博物図譜とデジタルアーカイブ2010年05月31日 21時36分42秒

Tizitさんにコメント欄で教えていただいた荒俣宏氏の関連情報。
Tizitさんもご自分のサイト(http://imaginarybeings.com/wordpress/?p=620)で記事に書かれていますが、私も尻馬に乗ってご紹介。

■武蔵野美術大学企画展
 美術館・図書館新棟落成記念「博物図譜とデジタルアーカイブ I」
 http://www.musabi.ac.jp/library/muse/tenrankai/kikaku/2010/10-03haku1.html

会期は6月21日から8月7日まで。
武蔵美はもともと博物学書の収集をしていたのですが、さらに文科省の補助を受けて、「荒俣宏氏旧蔵コレクション」を取得するに至り、今回はそのお披露目を兼ね、それらの図譜をご自慢の<高精細画像閲覧システム>で見ていただきましょう…ということで企画された展覧会です。

  ★

同大学が荒俣氏のコレクションを取得するまでの、水面下の動きはよく分かりませんが、氏の貴重なコレクションが散逸することなく次代に引き継がれるのは大変結構なことです。氏はそれらの本から既に十分養分を吸収し、もう必要とされなくなったのでしょう。となれば、いたずらに個人の元で死蔵されるよりも、公共財として万人に開かれた存在となるほうが、書物にとってもずっと良いことです。

…というのは、あくまでも建前論で、あまりストンと私の腹に落ちません。

氏の行動はあまりにも恬淡として、少なからず違和感を覚えますが、その心中を察すれば、やはりそこには深い感慨と一抹の寂しさがあるに違いなく、赤の他人である私も、何だかそぞろ寂しい気がします。

やはり個人蔵書は、持ち主から切り離されてしまうと、そこに籠もった「気」や「念」が失せて、平板なものになってしまうのではないでしょうか。

あるいは同じく蔵書を処分するのでも、大規模な売り立てでも行ったら、お祭りムードで古書市場も大いに活気づき、他の個人コレクターのためにもなったのでしょうが、大学図書館が一括買い上げとなると、本としては終身刑の宣告を受けたに等しく、もう2度と生きて娑婆に出てくることはないでしょうし、そのことも寂しさを増幅します。

   ★

そういえば、先月の朝日新聞の書評欄で、氏の近著『アラマタ美術誌』(新書館)が紹介されたとき、記事では以下のように書かれていました。


「〔…〕博物学者、作家、翻訳家として世に知られるが、
当人は「在野のライターですよ」という。1985年に発表
した小説『帝都物語』の大ヒットで世に知られたのち、
全7巻の大著『世界大博物図鑑』などを著し、テレビ番
組にもしばしば登場し人気を集めた。知識の多くは大
学などで得たものではなく、古本屋の棚に目を光らせ、
深夜にせっせとオークションで競り落とした希書収集の
成果だ。

 ところが情報化社会の荒波とでもいうべきか、手作
業で集めてきた貴重な情報や知識のたぐいが、テレビ
やネットの影響でどんどんフラット化、メジャー化して
いる。「本当にマイナーな情報を発信することが難しい
時代。広大な埋め立て地で数千年前の遺物を発見す
るというような離れ業を求められています。在野のライ
ターとしては、楽しくもあり、厳しくもあり」〔…〕」
(朝日新聞、2010年4月4日)


荒俣氏にして、こういう状況だというのは、良いことなのか、悪いことなのか。
おそらくそれは盾の両面で、たぶん両方の面があるのでしょう。

それにしても―。
上の記事を読んで、私が感じる「違和感」の正体が分かった気がします。
それは、結局のところ、荒俣氏にとっての博物図譜は「資料」であって、愛書の対象ではなかったのか…という疑念です。氏は過去に『稀書自慢 紙の極楽』というような本も出されていますが、その心底やいかに?

   ★

さて、持たざる者のひがみ根性はさておき、今回の件で一層注目すべきことは、博物図譜のデジタルアーカイブ化のほうです。が、長文になったので、記事を分割します。

(この項つづく)

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