博物図譜とデジタルアーカイブ(後編)2010年06月01日 19時38分41秒

昨日は急いで記事を書いたので、読み返してみると、何だか意味不明です。
言いたかったのは、要するに「辛苦の末に蒐集した本たちを、ポンと手放すとは!氏の本に寄せる愛情とはいったい…?」という不審、ないし慨嘆です。でも、これは事情を知らない第3者の無責任な発言であり、荒俣氏に対しては失礼千万な話。しかし、そういう思いを抱いた人間がいることも事実なので、記事はそのままとします。いずれにしても、展覧会の内容とはあまり関係がない話でした。失礼しました。

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失礼ついでに、今日も展覧会の内容そのものとはあまり関係ない内容です。
書籍のデジタルアーカイブ化をめぐる呟き。

そのメリットが非常に大きいことは、今さら言うまでもありません。
第1に保管の便。電子データは場所をとりませんし、紙の劣化など気にせず見放題です。第2に利用のしやすさ。あっという間に検索できるし、公開されればどこからでもアクセス可能。そして複製も簡単です。

逆にデメリットは、記録メディアの脆弱性で、百年、千年単位の保管を考えた場合、電磁的擾乱への弱さや、表面劣化によって情報が読み出せなくなるのは、とても困ります。それから情報を読み出す機器の操作性も、もっともっと向上してほしい。しかしこれらは技術の進歩によって、いずれは気にならなくなるでしょう。

さて、ここまでは理屈で考えた話。
私の素朴な受け止め方は、もっと電子データに辛くて、「そもそも機械がなければ読めないなんて、半人前もいいところだ。それにディスプレイ越しに眺めたって、味わいも、趣きもないじゃないか。」というものです。

まあ、これは新美南吉の『おじいさんのランプ』的な、情緒的反応に過ぎませんが、「おじいさん」が、新時代の電灯に反感をおぼえると同時に、その向こうに大きな時代の変化を感じ取ったように、デジタルアーカイブ化という行為も、記録メディアの変化にとどまらない、何かもっと大きな時代の変化―たぶん人類史的に見ても画期的な変化を予感させます。(年寄り=私は、大きな時代の変化に、えてして感情的反発を覚えるものです。)

   ★

古事記が編纂されたとき、稗田阿礼が口承の記憶を、紙と文字に譲り渡したこととは、情報の保持・伝達手段の歴史上、特筆すべき出来事だったと思いますが、デジタルアーカイブ化もそれに匹敵するもの、いやそれ以上かもしれません。たぶん、「紙の本の運命やいかに?」という問いは、事態全体からすれば瑣末な問題なのでしょう。

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デジタルアーカイブ化が行き着く先は何か。私はこんなことを夢想します。

“情報のデジタル化と並行して、生体工学も進歩を続けることであろう。代替医療の分野における、視聴覚障害の補償技術を尖兵として、外部メディアと神経系とを直結する技術が誕生するのも、そう遠いことではあるまい。そしてヒトが対象を<認識>するというのも、結局は情報のデコーディングに他ならないのだから、いくぶん遠い将来においては、多くのSFが予言するように、ヒトが電脳空間を文字通り直接体験し、内と外、自己と他者の境界が意味を失うような事態が生じるのだろう。”

既存の情報のデジタル化は、そうした世界への布石であり、後になって振り返れば、「あれが大きな節目であった…」と、この21世紀初頭を回顧するのではありますまいか。(一種のサイバーパンク的未来観ですね。内と外の区別の喪失は、統合失調症の基本的病態といわれますが、未来では世界全体がそういう色彩になるのかもしれません。)

   ★

改めて現代に立ち返ると、もちろん紙の本が消えることは当分なく、むしろ積極的に独自の価値を見出され、さらにその蒐集行為が一定規模で存続するのは確かでしょう。
しかし、そうしたこととは別の次元で、人間存在のありようが、全情報のデジタル化とともに、ドラスティックに変化しつつあるのかもしれないなあ…と、展覧会の話からだいぶ飛躍しましたが、そんなことを思いました。

