タルホの匣…第9夜、ラリー・シモン2010年04月12日 20時40分18秒

今日は一日地雨。
桜の花はすっかり散り果てましたが、代りにつやつやとした若葉に雫がキラキラと輝き、あたりにいい香りが漂いました。

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写真は、1920年代の広告ピンバッチ(径2cm)。
おどけた顔の周囲に、「いつも笑顔で」「ラリー・シモン笑劇場 “笑え、ラリーとともに”」と書かれています。

ラリー・シモン(Larry Semon 1889-1928)はアメリカの喜劇役者。
残念ながら日本語版ウィキには、今日現在まだ項目がないので、英語版(http://en.wikipedia.org/wiki/Larry_Semon)から冒頭を適当訳します。

「ラリー・シモンは、無声映画時代におけるアメリカの俳優、
監督、プロデューサー、映画脚本家。当時のシモンは「喜劇
王」と見なされていたが、現在では「ローレル&ハーディー」
の両名、スタン・ローレルとオリバー・ハーディーがコンビを
組む以前、彼らとともに仕事をしたことで主に知られている。

彼はまた1925年の無声映画「オズの魔法使い」〔日本公開
時の邦題は「笑国万歳」〕の監督(ならびに出演)によっても
知られている。ちなみに、この映画は1939年にMGM社が
制作した一層有名なトーキー版には、ごくわずかな影響しか
与えていない。2005年に1939年版のDVD3巻セットが出た
際、この1925年版も他の「オズ」映画と共に収録され再評価
された。」

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稲垣足穂は、彼のことを高く買っており、文中で何度も取り上げています。

「この間神戸へ「オズの魔法使」(笑国萬歳)というのがきた
ので明石から見に出かけた。僕が役者の名で出かけたのは
これが最初であるが、やはり期待にそむかぬこのコメディアンは
まるでオートマチックだ。あのトリックとも現実ともつかぬ高い
ところへゼンマイ仕掛のようにのぼって行って、超時空的に
ヒューとジャズバンドの笛のうなりと一しょにまい落ちるとき、
僕のうれしさはかなしみにさえ近い。」 (「オートマチック・ラリー」)

…と、感極まっています。
他の文章においても「天才ラリイシモン」とか、「活動で見たいのはもうラリイの他にない」とまで言い切っているので、怪人タルホにしては例外的な殊遇です。
そして、ラリーが30代で早世したおりには、「ラリー・シーモンの回想-追悼文-」という悲しみの一文を捧げています。

「君が〔…〕示してくれたスピーディな童話世界は、僕が前々
から狙っている或る斬新な芸術様式という題目の上に
多大の参考をもたらしてくれる。そしてそんな君の上に、
僕はひとつ、シラノ・ド・ベルジュラックの月世界旅行をやって
みたら……と考えていた。ゆうべ月から落ちてきた人の
ような君の舞台が、ニューヨーク夜景から星々に飾られた
虚空界に展開して、ひだ襟のついた中世服装の君が、あの
手ぶり身ぶりよろしく土星の環の上を歩いたり、故障の
起きたロケットを彗星に牽かせたり、星を口にふくんで粉っぽい
煙を吐き出したり……

〔…〕いつか君といっしょにプロダクションを興したい、というのが
僕の夢想だった。何故なら、僕の天体物がいっそう人々に
知られるためには、それがニキタ・バリエフ氏の蝙蝠座の
舞台でなかった場合、やはりフィルムを通じてでなければ
ならないからだ。こちらの大先輩、谷崎潤一郎がかつて僕の
或る作品について云った。
「あれをラリーにやらせてみたいものだね」と。

〔…〕僕は、君が暗示し、教えている方向へ進むであろう。
そしてそこに他の君たちを見出し、かれらと相提携して、
「もうしもうしお月様」と呼びかけた詩人ジュール・ラフォルグと、
月人(ゼレナード)である君の思出のために、それこそ六月の
夜のスターマインのようなフィルムを製作しよう。そして今日より
もっと賢くなり、リファインされた紳士淑女に観せよう。では、
ローレンス・シーモン君、安らかに月の方へ昇って行きたまえ。
そして三日月の長椅子にかけて、小手をかざして見ていて
くれたまえ。さようなら!」

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タルホをして、かくまで言わしめたラリー・シモン。
タルホにとってのラリーは、単なる喜劇王ではなしに、ともに宇宙的郷愁を語れる同志のような存在だったのでしょう。

ありがたいことに21世紀の我々は、Larry Semon と打ち込みさえすれば、YouTubeですぐにも彼の作品を見ることができます。それを見てタルホの慧眼に驚くかどうか?これは各自に残された宿題でしょう。

そして、その映像の向こうに、タルホが夢想してなし得なかった「天体物」のフィルム作品を思い浮かべるのも、春の宵にまことに相応しいのではありますまいか。