博物図譜とデジタルアーカイブ(後編) ― 2010年06月01日 19時38分41秒
昨日は急いで記事を書いたので、読み返してみると、何だか意味不明です。
言いたかったのは、要するに「辛苦の末に蒐集した本たちを、ポンと手放すとは!氏の本に寄せる愛情とはいったい…?」という不審、ないし慨嘆です。でも、これは事情を知らない第3者の無責任な発言であり、荒俣氏に対しては失礼千万な話。しかし、そういう思いを抱いた人間がいることも事実なので、記事はそのままとします。いずれにしても、展覧会の内容とはあまり関係がない話でした。失礼しました。
★
失礼ついでに、今日も展覧会の内容そのものとはあまり関係ない内容です。
書籍のデジタルアーカイブ化をめぐる呟き。
そのメリットが非常に大きいことは、今さら言うまでもありません。
第1に保管の便。電子データは場所をとりませんし、紙の劣化など気にせず見放題です。第2に利用のしやすさ。あっという間に検索できるし、公開されればどこからでもアクセス可能。そして複製も簡単です。
逆にデメリットは、記録メディアの脆弱性で、百年、千年単位の保管を考えた場合、電磁的擾乱への弱さや、表面劣化によって情報が読み出せなくなるのは、とても困ります。それから情報を読み出す機器の操作性も、もっともっと向上してほしい。しかしこれらは技術の進歩によって、いずれは気にならなくなるでしょう。
さて、ここまでは理屈で考えた話。
私の素朴な受け止め方は、もっと電子データに辛くて、「そもそも機械がなければ読めないなんて、半人前もいいところだ。それにディスプレイ越しに眺めたって、味わいも、趣きもないじゃないか。」というものです。
まあ、これは新美南吉の『おじいさんのランプ』的な、情緒的反応に過ぎませんが、「おじいさん」が、新時代の電灯に反感をおぼえると同時に、その向こうに大きな時代の変化を感じ取ったように、デジタルアーカイブ化という行為も、記録メディアの変化にとどまらない、何かもっと大きな時代の変化―たぶん人類史的に見ても画期的な変化を予感させます。(年寄り=私は、大きな時代の変化に、えてして感情的反発を覚えるものです。)
★
古事記が編纂されたとき、稗田阿礼が口承の記憶を、紙と文字に譲り渡したこととは、情報の保持・伝達手段の歴史上、特筆すべき出来事だったと思いますが、デジタルアーカイブ化もそれに匹敵するもの、いやそれ以上かもしれません。たぶん、「紙の本の運命やいかに?」という問いは、事態全体からすれば瑣末な問題なのでしょう。
★
デジタルアーカイブ化が行き着く先は何か。私はこんなことを夢想します。
“情報のデジタル化と並行して、生体工学も進歩を続けることであろう。代替医療の分野における、視聴覚障害の補償技術を尖兵として、外部メディアと神経系とを直結する技術が誕生するのも、そう遠いことではあるまい。そしてヒトが対象を<認識>するというのも、結局は情報のデコーディングに他ならないのだから、いくぶん遠い将来においては、多くのSFが予言するように、ヒトが電脳空間を文字通り直接体験し、内と外、自己と他者の境界が意味を失うような事態が生じるのだろう。”
既存の情報のデジタル化は、そうした世界への布石であり、後になって振り返れば、「あれが大きな節目であった…」と、この21世紀初頭を回顧するのではありますまいか。(一種のサイバーパンク的未来観ですね。内と外の区別の喪失は、統合失調症の基本的病態といわれますが、未来では世界全体がそういう色彩になるのかもしれません。)
★
改めて現代に立ち返ると、もちろん紙の本が消えることは当分なく、むしろ積極的に独自の価値を見出され、さらにその蒐集行為が一定規模で存続するのは確かでしょう。
しかし、そうしたこととは別の次元で、人間存在のありようが、全情報のデジタル化とともに、ドラスティックに変化しつつあるのかもしれないなあ…と、展覧会の話からだいぶ飛躍しましたが、そんなことを思いました。
言いたかったのは、要するに「辛苦の末に蒐集した本たちを、ポンと手放すとは!氏の本に寄せる愛情とはいったい…?」という不審、ないし慨嘆です。でも、これは事情を知らない第3者の無責任な発言であり、荒俣氏に対しては失礼千万な話。しかし、そういう思いを抱いた人間がいることも事実なので、記事はそのままとします。いずれにしても、展覧会の内容とはあまり関係がない話でした。失礼しました。
★
失礼ついでに、今日も展覧会の内容そのものとはあまり関係ない内容です。
書籍のデジタルアーカイブ化をめぐる呟き。
そのメリットが非常に大きいことは、今さら言うまでもありません。