タルホ降霊会…パテェ・ベビーの夕べ2010年06月02日 22時04分09秒

(↑背景は雑誌『サライ』の足穂特集号:1994年11月17日発行)

作家・稲垣足穂が、仏パテェ社の映画フィルムに深い思い入れを抱いていたことは、以前書きました(http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/04/13/)。

写真は、そのパテェ社が売り出した、家庭用の9.5ミリ映画フィルム。
マガジンの直径は約5センチという可愛らしいサイズです。

1920年頃に作られたこの古ぼけた映画、作品名を「La Jour et la Nuit.( 昼と夜)」といいます。なにか光と闇を象徴するタイトルですね。天文学の初歩を説くその内容も、まさにタルホ向き。

雨風まじりの暗い晩に、カタカタと映写機を回せば、いつのまにか隣にタルホの霊が座っているような気がします。

もちろん、本当に映写するわけにはいかないので、スキャナーでフィルムを読んでみます。

(この項つづく)

パテェ・ベビーの画面に星がまたたくとき、タルホが来りて…2010年06月03日 18時25分37秒

…雨脚がだんだん強まる中、この奇妙な会に集まった人たちは、陰鬱に押し黙ったまま、これから何が始まるのか、それぞれに思いを凝らしているようでした。
この家の主は、奇妙な光を帯びた目でそれを眺めながら、おもむろに口を開きました。
「お足元の悪い中、皆さんようこそお越しくださいました。全員お集まりのようですね。では、そろそろ始めましょうか。」

主は立ち上がって電燈をパチンと消し、手探りで映写機のスイッチを入れました。
「これから、画面に現れるものによく注目してください。見えるのはほんの一瞬かもしれません。しかし、必ず見えるはずですので、どうぞお見逃しなく。」

カタカタ…と機械が動き、フィルムが回り始めました。


まず画面に登場するのは、パテェ社の雄鶏マークです。
どこからかシガレットの匂いがかすかにします。早くもタルホの霊気を感じます。

いよいよ物語が始まります。遠い山並みの上に浮かぶ月、そして星。

         天文學 『晝と夜』 モニオール氏作畫 地球の廻轉

                  地球は丸い惑星です。
       巨大で燃え盛るもう一つの球、すなはち太陽に照らされてゐます。


     地球はこんな工合に、一つの方向からのみ照らされてをります。
                一方が晝で、反對側は夜です。


      地球は想念上の心棒、すなはち地軸のまはりを囘つてゐます。

  ★

…仮想上映会はこのあとも続きますが、フィルムの紹介はここまでで終りです。
あんまりフィルムを引っぱり出すと、元に戻せなくなりそうなので。
太陽と地球の物語がこの先どう展開するのか。
そして、上映会に降臨したタルホが何を語るのかは、私も知りません。
他の皆さんとともに想像するのみです。

  ★

百物語は99話で語り納めとするのが、古くからの定法だそうです。

(なお、上の画像はふつうのスキャナーを使い、800dpiで読みました。)

