天文と気象(1)…保育社版・『気象天文図鑑』2010年03月18日 21時23分03秒

雲の話を書いていて、ちょっと天文のことがお留守になっている感じもありますが、しかし少し前まで、「天文」といえば「気象」、「気象」といえば「天文」と、赤穂浪士の合言葉のように、両者が人々の頭の中で緊密に結びついていたのも確かです。

休刊中の老舗天文誌 『月刊天文』(地人書館)が、現在の誌名に変更になったのは意外と新しくて1984年。それまでは『天文と気象』という誌名で、さらに遡れば戦前の『天文と気候』誌に行き着きます。

■地人書館公式サイト:会社概要 
 http://www.chijinshokan.co.jp/company.htm

また最近では「惑星気象学」という概念が成立しつつあるらしく、その体系に位置づければ、地球の気象学はその一分科に過ぎない…と見ることも十分に理がありそうです。まあ、昔の大人や子どもは、素朴に「空を見上げる学問」ということで両者をひとくくりにしていたのでしょうが…。

そんな天文学と気象学の蜜月ぶりは、児童書にも反映していて、手元にある天文分野の学習図鑑コレクション(と言っても、わずか4冊ですが)を見ると、すべてタイトルが「気象」と対になっています。

例によって昭和懐古モードになってしまい何ですが、「ちょっと昔の理科少年の頭の中」を覗くつもりで、それらの図鑑をひも解いてみようと思います。

  ★

まず最初は昭和26年に出た、『気象天文図鑑』。

■気象天文図鑑(保育社の学習図鑑8)
 理科教育委員会(編)、保育社、昭和26年発行(昭和33年、第23刷)

短期間でものすごく刷られた図鑑です。
当時はこういう本が渇望されていたのでしょう。
内容は前半が「気象篇」、後半が「天文篇」と分かれています。
表紙デザインは天文がメインになっていますが、そのモチーフが古風な星座絵というのが一寸目を引きます。(あと数年もすると、「宇宙=ロケット」のイメージが普遍化してきますが、この頃はまだ“星空浪漫”が幅を利かせていたのでしょうか。)

この図鑑、そういう目で見ると、かなり記述が古めかしいです。

プラネタリウムには「天象儀」と添え書きがあって、「日本には今大阪市の電気科学館に1台あるだけです」と書かれています。

また火星の項には、

「火星の表面は、赤味のあるミカン色で、黒味がかった緑色のもようが見えます。ミカン色は沙漠で、緑色は植物の生えているところです。」
「表面のすじは、運河で水をひくためにほったものだといわれ〔…〕しかし、いろいろのしょうこで、火星には動物はいないだろうといわれています。」
「火星には空気が少なく、重力も小さいので、火星人はからだが細長くて、軽く肺が大きく、地球より文化が進んでいるだろうといわれています。」

…とあって、一体どっちなんだ?と思いますが、書き手もあまり自信がなかったのかもしれません。それにしても、これを読んだ子供たちは、一層わけが分からず、「火星とは何と不思議な星だろう」と思ったことでしょう。

(この項つづく)

天文と気象(2)…講談社版・『天文と気象の図鑑』(前編)2010年03月19日 20時37分12秒

いよいよロケットの時代です。

■天文と気象の図鑑(講談社の学習大図鑑1)
 古畑正秋・高橋浩一郎・竹内丑雄(著)、講談社、昭和33年発行(昭和36年、第5刷)

昭和33年というのは1958年で、ソ連のスプートニク打ち上げの翌年になります。
そして、アメリカがすかさず対抗してエクスプローラーを打ち上げた年。
宇宙ブームの盛り上がりがすごかった頃ですね。


表紙絵を描いたのは、巨匠・小松崎茂。
改めて見るとものすごい絵ですね。地球を覆い尽くさんばかりの超巨大なオーロラ。その右手に不思議な放射光が見えますが、これは何でしょう?皆既日食を表現しているのでしょうか?そして、それらの脇をスカッと飛ぶ人工天体。基本デザインはエクスプローラー1号のそれですが、4本の通信アンテナの先からジェットを噴射しているのは、ちょっとやり過ぎ。


