博物図譜とデジタルアーカイブ(後編)2010年06月01日 19時38分41秒

昨日は急いで記事を書いたので、読み返してみると、何だか意味不明です。
言いたかったのは、要するに「辛苦の末に蒐集した本たちを、ポンと手放すとは!氏の本に寄せる愛情とはいったい…?」という不審、ないし慨嘆です。でも、これは事情を知らない第3者の無責任な発言であり、荒俣氏に対しては失礼千万な話。しかし、そういう思いを抱いた人間がいることも事実なので、記事はそのままとします。いずれにしても、展覧会の内容とはあまり関係がない話でした。失礼しました。

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失礼ついでに、今日も展覧会の内容そのものとはあまり関係ない内容です。
書籍のデジタルアーカイブ化をめぐる呟き。

そのメリットが非常に大きいことは、今さら言うまでもありません。
第1に保管の便。電子データは場所をとりませんし、紙の劣化など気にせず見放題です。第2に利用のしやすさ。あっという間に検索できるし、公開されればどこからでもアクセス可能。そして複製も簡単です。

逆にデメリットは、記録メディアの脆弱性で、百年、千年単位の保管を考えた場合、電磁的擾乱への弱さや、表面劣化によって情報が読み出せなくなるのは、とても困ります。それから情報を読み出す機器の操作性も、もっともっと向上してほしい。しかしこれらは技術の進歩によって、いずれは気にならなくなるでしょう。

さて、ここまでは理屈で考えた話。
私の素朴な受け止め方は、もっと電子データに辛くて、「そもそも機械がなければ読めないなんて、半人前もいいところだ。それにディスプレイ越しに眺めたって、味わいも、趣きもないじゃないか。」というものです。

まあ、これは新美南吉の『おじいさんのランプ』的な、情緒的反応に過ぎませんが、「おじいさん」が、新時代の電灯に反感をおぼえると同時に、その向こうに大きな時代の変化を感じ取ったように、デジタルアーカイブ化という行為も、記録メディアの変化にとどまらない、何かもっと大きな時代の変化―たぶん人類史的に見ても画期的な変化を予感させます。(年寄り=私は、大きな時代の変化に、えてして感情的反発を覚えるものです。)

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古事記が編纂されたとき、稗田阿礼が口承の記憶を、紙と文字に譲り渡したこととは、情報の保持・伝達手段の歴史上、特筆すべき出来事だったと思いますが、デジタルアーカイブ化もそれに匹敵するもの、いやそれ以上かもしれません。たぶん、「紙の本の運命やいかに?」という問いは、事態全体からすれば瑣末な問題なのでしょう。

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デジタルアーカイブ化が行き着く先は何か。私はこんなことを夢想します。

“情報のデジタル化と並行して、生体工学も進歩を続けることであろう。代替医療の分野における、視聴覚障害の補償技術を尖兵として、外部メディアと神経系とを直結する技術が誕生するのも、そう遠いことではあるまい。そしてヒトが対象を<認識>するというのも、結局は情報のデコーディングに他ならないのだから、いくぶん遠い将来においては、多くのSFが予言するように、ヒトが電脳空間を文字通り直接体験し、内と外、自己と他者の境界が意味を失うような事態が生じるのだろう。”

既存の情報のデジタル化は、そうした世界への布石であり、後になって振り返れば、「あれが大きな節目であった…」と、この21世紀初頭を回顧するのではありますまいか。(一種のサイバーパンク的未来観ですね。内と外の区別の喪失は、統合失調症の基本的病態といわれますが、未来では世界全体がそういう色彩になるのかもしれません。)

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改めて現代に立ち返ると、もちろん紙の本が消えることは当分なく、むしろ積極的に独自の価値を見出され、さらにその蒐集行為が一定規模で存続するのは確かでしょう。
しかし、そうしたこととは別の次元で、人間存在のありようが、全情報のデジタル化とともに、ドラスティックに変化しつつあるのかもしれないなあ…と、展覧会の話からだいぶ飛躍しましたが、そんなことを思いました。