二廃人、いつもの話を蒸し返す。2010年06月05日 21時45分50秒

「やあ、疲れた顔をしているね。」
「ああ、君か。うん、今日は部屋の片づけをしていてね。いささか草臥れた。」
「またかい。しょっちゅう片づけをしてる男だな。」
「しょうがないよ。すぐに散らかるんだから。収納力もとっくに限界を超えてるんだ。」
「それでもまだ物を買い込む奴の気がしれないね。」
「自分でもそう思うよ。まったく自分の性癖が呪わしい。」
「ははは、今日はずいぶん素直だね。反論はなしか。」
「ああ、なしだ。全くない。ただね、これまで買い込んだものを眺めていて、不思議と後悔はしない。みんなよく来てくれたねえ…と、声をかけたい気がする。」
「結局、ぜんぜん懲りてないわけだ。」
「うーん、これは懲りるとか懲りないとかいうことじゃなくて、何て言うかな、出鱈目に買っているようにみえて、やっぱり何か必然性があったというか。不合理なように見えて、より高次の合理性に裏打ちされた行為というか。要するに、自分の行為に意味を感じるということだな。人生は大いなる無意味とはいえ、こと自分の人生に限っていえば、意味がなければとても耐えられない。そうは思わないか。」
「ははん。これだけ買い込んで、意味を感じられなかったら、恐るべき悲劇だろうな。」
「厭なことを言うね。」

  ★

「じゃあ、君が書いてるブログ、あれも意味の産物か。」
「ブログねえ…。あれはあれで、ちょっと複雑な気がしている。」
「ん?どういうことだい。」
「毎日書くのは、ちょっとしんどい。」
「別に毎日書かないといけない決まりはないだろう。マイペースで書けばいいじゃないか。」
「そうはいかない。あれはネットで公開している以上、他の人も読んでいるわけだけれど、第一の読者は自分だ。当り前のことだけれど、僕は書き手であり、同時に読者でもある。その読者としての自分が、そういう書き方を認めようとしないのだ。書き手のマイペースと、読み手のマイペースが一致しないというかな。」
「分かったような、分からんような話だな。」
「簡単なことさ。あんな駄文でも、面白いと思わなけりゃ、書く意味はないじゃないか。で、そんなに大して中身もない話を、のんべんだらりと書かれたんじゃ、読む方としてはいっこうに面白くも何ともないわけさ。」
「ふーん、ご苦労な話だな。まあ、それで君が良けりゃ、こっちとしては何も言うことはないが。」
「だから、複雑な気がしている、と言ったじゃないか。あんまり水臭いことを言わんでくれよ。うん、どうだろう、読み手が一人に書き手が一人じゃ追っつかないから、君も書くのを手伝ってくれないか。」
「いや、ごめん蒙る。それよりも、君は読み手を減らす努力をした方がいいね。書くときは両目で、読むときは片目で読むといいよ。じゃ、また。」

魚の口から泡ひとつ…フィッシュマウスネビュラの話2010年06月06日 17時09分51秒

現在、「ジョバンニが見た世界」の再開準備中ですが、その関係で調べ物をしていて、今日気付いた事実があるので、ちょっと寄り道します。

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草下英明氏に「賢治の読んだ天文書」という論考があります(『宮澤賢治と星』、学芸書林、1975所収)。その冒頭に次の一節があります。

「昭和26年5月、花巻を訪れて〔実弟の〕清六氏にお会い
した折、話のついでに「賢治さんが読まれた天文の本は
どんなものだったんでしょうか。貴方に何かお心当りはあり
ませんか」とお尋ねしてみたが「サア、どうも覚えがあり
ませんですね。多分貧弱なものだったと思いますが」という
ご返事で…」

草下氏の一連の論考は、「星の詩人」宮澤賢治の天文知識が、意外に脆弱であったことを明らかにしています。たとえば「銀河鉄道の夜」に出てくる「プレシオス」という謎の天体名。これは草下氏以降、プレアデスの勘違いだったことが定説となっています。こんな風に、賢治作品で考証が難航した天体名は、大体において彼の誤解・誤記によるものらしい。

もちろん、それによって彼の文学的価値が減ずるわけではありませんが、後世の読者として気にはなります。

  ★

さて、「魚口星雲(フィッシュマウスネビュラ)」というのも、読者を悩ませる存在の1つ。
草下氏は、「賢治の読んだ天文書」の末尾で、これを以下のように解説しています。