表紙を開くと、扉絵はこんな具合です。
天文ドームの前で熱心に上空を観察する少年少女たち。これはたぶん人工衛星の通過を観察している場面でしょう。少年の頬がつやつやしていますね。左下には「ソビエト」と「チェッコスロバキア」の人工衛星記念切手がペタリと貼られています。

本のタイトルは「天文」が先にきていますが、内容は身近な「気象」の方から説き起こしています。


雲の写生をする子どもたち。
ああ…いいですね。白い帽子がさわやかです。


四季の変化を説明するページには、季節ごとの子どもたちの様子が載っているのですが、上の写真は秋。「かき」というキャプションが素敵です。理科趣味とは関係ありませんが、胸がつまる写真です。こういう子供たちは一体どこへ行ってしまったのか…

もちろん、こういう子どもたちの姿と引き換えに我々が得たものもあるはずで、亡失をいたずらに嘆くのは当らないのかもしれませんが、ただ消え去ったものの価値は、まっすぐに見つめるべきではないか…という気がします。

(以下、同図鑑の天文篇につづく)



春の日、春の夜2010年03月20日 18時13分40秒

図鑑の話の合間に日々の雑感です。

  ★

春は淋しい季節だと感じます。
秋とはまた別の淋しさです。

なぜこれほど淋しいのでしょうか。

詩人の西脇順三郎は、1人の人間の中にはいろいろな「人」がいると言いました。そしてその中には、通常の理知や情念を超えた、謎めいた「幻影の人」、またの名を「永劫の旅人」がいるのだと。

幻影の人は、ある瞬間に来てはまた去って行きます。路傍の草の実、女の足袋、秋の街道、開いている窓、水たまりに映る枯れ茎、そうした一瞬の情景の中を永劫の旅人は歩き続け、そして彼と行き合うとき、人は無限の淋しさを感じるのです。

西脇にとって淋しさとは、生の根源的感覚であり、「淋しく感ずるが故に我あり」と詩句に書きつけています。私には、彼の言うことがなんとなく分かる気がします。

春は生命の回帰を感じさせる光景に満ち溢れており、その分永劫の旅人と出会う機会も多いのでしょう。
春のはかなさと春の永劫。それは命そのもの、存在そのものの果敢なさと永劫に重なるものだと思います。

  ★

映画「博士の愛した数式」のエンディングでは、幻想的な春の海辺に登場人物たちが集い、和やかに笑みを交わしていました。その穏やかな光景にかぶせて、画面に映し出されたのはウィリアム・ブレイクの詩句。

  一つぶの砂に 一つの世界を見
  一輪の野の花に 一つの天国を見
  てのひらに無限を乗せ
  ひと時のうちに永遠を感じる

言わんとすることは、西脇も同じでしょう。
一瞬は永遠であり、永遠は一瞬である。
一瞬を生きた人は永遠を生きたのであり、永遠を生きた人も実は一瞬を生きたに過ぎない。
それを感得することが、すなわち<淋しさ>なのではないでしょうか。

  ★

オリオンが西に傾き、すっかり淋しくなった春の夜空。
星もまばらなその空は、実は何千何万もの銀河が輝く豊饒な空です。
肉眼では定かではない、遠い遥かな世界。
でも、彼らは本当は他のどこでもない、今ここにあって、だからこそ望遠鏡に、網膜に、脳に、心に像を結ぶわけです。無限の彼方も、<今ここ>にあることを、幻影の人は告げているようです。

天文と気象(3)…講談社版・『天文と気象の図鑑』(後編)2010年03月21日 16時56分01秒

列島は昨日から大荒れ。木はごうごうと唸り、電線はヒュンヒュンと泣きました。
風速が20メートルを超えると風力階級は9、そして30メートルを超えると11、さらにマックス12に達します。講談社の図鑑の説明図でいうと↓のような状況。


30メートル以上の風が吹くと、都市は完全に破壊!されてしまうようです。まあ、この図は瞬間最大風速ではなくて、一定時間以上吹き荒れた場合を想定しているのかもしれませんが、いずれにしても風の力とはすさまじいものです。

   ★

さて、天文篇の扉。右上には、


「空は、どこまでひろがっていて、どのようになっているの
だろうと、静かな夜など、はてしもなくひろがっている宇宙の
ことをかんがえていると、ふっとこわくなるようなことがあり
ますね。」 …と書かれています。

