春の日、春の夜2010年03月20日 18時13分40秒

図鑑の話の合間に日々の雑感です。

  ★

春は淋しい季節だと感じます。
秋とはまた別の淋しさです。

なぜこれほど淋しいのでしょうか。

詩人の西脇順三郎は、1人の人間の中にはいろいろな「人」がいると言いました。そしてその中には、通常の理知や情念を超えた、謎めいた「幻影の人」、またの名を「永劫の旅人」がいるのだと。

幻影の人は、ある瞬間に来てはまた去って行きます。路傍の草の実、女の足袋、秋の街道、開いている窓、水たまりに映る枯れ茎、そうした一瞬の情景の中を永劫の旅人は歩き続け、そして彼と行き合うとき、人は無限の淋しさを感じるのです。

西脇にとって淋しさとは、生の根源的感覚であり、「淋しく感ずるが故に我あり」と詩句に書きつけています。私には、彼の言うことがなんとなく分かる気がします。

春は生命の回帰を感じさせる光景に満ち溢れており、その分永劫の旅人と出会う機会も多いのでしょう。
春のはかなさと春の永劫。それは命そのもの、存在そのものの果敢なさと永劫に重なるものだと思います。

  ★

映画「博士の愛した数式」のエンディングでは、幻想的な春の海辺に登場人物たちが集い、和やかに笑みを交わしていました。その穏やかな光景にかぶせて、画面に映し出されたのはウィリアム・ブレイクの詩句。

  一つぶの砂に 一つの世界を見
  一輪の野の花に 一つの天国を見
  てのひらに無限を乗せ
  ひと時のうちに永遠を感じる

言わんとすることは、西脇も同じでしょう。
一瞬は永遠であり、永遠は一瞬である。
一瞬を生きた人は永遠を生きたのであり、永遠を生きた人も実は一瞬を生きたに過ぎない。
それを感得することが、すなわち<淋しさ>なのではないでしょうか。

  ★

オリオンが西に傾き、すっかり淋しくなった春の夜空。
星もまばらなその空は、実は何千何万もの銀河が輝く豊饒な空です。
肉眼では定かではない、遠い遥かな世界。
でも、彼らは本当は他のどこでもない、今ここにあって、だからこそ望遠鏡に、網膜に、脳に、心に像を結ぶわけです。無限の彼方も、<今ここ>にあることを、幻影の人は告げているようです。