「吉田〔源治郎〕氏の著書には現われない言葉で、しかも
賢治の造語とは到底考えられない用語も発見される。
その一例として、『シグナルとシグナレス』や『土神と狐』の
中で環状星雲のことを魚口星雲(フィッシュマウスネビュラ)
と呼んでいることである。別に『星めぐりの歌』では「アンド
ロメダの雲は魚の口のかたち」とも詩っている。環状星雲
というのは指環のようなリング状のガス星雲で、これを魚
の口を真正面から見た形として魚口星雲と呼んだのは、
なかなか穿っていて面白いが、寡聞にして私は環状星雲
やアンドロメダ星雲のそういう別名を未だ書物で読んだこと
はない。もちろん吉田氏の本にも書かれていないのである
が、ただ環状星雲の写真は載っているから、それを見た直観
からの賢治の造語と解釈しても差支えはないが、どうも私は
別の書物から得た知識と考える方が妥当だと思っている。」

(↑吉田源治郎、『肉眼に見える星の研究』、警世社、1922より)

そして、『宮澤賢治と星』の巻末(166-67頁)では、「野尻〔抱影〕先生に依ると、古い天文書でオリオンの星雲を魚の形に見立てて書いてあるものがあるそうだ。賢治には何か拠り所はあるのであろうが、ちょっと疑問である」とも付記されています。

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で、今回気付いたのは、野尻氏の解釈どおり魚口星雲とはオリオン星雲(の一部)を指す言葉に他ならず、賢治はその名称を、意識してかどうかは分かりませんが、環状星雲やアンドロメダ星雲に「応用」したのだということです。

明治時代の後半、天文学の啓蒙書として非常に愛読されたものに、以下の本があります。

■須藤傳次郎(著)『星学』(帝国百科全書第60編)
 明治33年(1900)、博分館
 (私が直接参照したのは、1910年の第9版)

ここには、以下の記述があります。

「ヲライオン」星宿の大火星雲〔この本ではnebulaを‘火星雲’
と訳しています。惑星の火星とは無関係〕は、多重星「テータ」
の近傍に在りて青白色を帯ふ 而して其形状及び光輝部の
常に変動することは毫も疑を容るべからず 強度の望遠鏡を
以て之を観測するときは其形状恰も魚口に類するを以て魚口
火星雲の称あり

(↑須藤傳治郎、『星学』より)

本書序文で著者は、執筆にあたって「ロッキャー氏及びニューカム氏の星学初歩等」を参考にしたと書いています。そこで更に、J. Norman Lockyer の「Elements of Astronomy」(Appleton版、1878)を見ると、不規則星雲の項に、果たしてこう書かれています(p.50)。

「One part of it 〔=オリオン星雲〕 appears, in a powerful
telescope, startlingly like the head of a fish. On this account
it has been termed the Fish-mouth Nebula.」

賢治が須藤氏のこの本を読んだ確証はありませんが、かなり売れた本らしいので、読んだ可能性は大いにあると思います。

賢治の母校・盛岡高等農林の図書館蔵書目録によれば(こちらを参照)、同館には須藤氏の『星学』こそないものの、ロッキャーの上掲書を訳した『洛氏天文学』(明治12年刊)は所蔵されていました。

私は同書を見たことがありませんが、賢治には同図書館の本をすべて読んだという「伝説」があって、後者によってロッキャーの記述に直接触れた可能性も少なからずあります。(興味深いことに、ロッキャーの原著では、フィッシュマウスネビュラのすぐ下に環状星雲、そして隣にアンドロメダ星雲の挿絵が来ています。賢治がこの本を読んだとしたら、その絵柄と魚の口の形とが自ずと結びついても不思議ではありません。アンドロメダも、ちょうど口の形に見えますね。)

(↑Lockyer 上掲書より。左・こと座の環状星雲、右上・アンドロメダ星雲)