いったい学習図鑑の編集というのは、どういうふうに行われたものでしょうか。
著者として名を連ねていた研究者が、実際どこまで執筆に参加していたのか、単なる名義貸しだけの場合もあったんじゃないかなあ…と想像するのですが、上の一文は、なんとなく著者・古畑正秋氏(当時東京天文台測光部長)が自ら書いたような気がします。というのは、古畑氏は巻末の著者紹介のところで、こうも書いているからです。

「わたしは小さなとき、夜、床の中で「あした昼間がもどって
こなかったらどうしよう」とこわかったのをおぼえています。
このようなことを、ばからしいぎもんと思わず、といていくのが
正しい勉強のしかたです。」

古畑氏は感じやすい少年だったのでしょう。
宇宙を「こわい」と思う感覚、広大な世界への畏怖の念。子供のときにそうしたものを感じることは、とても大切だと思います。まあ、これは「感じろ」と強制すべき性質のものでもありませんが、でも夜中にスヤスヤ寝ている良い子も、ときには深夜の妖しい気配を感じながら、星空を見上げる経験をしてもいいんじゃないでしょうか。

   ★

話がそれました。もうちょっと図鑑の中身を見てみます。
まずは、保育社の図鑑との微妙な時代相の変化を見るために、<火星>と<プラネタリム>の記述から。

火星には、「地球よりもずっとうすいが、大気や、水じょう気・酸素もあり、表面の温度も、赤道地方の昼は10℃ぐらいです。植物もはえ、動物も何かいるのではないかといわれています」。


とりあえず火星人と運河は消えました。しかし、依然植物の存在は信じられており、動物にも期待がかかっています。この頃はまだまだ火星ロマンが健在ですね。


プラネタリウムについては、「大阪の電気科学館と東京の東急文化会館とにあります」と書かれています。東急の五島プラネタリウムの開館は、この本の出る前年の1957年で、戦災で東日天文館が焼けてから、これで久しぶりに東西両横綱が揃ったことになります。(ちなみに、上のページの右下に見えるロンドン・プラネタリウム(2006年閉館)のオープンも、ほぼ同時期の1958年で、当時の宇宙ブームは、まさに全地球的な規模でした。)

で、当然のごとく米ソの人工衛星も大きく解説されています。


左下は「みなさんがよく知っているライカ犬ですね。ソ連の第2号衛星の赤い球のうしろに、犬を乗せるへやがあり、このへやに乗って生物としてはじめて宇宙旅行をしたのがライカ犬です。やく1週間宇宙を飛びながら生きていました」。

ライカ犬は、打ち上げ後まもなくして死んだという話もありますが、いずれにしてもスプートニク2号とともに大気圏に再突入し、宇宙で燃え尽きました。彼は生物として初めて宇宙で死に、流星となった存在でもあります。

最後にちょっと珍しい写真を貼っておきます。


昭和30年代前半の、三鷹の東京天文台の景観。
一面の林と畑。本当にトトロの世界ですねえ…。

天文と気象(4)…小学館版・『気象天文の図鑑』2010年03月22日 19時26分23秒

今日は散髪に隣の駅まで行ってきました。
いつもは地下鉄で行くのですが、明るい日なので久しぶりに地上を歩きました。
マンションができ、見慣れた店がつぶれ、新しい店ができ、だいぶ様子が変わっていました。「町も人もやっぱり変わっていくんだなあ…」と、当り前のことをぼんやり考えながら、坂道を下っていきました。そういう自分自身、気づかぬうちに少しずつ変わっているのでしょうけれど。

  ★

さて、講談社の好敵手、小学館の図鑑です。


■気象天文の図鑑(学習図鑑シリーズ6)
 荒川秀俊、鈴木敬信、巻島三郎、大滝正介(著)、小学館、昭和45年改訂19版発行(昭和31年初版、昭和39年改訂新版発行)

私の手元にあるのは、昭和31年に初版が出た後、昭和39年に大幅に改訂され、その後マイナーチェンジを繰り返しながら、昭和45年に改訂19版として出た本です。前年のアポロの月着陸の記事がしっかり入っています。

