タルホ・テレスコープ(4)…総集編2010年05月05日 10時13分27秒

これまで3度にわたって書いたこの話題。今日は総集編です。

宇宙に魅せられた作家・稲垣足穂は、身辺に望遠鏡を置いて、自ら星を眺めていた時期があります。確実に望遠鏡があったと思える時期は2回あって、その1回目は、彼が郷里の明石で古着屋をやっていた昭和10年(1935)前後、そして2回目は東京で創作活動を活発化させていた昭和23年(1948)頃です。

最初その話を聞いた時、私はどちらも同じ望遠鏡だと思ったのですが、いろいろな情報を聞くにつれて、どうやら別物らしく思われてきたので、今後は両者をそれぞれ「初代望遠鏡」、「2代目望遠鏡」と呼ぼうと思います。

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初代望遠鏡は、「愚かなる母の記」、「美しき穉き婦人に始まる(旧題・山風蠱)」、「北落師門」といった足穂の自伝的作品に繰り返し登場します。その正体は、前に書いた「タルホ・テレスコープ(2)」と、その際ガラクマさんから頂戴したコメントによって、当時「子供の科学」代理部が販売していた、3インチ(ただし鏡径は正味65ミリ)ハーシェル・ニュートン式反射望遠鏡だと、ほぼ判明しています(同型機の画像はこちら)。

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いっぽう、2代目望遠鏡は足穂作品には出てこず(全部を確認したわけではありませんが)、もっぱら第3者の目撃情報によって、その存在が知られるのみです。

1つは、草下英明氏(科学評論家、当時は「子供の科学」誌の編集者)による情報で、望遠鏡は「3インチの反射望遠鏡」だと書かれています。これは当時の日記の引用なので、いちばん確度の高い情報です。(※前後の文章はこちらを参照。)

2つ目は、伊達得夫氏(編集者・出版人、書肆ユリイカ社主)の記述で、「口径何ミリであるかは知らないが」、「街で売ってる理科学習用のちゃちなものではない」、「黒いつややかな胴体」の「巨大な天体望遠鏡」で、その「がっしりした足が、すりきれた畳を凹ませ」ていたと書かれています。かなり本格的な機材のようです。(※同じくこちらを参照。なお、左のリンク先で、私は文章の出典を『遊(野尻抱影・稲垣足穂追悼号)』(1977)としていますが、オリジナルは伊達氏の遺稿集『ユリイカ抄』(1962)のようです。それが『タルホ事典』(1975)に収録され、そこからさらに『遊』に転載されたようです。)

さて、今回、第3の目撃情報を見つけました。
書き手は稲垣足穂夫人である志代氏(旧姓・篠原)で、やはり昭和23年のエピソードとして出てきます。

「あくる年の春、ふたたび上京して伊達さんといっしょに戸塚の真盛ホテルに滞在中の稲垣を訪ねた。二階の六畳へ通されると先客があった。美しいお嬢さんだった。書物らしいものは一つもなく、こちらの作家というイメージとはおよそかけはなれたものだった。/四センチ赤道儀が唯一の従者のように窓ぎわにすえられてあった。」
(稲垣志代「奇人といわれる足穂との愛情生活」、初出:雑誌『潮』1969年6月号、『タルホ事典』所収)

同じエピソードが、同氏の『夫 稲垣足穂』(芸術生活社、1971)にも書かれています。

「その年の秋も終りごろ、私は東京へ出張した〔引用者註:当時志代夫人は京都府児童福祉司〕。〔…〕ウイスキーを一本手土産に、グランド坂上だという旅館を訪ねると、先客があった。〔…〕私が部屋のなかをあらためて見回すまでもなく、これといった調度品などは見当たらなかった。ただ一つ異様に感じられたのは、部屋の片隅に大きな望遠鏡が、人造人間の従者のように据えられてあったことだった。」

前の文章では「春」、後の文章は「秋の終り」になっています。足穂自身は、『東京遁走曲』の中でこれは12月のことだと書いています。どうも時期がはっきりしませんが、間をとって「秋の終り」とすれば、草下氏訪問の時期と同時期のことになります。

文中の「4センチ赤道儀」という語彙が、志代夫人の中に元からあったとは考えにくいので、これは文章を書くにあたって、夫・足穂に確認して、こう書いたんじゃないでしょうか。とすれば、「赤道儀」というのは、重要な情報ですね。しかし、「4センチ」はさすがに小さすぎるので、これは「4インチ」の勘違い、ないし誤植の可能性もありそうです。