  ★

以上、大雑把ですが、「フィッシュマウスネビュラ」という語が直接指すのはオリオン星雲のことであり、賢治はこれをロッキャー由来の天文書で読んで脳裏に刻んだものの、いつの間にか環状星雲やアンドロメダ星雲と脳内でまじり合ってしまい、その誤解が解けぬまま文章を綴った…というのが、私の現時点での推測です。(このことは、もうどなたか書かれているかもしれませんが、私にとっては新知見なので書いておきます。)

魚の口はどこにある2010年06月07日 20時23分35秒

(寄り道のおまけ。昨日の続きです。)

「魚の口」の由来を知りたいと思いました。
ロッキャーの本では典拠なしに、「前からそう呼ばれている」みたいな書き方になっていましたが、同時代の本に何冊か当っても、あまり出てきません。須藤氏がロッキャーと共に参照したというサイモン・ニューカムの本にも出てこないようです。

もちろん、これは一種の愛称で、学問的に正式な呼び方ではないのでしょうが、愛称にしてもあまり普及しているとは言い難い。アマチュア向けの観測ガイドの古典とされる、トーマス・ウェッブの『普通の望遠鏡向きの天体 Celestial Objects for Common Telescope」(1859)や、C.E.バーンズの『宇宙の驚異1001個 1001 Celestial Wonders』(1929)にも出てこない呼称です。

で、今のところ私が目にした唯一の例は、ウィリアム・ヘンリー・スミスが1844年に出した『天体の回転A Cycle of Celestial Objects』です。これは趣味の天体観測ガイド本の元祖とされ、特に、観測目標一覧をまとめた下巻は「ベッドフォードカタログ」と通称され、この部分だけ現在でもリプリント版が流通しています。

その「ベッドフォードカタログ」の「オリオン座θ1」の項目に、「オリオンの剣のさやの中央にある、巨大な星雲から成る“魚の口”(the “Fish’s mouth” of the vast nebula in the middle of Orion’s sword-scabbard)」という表現があり、その後の方で「魚の口と呼ばれる部分、及び有名なトラペジウムは、前図のように大まかにスケッチすることができる」として、下のような図を掲げています。


現在では「翼を広げた形」に見なされるオリオン星雲ですが、スミスは両翼の間の凹部を「口」に見立てたわけですね。

  ★

スミスも本の中で書いていますが、オリオン星雲の形が本格的かつ徹底的に調査されたのはさして古いことではなく、スミスの友人でもあるジョン・ハーシェル(ウィリアム・ハーシェルの息子。以下ジョン)が、南アフリカで1830年代に行った業績が、その口切のようです。ジョンは1834年から38年までケープに滞在し、南天研究に取り組みましたが、オリオン星雲もその対象の1つ。南アフリカは故国イギリスよりもはるかに観測条件が良かったので、オリオン星雲の形状に何か目に見える変化が生じているのかどうかというテーマに取り組むにはうってつけだったのです。

ジョンは1833年に『天文学要論 A Treatise on Astronomy』という、天文学の啓蒙書を出しましたが、ケープから帰国後にこれを増補して『天文学概論 Outlines of Astronomy』(1849)として新たに出版しました。

下に掲げる図のうち、上の図は『要論』の挿絵で、イギリスでのスケッチに基づくものです(ただし後の1845年版から取りました)。そして下の図は『概論』のもので、南アフリカでの成果が存分に生かされています。




ジョンは『概論』の中で、オリオン星雲についてこう書いています(『要論』にはない記述)。

「形状の点で、その最も明るい部位は、鼻口部から突出した一種の吻(ふん)を伴った、何か怪物めいた動物の頭部および大口を開けた顎との類似を思わせる。(In form, the brightest portion offers a resemblance to the head and yawning jaws of some monstrous animal, with a sort of proboscis running out from the snout.)」

なんだかオドロオドロしいですね。
ジョンは観測成果を随時、王立天文学会等で報文発表していたので、この表現ももっと早くから使っていたかもしれません。仮にそうだとすると、スミスの「魚の口」のルーツは、ジョンの「怪物の口」じゃないでしょうか。「お魚の可愛いおちょぼ口」というよりも、グワッと喰らいつくようなイメージです。

