口博士と同時期に気象台に在籍した技師の方が存命で、その方の証言が本に載っています。以下は、当時84歳の一木茂氏の話。

「天文台に置くのならいざ知らず、望遠鏡は海洋気象台の業務とは、
あまり関係ない…」
「そのころも天体観測は天文台がやるもの、気象台は気象観測をや
るところ、というふうに考えられていた。だから一般的には気象台
と天体観測、ひいては望遠鏡とは関係ないじゃないかとされていた。」

関係者が断言するのですから、おそらくその通りなのでしょう。
「しかし」と、一木氏は続けます。

「しかし、気象研究のためには、太陽の気象に及ぼす影響を調査、
研究するためには太陽観測が必要だったわけだ。それを岡田武松
や関口鯉吉は先駆的に実践した。そうした先達の行動力、実行力
は高く評価されるべきだと思う。」

この「行動力、実行力」というのが、前の記事で書いた「エイヤッ」の部分ですね。

当時の『海洋気象台要覧』には、同気象台の事業項目が解説されていて、「天気図及ビ磁力偏角図ノ発行」とか「海流、潮流、ソノ他海洋ニ於ケル物理的諸現象ノ観測及ビ調査」などと並んで、「海洋気象及ビ地球磁力ノ観測及ビ調査 並ニ之カ為必要ナル天体現象ノ観測」というのが、確かに挙がってはいます。

で、その「天体観測」の中身はというと、「クロノメートル、時計等ノ検定」のための時刻測定が「当台ノ主ナル仕事」であって、その後に「更ニ五吋及び十吋赤道儀式望遠鏡ニ依リ 其他ノ観測ヲモ開始スル計画デアリマス」と申し訳のように書かれています。

要するに、関口が中心となって進めた太陽研究は、海洋気象台の本務からすれば、副次的業務の中の、さらに「その他」扱いの仕事だったわけで、「エイヤッ」でなければ、とてもできなかったろうという気はします。

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関口は、この望遠鏡を使って「気温に及ぼす太陽活動の直接作用の検出」、「太陽大気の気象学」、「太陽黒点、白斑、緬羊斑の運動について」などの論文を次々に発表した後、昭和2年(1927)に、早々と中央気象台に転出してしまいます(更に昭和11年、1936年に東京天文台長就任)。

こうして、望遠鏡運用の中心的存在だった関口がいなくなったことで、この大望遠鏡は、徐々に「日陰者」と化していきました。

「昭和9年までは、一木茂が毎日のように太陽黒点の観測を続け
ていた。その後、数人が担当して管理に当たっていたものの、
一方で気象業務としては天文観測の占める比重が徐々に小さく
なっていった。学問研究の流れの移り変わりもあり、戦時下に
入るに従って研究スタッフも次第にいなくなっていった。こうして
この二十五センチ望遠鏡も使用されなくなっていくのである。」

太平洋戦争に突入し、神戸海洋気象台は白亜の本館を焼失。
ドームも焼夷弾の被害で歪み、全く稼働不能の状態となり、望遠鏡は終戦を迎えました。

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クック望遠鏡の戦後の歩みを略述するため、次回、もう1回記事にします。

ところで、先年出た、『日本の天文学の百年』(日本天文学会百年史編纂委員会・編、恒星社厚生閣)という本がありますが、ページを繰っても、海洋気象台のことも、クック望遠鏡のことも、見事に何も出てきません。かつては日本一の大望遠鏡だったというのに―。
そぞろうら寂しさを感じます。