表紙の見た目は似ていますが、講談社の図鑑とは約10年隔たっているので、内容的にはかなり進化している感じです(ちなみに表紙絵の画家は中島章作氏。講談社の図鑑で人工衛星の絵を担当した人です)。

これは時代的な差に加えて、天文篇を担当した鈴木敬信氏(1905-1993)の功績かもしれません。鈴木氏は歯に衣を着せぬ物言い(一種の毒舌)で有名だったらしいですが、同時に正しい天文知識の普及には非常に熱心だった人で、この子供向けの図鑑でも、一本芯を通したかったのでしょう。

恒星の解説ページに、そのことはよく現われています。
そこでは、恒星の質量と絶対光度の関係や、絶対光度と恒星の数の関係について両対数グラフを示し、さらに恒星の色(=温度)と絶対光度の関係図(ラッセル図)を挙げて、恒星の種族について解説しています。これは高校レベルの地学の内容で、今ではほとんどの人が地学を習わないそうですから、文句なしに高度な内容です。


また太陽系の形成に関して、講談社の図鑑では、「カント・ラプラスの星雲説」、「ジーンスの潮汐説」、「うずまき説」を併記するにとどまりますが、小学館の図鑑では、前2者を「歴史的にも有名なものですが、今ではどれも正しいものとは考えられていません」と断言した上で、「ホイルの星雲説」、「ワイゼッカーの星雲説(=上記のうずまき説のこと)」、「アルフェンの宇宙塵雲説」、「ホイップルの宇宙塵雲説」を挙げて、「どれが正しいのかということはまだ分かっていません」と、態度を保留しています。子供たちにどこまで伝わったかは分かりませんが、この辺の記述も細かいですね。


では、そうした熱意と厳密さで、火星の描写はどうなったか?

「現在わかっていることは、大気はあるけれどもうすく赤茶けたところはさばくで、緑色のところは植物地帯だということです。有名な運河は存在することが確認されました。しかし、人工的なもの、つまり水を流す運河ではありません。火星の谷間にそって発達した植物地帯のすじだと考えられています。」「植物はこのような下等植物です」


ついに動物が消えて、植物も「下等植物」にまで後退しました。
いささか不用意に植物の存在を断定しているようにも見えますが、巻末の解説では、

「緑色地帯のスペクトルをしらべてみますと、ある種のコケや地衣類のスペクトルににています。〔…〕おことわりしておきますが、火星にはこんな植物があるというのではありません。緑色部の様子がこんな植物ににていることをつきとめただけなのです」

と、厳密な態度をくずしていません。

もう1つおまけにプラネタリウムの記述を見ると、

「現在は大阪の電気科学館と東京の東急文化会館〔=五島プラネタリウムのこと〕をはじめ、その他各地にあります。」

おお、10年間でだいぶ増えましたね。

  ★

一見、無個性な図鑑にも個性はあります。
独りよがりな記述はいただけませんが、多くの場合、個性のある図鑑が良い図鑑のような気がします。

天文と気象(5)…世界文化社版・『天文と気象』2010年03月23日 18時48分14秒

■天文と気象(カラー図鑑百科6)
 宮地政司・畠山久尚(担当編集員)、世界文化社、昭和43年発行

この図鑑は、あまり本屋の店頭で見た記憶がありません。
何となく児童図書館にありがちなムードを感じます。
あるいは、セット販売のみだったかもしれません。

内容は、既存の本の切り張りの域を出ず、あまり面白くありません。
そもそもこのシリーズは編集委員制度をとっていて、前国立科学博物館館長の岡田要氏や、前東京学芸大学学長の高坂正顕氏などが名を連ねています。そして、この巻の担当編集委員というのが別にいて、それが上のお二人ですが、宮地氏は前東京天文台長、畠山氏は前気象庁長官。
うーむ、何だかやたらに前職の人が多い。これこそ明らかに名義貸しでできた産物に違いない…と私は睨んでいます。

ただ、この表紙を見ると、何か心の中で動くものがあります。
これぞ昭和40年代というか、昭和30年代でも、50年代でもなく、40年代そのものという風に、当時を記憶する者としては感じます。
この図鑑が出た昭和43年(1968)は、ちょうどウルトラセブンがオンエアされた年ですが、それと同じ手触りというか、「3丁目の夕日」的な板塀の世界が駆逐された後の、コンクリートの灰色建築が威張っていた頃を思い出します。