ジョバンニが見た世界…銀河のガラス模型(1)2010年06月08日 20時44分22秒

(M104、ソンブレロ銀河。Wikipediaより。画像ソースはNASA)

さて、寄り道から本道に戻り、『銀河鉄道の夜』に登場する天文アイテムの話題を半年ぶりに再開します。

   ★

これまで取り上げたのは、作品の冒頭に登場する<天文掛図>と<銀河の雑誌と大きな本>の話題でしたが、今回は話の順番に沿って「銀河のガラス模型」がテーマです。

 ■  □

 先生はまた云いました。
 「〔…〕この模型をごらんなさい。」
  先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面
 の凸レンズを指しました。

 「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの
 光るつぶがみんな私どもの太陽と同じようにじぶんで
 光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ
 中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。
 みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を
 見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄い
 のでわずかの光る粒即ち星しか見えないのでしょう。
 こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒即ち
 星がたくさん見えその遠いのはぼうっと白く見えるという
 これがつまり今日の銀河の説なのです。〔…〕」

 ■  □

この美しい銀河模型。銀砂子の散った凸レンズ型のオブジェというのは、何だか本当にありそうな気がします。そして私自身、これまでずいぶん気にかけて探してきましたが、まだお目にかかったことはありません。

残念ながら、これは現実の天文教具としては存在せず、純粋に賢治の創作なのだと思います。(もちろん私が見たことがないから、即「ない」とは言えませんが、仮に存在するにしても、非常に希少なものでしょう。)

  ★

このガラス模型をめぐって、これから考察をしていくのですが、その前に銀河系を「凸レンズ」にたとえた例を見ておくことにします。

(冗漫ながら、この項つづく)

ジョバンニが見た世界…銀河のガラス模型(2)2010年06月09日 19時38分48秒

(昨日のつづき)

賢治は明治29年(1896)の生まれ。大正元年(1912)のときには16歳で、昭和をちょうど30歳で迎え(1926)、昭和8年(1933)に37歳で没しました。彼が生きたのは、ちょうど宇宙構造論が劇的に変化した時代に当ります。

下は賢治の没後、昭和11年に出た『少年天文読本』(『子供の科学』誌別冊付録)から取った「銀河系及び大宇宙の構造」の図。銀河系の直径は20万光年、太陽系は、いて座方向にある中心部から5万光年ほど寄った位置にあることが描かれています。


「銀河までを大体の限りとして、普通の星のある範囲は大体円盤
のやうな形をしてゐることを前に述べました。そして、その円盤型の
宇宙の内には数十億の恒星やガス星雲、散開星団等が含まれ、
球状星団がその周囲にちらばってゐることは前述のとほりです。

〔…〕そこで私共はこの銀河や球状星団までを限りとするこの円盤
状の宇宙を銀河系と呼んで、これを一つの宇宙と考へ、渦状星雲は
それら一つ一つが一つの宇宙であると考へます。そういふ意味で、
銀河系のことを我宇宙なぞと呼ぶこともありますし、逆にこの銀河系
も他から見れば一つの渦状星雲に外ならないだらうとも考へます。」

細部の数値の異同はともかく、現在の標準的な銀河系モデルとほぼ同じですね。特に奇異な点はありません。しかし、その20年前にはまた違ったモデルが存在しました。
既出の井田誠夫氏の論考(http://mononoke.asablo.jp/blog/2008/05/03/3449422)には、大正4年(1915)の『天文月報』から取った以下の文章が引用されています。