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以上の情報を総合すると、足穂の2代目望遠鏡は「口径3~4インチ、反射式赤道儀で、鏡筒は黒」ということになります。

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ちょっと余談めきますが、昭和23年、ちょうど上の3人が足穂を訪ねた頃の足穂の部屋を写した写真が、『ユリイカ』の2006年9月臨時増刊号(総特集・稲垣足穂)に載っています(オリジナルは、「週刊サンニュース」昭和23年6月25日号)。


「机上に宇宙空間を招来してもてあそび、暫く現世超絶に余念のないタルホ先生」…何だかキャプションが可笑しいですね。この写真は足穂をことさら奇人めかして撮ろうとしているので、もし望遠鏡があれば、きっと添景として画面に入れたはずですが、写っていません。たぶんこの6月の時点では、まだ望遠鏡は部屋になかったのだと想像します。諸氏の証言を考え合わせると、望遠鏡は晩秋の頃に突如として出現し、冬が訪れる頃に再び忽然と消え去ったのでしょう。

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さて、「口径3~4インチ、反射式赤道儀で、鏡筒は黒」という2代目望遠鏡ですが、これは具体的にどういう機種だったのでしょうか?残念ながら、資料不足でよく分かりません。

参考までに、この7年後に編集された『日本教育用品総覧』(教育通信社、1955)を見てみます。ここには五藤光学のダイアナ号(42ミリ、8,500円)から8インチ据付型赤道儀という超大物(2,500,000円也)まで、屈折式望遠鏡は32機種紹介されていますが、反射式は7機種しか載っていません。そのうち小口径の反射式赤道儀に該当するのは、以下の2機種のみ。

1)五藤光学 4.5インチ反射南天赤道儀(小、中、高校向)
 鏡径115mm、焦点距離1200mm、附属品サングラス、天頂プリズム、ファインダー、太陽投映機、倍率38×60×120×250×、59,000円、格納箱付、赤経赤緯微動付。
(※)この望遠鏡は「南天赤道儀」とありますが、経緯台っぽい外観。どうやら天頂から南側だけ赤道儀の動きが可能という代物らしく、ガラクマさんのサイトに関連記述がありました。

2)島津 3インチ標準赤道儀
 口径78mm、附属品サングラス、天頂プリズム、ファインダー、太陽投映機、70,000円、格納箱付、赤経赤緯微動付

脚はいずれもピラー式で、堂々としています。
足穂の部屋にあったのも、こんな感じのものだったんでしょうか。確かにこんなものが古畳の上に置かれたら、ぼこっと凹むでしょうね。それにしても、窓ぎわ観望専門だったら、水平出しや極軸設定はいったいどうしてたんでしょうか。それとも、エッチラオッチラかついで、近くの早大グラウンドあたりで覗いてたんでしょうか。こうした機材は、彼の器械趣味は満足させたかもしれませんが、観望に際しては結構持て余したかもしれませんね。

ところで、上の2機種は鏡筒はいずれも白で、足穂の望遠鏡とはこの点が異なります。
下は同じく1955年に出た、アメリカのSky & Telescope 誌から取った、シアトルの天文マニアたちの愛機です。日本では昔も今も白い鏡筒が主流だと思いますが、当時のアメリカでは黒っぽい鏡筒が流行っていたようです。足穂が入手したのも、ひょっとして輸出仕様とか?


(総集編というわりには、ちょっと竜頭蛇尾。。。)



コメント

_ S.U ― 2010年05月05日 19時14分52秒

 2代目は赤道儀ですか。そうなると1代目とは明らかに別物ですね。

 その場合、まぜっかえしになりますが、「黒い胴体」というのはどちらかというと赤道儀部分を指すような気がします。鏡筒でも良いのですが、何となくドイツ式赤道儀の極軸の腰かお尻のあたりを撫でたくなりそうです。その場合は鏡筒は白くてもよろしいことになりますでしょうか。もちろん、鏡筒が黒いことを否定するものではありませんし、輸入品である可能性も高いように思います。

 次に伊達氏の訪問時期ですが、足穂は「夜いらっしゃい。このごろは土星が見えます」と言いましたが、1948年秋には土星はしし座にいて夜半を過ぎないと見頃の位置に来ませんでしたので、人の訪問を請うには不適当と思います。土星が夜の適当な時間帯に見えたのは12月~6月ということになります。志代氏の「春」もあながち間違いでないのかもしれません。