まあ、ここで昭和を論じてもしょうがないので、ついでに望遠鏡に注目してみます。
この表紙で目を引くのは、やはり望遠鏡の存在。
東京天文台の電波望遠鏡をバックに、少年少女が三脚に乗った望遠鏡を覗いています。メーカーや機種はちょっと分かりません(ヴィンテージ望遠鏡好きの人ならば分かるかも)。時代を考えると、アルミ三脚はちょっと珍しい。

1968年当時に、こんなものを小学生が持っていたら、相当自慢できたでしょうが、こういう取り合わせを奇異と思わない程度には、望遠鏡が子供たちに普及しつつあったのも確かで、この後望遠鏡は急速に「消費されるもの」となっていきます。そして、学習用顕微鏡と並んで、学習用望遠鏡というのが売れ、あまり使われることもなく子ども部屋の隅で埃をかぶっている…という状況が、あちこちで見られるようになります。

ただ、一面、そういう広い裾野があったからこそ、情報も機材も豊かに行きわたり、マニアックな天文少年が続々と生れる土壌が作られたのでしょう。

おそらく、現在の天文趣味人の中核は、当時の天文少年のカムバック組と想像しますが、これはいわば当時の遺産を食い潰しているようなもので、そういう人たちが一線から消えた後の天文界はいったいどうなるのか…想像すると、ちょっと心が寒くなります。まあ、元々マイナーな趣味なので、旧に復するだけのことなのかもしれませんが。。。

タルホ・テレスコープ(1)2010年03月25日 20時07分06秒

アマチュア望遠鏡の歴史をちょっと巻き戻して、戦前に戻ります。
話題の主は稲垣足穂。
実は、しばらく前に常連コメンテーターであるS.U氏から、以下のようなメールをいただきました(ご本人の了解を得て引用)。

***********************************************************

〔…〕足穂を再読してみましたところ、重要な「論点」を忘れていたことを思い出しました。それは、足穂が買った望遠鏡についてです。〔…〕あまり世間で論じられていないが重要ネタのようなので、これについては御ブログへのコメントにしようか私信にしようかと迷ったのですが、〔…〕私信にさせていただきます。

足穂の自伝小説『愚かなる母の記』と『美しき穉き婦人に始まる』を見ると、彼が明石で母親と古着商を営んでいた時に、反射望遠鏡を買って身近な人たちに覗かせたことが載っています。古着屋の開店が昭和8年か9年、母が大阪の姉の元に連れて行かれたのが昭和10年だと推定されますので、これはおそらく昭和9年のことと思います(参照した年譜が不完全で確定的にはわかりません。)

私は、この望遠鏡について詳しく書いたものは見ていませんが、書かれた内容からして、例の中村要式反射望遠鏡とみて良いでしょうか。以下引用です。

  ◆  ◆  ◆

私は、卓上用反射望遠鏡と、サングラス及び接眼レンズ三個を買う決
心をした。(中略) 内側を黒に外側を真白に塗り上げられた直径三吋
ばかしの円筒の底部には、透きとおるような凹面鏡が置かれ、この奇
妙な鏡井戸の口の近くに小指の先程のプリズムが取り付けられて、外
郭から覗くようにしてあった。(稲垣足穂「美しき穉き婦人に始まる」より)

更に、われわれの一等おしまいの期間、私が組み立てたニュートン=
ハーシェル式反射鏡によって月の世界を覗いた途端、老女は、「まあ
綺麗、凄いようや」と嘆声を上げてから、いみじくも云い当てました。
「せめて百五十円も費ったらもっとよく見えるものが出来たであろうに―」
 (稲垣足穂「愚かなる母の記」より)

◆  ◆  ◆

私が調べたところ、中村要氏は、ハーシェル・ニュートン式というのを考案したらしいのですが、足穂の買ったのがそれそのものであるかどうかはわかりませんでした。よろしければ、またご存じのことをお教え下さい。

***********************<引用ここまで>********************

おお、タルホ氏の望遠鏡!
私は稲垣足穂の愛読者ではないので(このサイトで彼を頻繁に取り上げているのは、主に私が勝手に作り上げたイナガキタルホのイメージに基づくものです)、この件は全く知りませんでした。あの脳髄だけで宇宙と対峙していたような怪人が、小さな望遠鏡で実観測をしていたとは!