「太陽は銀河の中心より幾何か白鳥座の方向に偏よって居ると
思はれます。銀河の距離の如きは 勿論正確には分って居りませぬが
沢山の学者の研究によれば 五千光年位まで拡がつて居るやうに
思はれます。結局吾々の見て居る星の世界は 短軸が六千光年で
長軸が一万光年位のレンズ形と見倣すことが出来ませう。而して
吾々の見て居る星、星団及び星雲等は皆此星の世界の中に位して
居るものでありませう。この吾々の星の世界の外には果たして何者が
存在するでありませうか、この間に対しては 現今の吾々の知識では
何も分らぬ、と答へるより外に致し方がないと思ひます。」
(小倉伸吉「星の距離(三)」、『天文月報』7巻12号、大正4年3月)

大正4年は、ちょうど賢治が盛岡高等農林に入学した年で、同校図書館は『天文月報』を購読していたので、賢治自身この文を目にした可能性があります。銀河系のサイズがずいぶん小さいのと、我が銀河系だけがこの世に存在する唯一の恒星集団だとする点で、これはいかにも古風な学説ですが、賢治の学校時代には、まだそうした説が力を持っていたのです。(なお、この文章だけだと、小倉のいう「レンズ形」が、饅頭のような扁球なのか、ラグビーボールのような長球なのか、はたまた「平べったい楕円形」なのか、はっきりしません。)

この辺の事情は、以前にも「渦巻き論争と宇宙イメージ」として、過去に3回にわたって記事にしました。

ちょっと話題がずれたかもしれません。
ここで問題にしたかったのは、「島宇宙説」の発展云々よりも、賢治が銀河系の形象として、どんな形を思い浮かべていたろうかということです。

賢治の天文知識の重要な供給源とされる、吉田源治郎の『肉眼に見える星の研究』(大正11年)には、「ハーシェルは其形状を大きな磨(うす)に擬(なぞ)らへました」云々と書かれていますが、レンズの比喩は出てきません(ハーシェルが使った「うす」の原語は未詳)。

ただし、「アンドロメダ座螺旋状大星雲」の解説では、下のようなお馴染みの写真と共に、「之等は皆、我々の宇宙―『天の河』宇宙域外に散在する所の、それぞれ各自に独立した一個の宇宙であらうと想像されて居ります」という説明があって、我が銀河系の形状も、こうした写真から類推される部分が大きかったろうと思います(上の『少年天文読本』の図は、まさにそうですね)。


で、ちょっと気になるのは、このアンドロメダ銀河の写真は、もちろん円盤状のものを斜めから見ているので楕円に見えているわけですが、当時一般の人は、画面の奥行を無視して、正しく楕円形をしたものという風に受け止ったかもしれないなあ、ということです。

大正12年に出た古川龍城の『天体の美観 星夜の巡礼』には、「天の川は我が宇宙の外辺にあたり〔…〕その直径は約二十万光年にも及び、厚さは割合に小さく其の五分の一ぐらゐと評価されてゐる。そして全形はあだかも凸レンズの恰好をしてゐる」とあります。「厚さは割合に小さく」とありますが、それでもかなりの厚さ。

さらに下った昭和8(1933)の『天文学辞典』(山本一清・村上忠敬著)でも、「銀河宇宙」の項で「天の河を周縁とする宇宙は 我が太陽系の存する宇宙であって 両凸レンズ形を成し その直径が凡そ二十万光年程度で その厚さは五万光年内外である」と書かれていて、厚みは一層増しています。

凸レンズの比喩はいいにしても、上のような説明だと、写真に写ったアンドロメダ銀河さながらの、かなり分厚いレンズ形を思い浮かべることになります。もちろん「銀河系」の指示対象にもよるのですが、恒星が分布するディスクと中央のふくらみ(バルジ)だけを取り出すと、現代の我々がイメージする銀河系は、もっと平べったいので、賢治の時代はその点がちょっと違ったかもしれません。