 もう一つ関連して、有り金がすぐに酒代に消えるような先生が、当時、なぜ戸塚グランド坂で2年近くも宿賃の高い「ホテル住まい」を続けていたのかも問題だと思います。これまた根拠の無い勘ですが、望遠鏡の入手と関係がありそうな気がします。

_ 玉青 ― 2010年05月06日 19時56分59秒

今回もいろいろと論点をご提示いただき、ありがとうございます。

「黒い胴体」…私はただもう鏡筒のことと思いこんでいましたが、確かにガッシリしたドイツ式赤道儀だったら、普通はまずそこに目が行くでしょうから、これを「黒い胴体」と表現する人がいても不思議ではありません。考慮すべき可能性ですね。

「土星の見ごろ」…おお、古天文学的視点(^^)! むう…これは難問です。草下氏の文によれば、11月下旬にあった望遠鏡が、1ヵ月後には消えていたとあって、これは底堅い事実と思われるのですが、お説の通り、その頃には深更にならねば土星は見えませんから、当時足穂と伊達氏の二人が昼夜逆転に近い乱れた生活をしていたのでなければ(その可能性もありますが・笑)、土星見物と洒落こむのはちょっと難しいですね。あるいは足穂の出まかせ、あるいは伊達氏の記憶違いetc…いろいろ人的要因も考えられますが、ちょっとスッキリとは説明がつきません。

ところで志代夫人の記述についてですが、『夫 稲垣足穂』を改めて読んだら、志代さんの足穂訪問の時期がますます曖昧に思えてきました。というのも、志代さんは、足穂初訪問を終えた直後のくだりに次のように書いているからです。「東京から帰ってすぐに、私はグランド坂上の先生の旅館宛に手紙を出した。〔…〕それは数日後に宛先不明で返送されてきた。〔…〕伊達さんから便りがあった。「風来居士イナガキタルホ先生は、目下行方不明です。」

足穂失踪事件は昭和24年5月ですから、これが事実とすれば、志代さんの訪問は、「昭和24年の‘春の終り’」が正解だということになります。となれば土星の問題はクリアできるものの、草下氏の記述とは整合しなくなります。ひょっとして、2代目望遠鏡も「貸金庫」との関係で、消えたり、現われたりを繰り返してしていたんでしょうか?これまた事態は藪の中です。

「足穂の資金源」…これはずばり印税で潤っていたんじゃないでしょうか。中でも、昭和21年8月に出た『弥勒』が、足穂にとっては空前の1万部も売れたのが大きかったのでしょう。その出版契約の内容は不明ですが、事前の買い切りではなくて、事後の売れ高払いだったら、足穂の手元に現金が入るまでにはタイムラグがある筈なので、翌年夏の真誠アパートへの転居は、これがものを言ったのかもしれません。彼は「東京遁走曲」の中で、「『宇宙論入門』『明石』『ヰタ・マキニカリス』『彼等』『悪魔の魅力』と相継いで出版されたが、この大旨はこちらが補助したいような版元であった。〔…〕私は次第に部屋代を納めるのに追われるようになってきた」云々と書いていますが、これこそ文学的修辞というもので、実際は結構実入りがあったはずです。しかも当時は雑誌取材を受けるぐらいの、一種の「時の人」でしたから、いろいろ余禄もあったことでしょう。貧に窮したのは、収入の乏しさではなくて、もっぱら出費の多さゆえであった…と想像しますが、いかがでしょうか。

_ S.U ― 2010年05月06日 22時17分27秒

 えっ、昭和24年だったのですか。志代氏は夫人になった人ですから、信頼性がありそうです。草下氏や伊達氏も足穂の世話をしていた人々ですから、あとでもう少し突っ込んで調べてくれてるとよいのですが。またしても、この「貸金庫」という世の存在が真相究明の邪魔をしているように思います。
 
 足穂は金の出入りの激しい困窮生活を送っていたことは間違いないようですね。金に執着がなかったというのも間違いのないところだと思います。

_ 玉青 ― 2010年05月08日 20時09分04秒

上の引用文をそのまま受け取れば昭和24年なのですが、何せ20年以上経ってからの回想記なので、ちょっと解釈は慎重にならざるを得ません。
総合的に考えれば、やっぱり昭和23年ではないかなあ…と思うのですが、いま一つ決め手に欠けます。
上の記事に出てくる人たちも皆鬼籍に入って久しく、まさに戦後も遠くなりにけり、ですね。

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