第1に保管の便。電子データは場所をとりませんし、紙の劣化など気にせず見放題です。第2に利用のしやすさ。あっという間に検索できるし、公開されればどこからでもアクセス可能。そして複製も簡単です。
逆にデメリットは、記録メディアの脆弱性で、百年、千年単位の保管を考えた場合、電磁的擾乱への弱さや、表面劣化によって情報が読み出せなくなるのは、とても困ります。それから情報を読み出す機器の操作性も、もっともっと向上してほしい。しかしこれらは技術の進歩によって、いずれは気にならなくなるでしょう。
さて、ここまでは理屈で考えた話。
私の素朴な受け止め方は、もっと電子データに辛くて、「そもそも機械がなければ読めないなんて、半人前もいいところだ。それにディスプレイ越しに眺めたって、味わいも、趣きもないじゃないか。」というものです。
まあ、これは新美南吉の『おじいさんのランプ』的な、情緒的反応に過ぎませんが、「おじいさん」が、新時代の電灯に反感をおぼえると同時に、その向こうに大きな時代の変化を感じ取ったように、デジタルアーカイブ化という行為も、記録メディアの変化にとどまらない、何かもっと大きな時代の変化―たぶん人類史的に見ても画期的な変化を予感させます。(年寄り=私は、大きな時代の変化に、えてして感情的反発を覚えるものです。)
★
古事記が編纂されたとき、稗田阿礼が口承の記憶を、紙と文字に譲り渡したこととは、情報の保持・伝達手段の歴史上、特筆すべき出来事だったと思いますが、デジタルアーカイブ化もそれに匹敵するもの、いやそれ以上かもしれません。たぶん、「紙の本の運命やいかに?」という問いは、事態全体からすれば瑣末な問題なのでしょう。
★
デジタルアーカイブ化が行き着く先は何か。私はこんなことを夢想します。
“情報のデジタル化と並行して、生体工学も進歩を続けることであろう。代替医療の分野における、視聴覚障害の補償技術を尖兵として、外部メディアと神経系とを直結する技術が誕生するのも、そう遠いことではあるまい。そしてヒトが対象を<認識>するというのも、結局は情報のデコーディングに他ならないのだから、いくぶん遠い将来においては、多くのSFが予言するように、ヒトが電脳空間を文字通り直接体験し、内と外、自己と他者の境界が意味を失うような事態が生じるのだろう。”
既存の情報のデジタル化は、そうした世界への布石であり、後になって振り返れば、「あれが大きな節目であった…」と、この21世紀初頭を回顧するのではありますまいか。(一種のサイバーパンク的未来観ですね。内と外の区別の喪失は、統合失調症の基本的病態といわれますが、未来では世界全体がそういう色彩になるのかもしれません。)
★
改めて現代に立ち返ると、もちろん紙の本が消えることは当分なく、むしろ積極的に独自の価値を見出され、さらにその蒐集行為が一定規模で存続するのは確かでしょう。
しかし、そうしたこととは別の次元で、人間存在のありようが、全情報のデジタル化とともに、ドラスティックに変化しつつあるのかもしれないなあ…と、展覧会の話からだいぶ飛躍しましたが、そんなことを思いました。
コメント
_ S.U ― 2010年06月03日 00時05分09秒
_ 玉青 ― 2010年06月03日 06時47分52秒
一括集中管理は確かに危ういですね。へそくりの隠し場所(笑)のようなもので、あちらに少し、こちらに少しの方が、たとえ不便でもリスクは小さいと。分散管理はインターネットの本来的あり方ですから、デジタルアーカイブはネットと相性が良さそうですね。しかし、そこに巨大企業が登場して、ネット界の寡占を目論んだりするので、話がややこしくなるのでしょう。いちばんいいのは、「多数の人が全ての情報を手元に持つ」ことかもしれませんが、これは無駄が多い。つまるところ、「利用しやすさ」、「保管の安全性」、「無駄のなさ」という3つの特性は、同時に2つまでは実現できるが、3つ同時に満足させることはできない、ということでしょうか。古文書の場合は、何よりも「保管」が優先するので、「不便」か「無駄」のどちらかを甘受しないといけないのかもしれませんね。
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
日本の古文書は日本中にあまねく散らばっています。相当の数ですが、一堂に集めてデジタル化してしまえば保管するにはたいした量ではないでしょう。でも、これが今日まで残り、なお研究されているのは全国に散らばっていて、多数の人の手に分散されて管理されているにほかならないと思います。デジタルアーカイブもそのような視点ではじめてほしいと思います。