中村要設計の「ハーシェル・ニュートン式」反射望遠鏡については、ふた月前にちょっと書きました。

■戦前の少年向け天体望遠鏡事情(2)
http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/01/19/4824123

最初、ハーシェル・ニュートン式というのが謎でした。
上の記事に載せた広告写真を見ると、望遠鏡の横っちょから覗く、普通のニュートン式にしか見えないからです。
しかし、以下のページで謎が解けました。

■中村要と反射望遠鏡(by加藤保美氏)
http://www.astrophotoclub.com/nakamurakaname/nakamurakaname.htm

要するに主鏡を傾けて、光路を遮らない位置に置いた副鏡で光束を直角に曲げて鏡筒外に出し、そこで接眼レンズで拡大するという方式。なるほど、まさにハーシェル式とニュートン式の折衷ですね。(検索してみると、自作望遠鏡だと、今でもこういう方式を試みる人が少なからずいるようです。)

この愛らしい反射望遠鏡と稲垣足穂のことを、以下少しメモ書きしておこうと思います。

(この項つづく)

タルホ・テレスコープ(2)2010年03月26日 20時49分02秒


上の写真は、『子供の科学』に載った広告です。
以前、このブログに似たような広告を載せましたが、上はまた別の号です(昭和9年3月号)。写っているのは同じ商品。
これは2インチ(5センチ)径の製品で、定価は1台22円となっていますが、別のページの広告を見ると、さらに大型の製品もあって、3インチは40円、4インチは120円、5インチは160円、6インチは200円となっています。

足穂が昭和9年頃に買った「直径三吋ばかしの」「ニュートン=ハーシェル式反射鏡」というのは、時期的に見ても、名称から言っても、ここにある3インチの望遠鏡に間違いないと思います。

で、これを使って足穂はどんな天文ライフを楽しんだのか?
昨日の引用文(「愚かなる母の記」)によれば、まずこれで月世界の驚異を覗き、また周囲の人にも見せたようです。また、最近、草下英明氏の『星の文学・美術』(れんが書房新社)を読んだら、次のような引用がありました。足穂が昭和15年(1940)頃に書いた「山風蠱(さんぷうこ)」の一節です。

   ■  □

私は物干場へ反射鏡を持出して、毎晩狙ってみたが、
的は掴まれ相になかった。私にはアルコホル分が入って
ゐた所為もあらうが、此仕事は恐ろしく陰気なものに考へ
られた。一つの光点さへも認められない。常に視界は
真暗であった。どうかした拍子に微かな光の條が、上下
左右に飛交ふばかりであった。

私はこれでは腰を据えねばならんと考へ直した。そして
一週間目にやっとオリオン三星中の一つが捉へられた。
こんな仕事には手摺や竹竿を利用して位置を支へさせて
あるが、そんなにしてさへ静止してはゐない。絶えずに
ゆらめいてゐる。こんな時表を貨物自動車が通ったり
すると、忽ち何処かへけし飛んで了って、再びそれを
捉へる為には五分間を要した。

三つの星を順次に辿って行って、私は遂に青い毛虫
みたいに毳立っている星雲を掴えた。西の涯に黄いろく、
遠い電灯の傘みたいな土星を見付けた。横倒しになって
大きく落ち懸った白鳥の嘴の所で、互に顫へてゐる
橙色と緑玉色、そのジュリエットとロメオの姿を垣間見した。

   ■  □

何だか、対象を視野に入れるのに、ものすごく苦労していますね。
3インチ望遠鏡はどうだったのか不明ですが、少なくとも2インチ望遠鏡は写真で見るかぎり、ファインダーらしきものがなくて、これで目標を導入するのはかなり大変そうです。
(それにしても、オリオンの三つ星を捉えるのに1週間を要したとは、望遠鏡の設計か、足穂の技量か、あるいは彼のアルコール摂取量か、いずれかに重大な問題のあったことを窺わせます。)