  ★

昨日はウィキペディアから適当に画像を貼り付けましたが、M104のイメージは賢治の頃にも流通していて、これも分厚い凸レンズのイメージに益したことでしょう。

↑野尻抱影の『星座巡礼』(第7版・昭和6年;初版は大正14年)より。



ジョバンニが見た世界…銀河のガラス模型(3)2010年06月10日 19時22分25秒

先日書いたように、この銀河のガラス模型は、実際に作られたことはないと思います。
たしかにガラスキューブの中に造形された銀河模型はいろいろあるのですが、モデルの全形がレンズ型をしているものは、おそらく人々の心の中にしか存在しないのではないでしょうか。

したがって、以下では「心の中にあるモデル」の具体化として、いろいろな描き手による作画例を見てみようと思います。

まずは、ますむらひろし氏。
ますむら作品の特徴は、登場人物がすべて猫の姿で描かれていることで、先生もやっぱり猫です。

(出典:ますむらひろし(著)『銀河鉄道の夜』、朝日ソノラマ、第6版1989(初版1985))

「中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズ」と原文にある通り、これは相当大きいです。巨大と言って差支えありません。こうなると手で持ち上げることはできないので(推定重量は200kg超)、専用の台に載っているのでしょう。

これに次いで大きいのが、小林敏也氏のイメージです。

(出典:小林敏也(画)『画本 宮澤賢治/銀河鉄道の夜』、パロル社、1984)

こちらの推定重量は約40kg。持てない重さではありませんが、片手で持つのは相当大変です。この先生はかなり肉体を鍛錬されているのだと思います。

全形はますむら氏のモデルとよく似ていますが、最大の違いは銀の粒の分布です。ますむら氏のモデルは、銀の粒が一様に散っていますが、小林氏のモデルは、凸レンズの中に更にレンズ形の銀河が造形されています。

これは、ますむら氏の解釈に理があると思います。賢治が意図したのは、星の分布が一様でも、見る方向によって見え方に濃淡が生じる事実の説明なので、そのためには、ますむら氏のモデルの方が適切です。ガラスの中に改めて銀河の形状を再現するのであれば、ガラス自体がレンズ形をしている必然性はありません。

小林氏の描かれたこの本は、数ある『銀河鉄道』の絵本の中でも、そのリアリティにおいて出色の出来映えだと私は思っていますが、上の絵はそういう訳で、「真」からやや遠ざかっている印象を受けます。(「現実の姿」と「表現のリアリティ」というのは必ずしも一致しないかもしれませんが…。)

(作画の話、さらにつづく)

ジョバンニが見た世界…銀河のガラス模型(4)2010年06月11日 20時17分31秒

3つめは、田原田鶴子氏のモデル。

(出典:田原田鶴子(絵)『銀河鉄道の夜』、偕成社、2000)

金属製の繊細なスタンドが素敵です。製品としての完成度は断トツでしょう。
これは現実にあって欲しいです。そして、もちろん私の机の上にも欲しいです。

銀の粒の分布に関しては、昨日の小林氏のモデルと同じことを指摘できますが、デザイン的には、むしろこのままの方が美しいかも(何だか言ってることに一貫性がないですね)。

   ★

最後は松田一輝氏によるモデル。「文芸まんがシリーズ」と銘打ったコミック版の銀河鉄道から2コマ引用させていただきます。


(出典:松田一輝(作画)『文芸まんがシリーズ15/銀河鉄道の夜』(小田切進・監修)、ぎょうせい、第3版1994(初版1992))

レンズが木枠にはまっている点が、他にはない特徴です。
銀の粒の分布は、ますむら氏のモデルと同様で、変に銀河系っぽくないところがむしろリアルです(1コマ目の中央に見える「天の河」は勇み足?)。ただし、原文にある「両面の凸レンズ」という表現とは、ちょっと形状が合いません。

   ★

さて、ここからまた話が変な方向に行くのですが、田原氏のモデルは難易度が高いにしても、この松田氏の考案したモデルならば、何とかマネができないだろうか?…と思って、手慰みに銀河のモデルを作ってみることにしました。

(次回につづく)