さて、月につづいて眺めたのは、オリオン座の大星雲、土星、そして白鳥座の二重星・アルビレオでした。この辺の選択は極々まっとうです。加えて、その叙述が<怪人>の筆にしてはウブウブしい。

これは草下氏の本にはっきり書いてあることですが、アルビレオをロミオとジュリエットに喩えたのは野尻抱影が先だそうです。足穂は元より抱影の熱心なファンであり、上の文章には抱影節が影響しているらしい。(年齢でいうと抱影の方が15歳年長。ただし、抱影は遅蒔きの人で、初の主著『星座巡礼』の刊行が大正14年、40歳のときですから、一般読書界へのデビューは足穂の方がわずかに先行しています。)

(この項さらにつづく)

【3月27日付記】
あ、広告をよく見ると、ファインダーは3円とちゃんと書いてありますね。別売だったわけです。で、昨日の記事によると、足穂は本体とサングラス、それに別売らしい接眼レンズを買ったことは書いていますが、ファインダーについては触れていません。その必要性を理解せず、買わずに済ませてしまったんでしょうか。

タルホ・テレスコープ(3)2010年03月28日 19時59分51秒

(今日も字ばっかりです。)

足穂が覗いていたと思われる望遠鏡の同型機はこちら↓
http://yumarin7.sakura.ne.jp/telbbsp/img/2733_1.jpg
(3月26日の記事に対するガラクマさんのコメント参照)

彼が望遠鏡を入手したのは、30代半ばに差しかかり、かつてのモダン・ボーイからすっかり落魄の身となった頃。足穂はこの後、明石を引き払って上京し、そこでまた屈折の多い時を過ごしますが、彼はこの望遠鏡をいったい何時まで持ち歩いていたのでしょうか?

作品を丁寧に読んでいけば、分かるのかもしれませんが、ここでは一足飛びに戦後に飛びます。
前回も引用した草下英明氏の『星の文学・美術』には、草下氏が初めて足穂の下宿を訪ねた場面が記されています。

時は昭和23年(1948)11月23日。所は東京戸塚のさるアパート。
当時『子供の科学』の編集部にいた草下氏は、「星に関係ある人」ということで足穂に会いに行き、その場面を以下のように日記に記しました(カッコ内は草下氏による補注)。

 ■  □  ■

現われたのは、ずんぐり頭の薄い五十がらみのオヤジ、赤いギョロ目、鬼がわらのような顔、よれよれの兵隊服、昼間から酔っているらしく聞きしに勝る怪物。本当にこの人がイナガキタルホなのか?部屋には、聖書とロザリオ、二、三の雑誌。三インチ(八センチ)の反射望遠鏡(借りものだという)と、少しの原稿用紙、机以外は何にもなし。(一カ月後には、原稿用紙と『白昼見』のゲラ刷りだけになって、机も望遠鏡も消えていた)

 ■  □  ■

ここにも3インチの反射望遠鏡が出てきます。
「借り物」とありますが、いったい誰が貸してくれたんでしょうか?
ひょっとしたら、やっぱりこれは自分の物で、一種の「照れ」からこう説明したんでしょうか?もしそうならば、ほとんど無一物で転々としていた中で、彼は望遠鏡をものすごく大切にしていたことになりますね。でも、だとすると、ひと月後に望遠鏡はどこに消えたのか…?

望遠鏡の正体はともかく、この時期も彼は望遠鏡を手元に置いて、おそらくは実観測もしていたことが伺えます。

  ★

足穂論的には、こうした考証に続けて、彼の望遠鏡体験が、その作品にどのような影響を及ぼしたかを考える必要がありますが、もちろんこのブログでそんな大層なことを論じることはできません。

ただ、1点だけ気付いたことがあります。
今日、足穂を読んでいて、望遠鏡体験の前後で、同一作品でも土星の描写が少し変わっていることに気付きました。それをメモしておきます。

周知のように、足穂は自作に何度も手を入れ、同一作品に数多くのヴァリアントがあることで有名です。中には題名まで変わってしまったものもありますが、以下に掲げるのも、そんな「異名同作品」。

(A)「廿世紀須弥山」(『天体嗜好症』、春陽堂、1928所収)
(B)「螺旋境にて」(河出文庫『宇宙論入門』1986所収;文庫化にあたって底本としたのは、『稲垣足穂大全Ⅰ』、現代思潮社、1969)

 ■  □  ■

(A)<1928年バージョン>
「夜の煙突から出たもえがら〔4字傍点〕のやうな色をしたものがボーと現われてゐるぢゃないか。しかもそれをめぐって円いななめになった環まで認められる。」
「そして、おしまひに目の前にやって来た土星はと云ふと、写真では子供の時からお馴染のものゝ実物は実にへんてこな感銘をあたへる、今も云ったスイッチをひねって消した瞬間の電球みたいな色をして、それがブーンブーンと独楽のやうにまはってゐるのだが、名物の環だけはぢいいっと安定を保つやうに静止してゐる。」

(B)<1969年バージョン>
「田舎の煙突から夜間に飛び出したもえがらのようなものが、それを取巻く環状のものと共に浮んでいた。〔…〕土星は何も初めて眼にするわけでない。遠くの傘付電球のような印象を与えて、遥かな沖合を通って行くのは僕も数回眼にしたことがある」
「この先生は遠眼鏡で覗いても吹き出したくなるほど可笑しな代物だが、肉眼で接すると一段とへんてこな感銘を与える。消え入りたげな黄橙色の光を放って、中心軸の周りを独楽のように旋転しているが、名物の環だけはじっと静止している。」

 ■  □  ■

前回の記事で書いたように、足穂は土星を初めて見た印象を、昭和15年(1940)頃に「遠い電灯の傘みたいな土星」と記していますが、それが(B)にそっくり生かされています。また、(A)では「写真では子供の時からお馴染」とあるのが、(B)では「遠眼鏡で覗いても吹き出したくなるほど可笑しな代物だが」と変わっていますし、「初めて眼にするわけでない…僕も数回眼にしたことがある」というのも、実体験に裏打ちされた言葉でしょう。その色彩描写にも、具体性が増しているようです。

まあ、これはごく些細な一例ですが、丁寧に見ていけば、もっと類例はあることでしょう。少なくとも、「望遠鏡体験がその作品に影響したか?」という問いには、はっきりYESと答えられそうです。

ヴンダーカンマー雑考2010年03月29日 21時41分08秒

今日の月齢は13。満月にはちょっと早いですが、十分に丸い月が空に冴えかえっています。今日は大雪の地方もあり、まさに雪月花をいちどきに楽しめる不思議な日でした。

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理科準備室とか、博物館の収蔵庫とか、古書に埋もれたアーカイヴとか、何となく怪しげな空間が好きです。何か奇怪なものや、不思議なものがありそうな空間が。

ただ、そういう空間を身近に作ろうとすると、ちょっとした矛盾というか困難に直面します。
怪しげな空間に身を置きたいのであれば、私は周囲にある物の正体を知っていてはならないわけです。正体が分からないからこそ怪しげなわけですから。

しかし、正体の分からないものを、正体の分からないまま買い込むことなど、懐が許すはずもありません。それに、(この辺はちょっと微妙な感覚ですが)誰かがそうした怪しげな品の正体を知っていると思えばこそ、安心してその「アヤシゲ」を楽しめるという側面もあって、それが自分の所有物ならば、当然その「誰か」とは自分しかいません。

要するに、私は自分の所有物の正体を、「知っていてはならず、同時に知っていなければならない」というのが基本的な矛盾。

これは考えてみれば変な問題の立て方だと思いますが、でも昔のヴンダーカンマーの持ち主たちも、たぶん同じ問題に悩んでいたんじゃないかという気がします。
つまり、一方には目にする物の正体を知り尽くしたいという欲求があり、他方には常に心を驚異の念で満たしておきたいという欲求があり、両者の相克に彼らは苦しんだはずです。

この矛盾を止揚する方法はただ一つ。
既有の物が陳腐化する前に、常に驚異を与えてくれる新たな蒐集物を付加しつづけことだけです。ヴンダーカンマーが、明確に強迫的な色合いを帯び、多くの場合、質よりも量に物を云わせがちだったのは、そのせいだと思います。

彼らは、一種の<驚異依存症>の状態だったのでしょう。
すぐれて人間的であると同時に、何とも業の深いことです。