魚の口から泡ひとつ…フィッシュマウスネビュラの話 ― 2010年06月06日 17時09分51秒
現在、「ジョバンニが見た世界」の再開準備中ですが、その関係で調べ物をしていて、今日気付いた事実があるので、ちょっと寄り道します。
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草下英明氏に「賢治の読んだ天文書」という論考があります(『宮澤賢治と星』、学芸書林、1975所収)。その冒頭に次の一節があります。
「昭和26年5月、花巻を訪れて〔実弟の〕清六氏にお会い
した折、話のついでに「賢治さんが読まれた天文の本は
どんなものだったんでしょうか。貴方に何かお心当りはあり
ませんか」とお尋ねしてみたが「サア、どうも覚えがあり
ませんですね。多分貧弱なものだったと思いますが」という
ご返事で…」
した折、話のついでに「賢治さんが読まれた天文の本は
どんなものだったんでしょうか。貴方に何かお心当りはあり
ませんか」とお尋ねしてみたが「サア、どうも覚えがあり
ませんですね。多分貧弱なものだったと思いますが」という
ご返事で…」
草下氏の一連の論考は、「星の詩人」宮澤賢治の天文知識が、意外に脆弱であったことを明らかにしています。たとえば「銀河鉄道の夜」に出てくる「プレシオス」という謎の天体名。これは草下氏以降、プレアデスの勘違いだったことが定説となっています。こんな風に、賢治作品で考証が難航した天体名は、大体において彼の誤解・誤記によるものらしい。
もちろん、それによって彼の文学的価値が減ずるわけではありませんが、後世の読者として気にはなります。
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さて、「魚口星雲(フィッシュマウスネビュラ)」というのも、読者を悩ませる存在の1つ。
草下氏は、「賢治の読んだ天文書」の末尾で、これを以下のように解説しています。
「吉田〔源治郎〕氏の著書には現われない言葉で、しかも
賢治の造語とは到底考えられない用語も発見される。
その一例として、『シグナルとシグナレス』や『土神と狐』の
中で環状星雲のことを魚口星雲(フィッシュマウスネビュラ)
と呼んでいることである。別に『星めぐりの歌』では「アンド
ロメダの雲は魚の口のかたち」とも詩っている。環状星雲
というのは指環のようなリング状のガス星雲で、これを魚
の口を真正面から見た形として魚口星雲と呼んだのは、
なかなか穿っていて面白いが、寡聞にして私は環状星雲
やアンドロメダ星雲のそういう別名を未だ書物で読んだこと
はない。もちろん吉田氏の本にも書かれていないのである
が、ただ環状星雲の写真は載っているから、それを見た直観
からの賢治の造語と解釈しても差支えはないが、どうも私は
別の書物から得た知識と考える方が妥当だと思っている。」
(↑吉田源治郎、『肉眼に見える星の研究』、警世社、1922より)
そして、『宮澤賢治と星』の巻末(166-67頁)では、「野尻〔抱影〕先生に依ると、古い天文書でオリオンの星雲を魚の形に見立てて書いてあるものがあるそうだ。賢治には何か拠り所はあるのであろうが、ちょっと疑問である」とも付記されています。
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で、今回気付いたのは、野尻氏の解釈どおり魚口星雲とはオリオン星雲(の一部)を指す言葉に他ならず、賢治はその名称を、意識してかどうかは分かりませんが、環状星雲やアンドロメダ星雲に「応用」したのだということです。
明治時代の後半、天文学の啓蒙書として非常に愛読されたものに、以下の本があります。
■須藤傳次郎(著)『星学』(帝国百科全書第60編)
明治33年(1900)、博分館
(私が直接参照したのは、1910年の第9版)
ここには、以下の記述があります。
「ヲライオン」星宿の大火星雲〔この本ではnebulaを‘火星雲’
と訳しています。惑星の火星とは無関係〕は、多重星「テータ」
の近傍に在りて青白色を帯ふ 而して其形状及び光輝部の
常に変動することは毫も疑を容るべからず 強度の望遠鏡を
以て之を観測するときは其形状恰も魚口に類するを以て魚口
火星雲の称あり
(↑須藤傳治郎、『星学』より)
本書序文で著者は、執筆にあたって「ロッキャー氏及びニューカム氏の星学初歩等」を参考にしたと書いています。そこで更に、J. Norman Lockyer の「Elements of Astronomy」(Appleton版、1878)を見ると、不規則星雲の項に、果たしてこう書かれています(p.50)。
「One part of it 〔=オリオン星雲〕 appears, in a powerful
telescope, startlingly like the head of a fish. On this account
it has been termed the Fish-mouth Nebula.」
賢治が須藤氏のこの本を読んだ確証はありませんが、かなり売れた本らしいので、読んだ可能性は大いにあると思います。
賢治の母校・盛岡高等農林の図書館蔵書目録によれば(こちらを参照)、同館には須藤氏の『星学』こそないものの、ロッキャーの上掲書を訳した『洛氏天文学』(明治12年刊)は所蔵されていました。
私は同書を見たことがありませんが、賢治には同図書館の本をすべて読んだという「伝説」があって、後者によってロッキャーの記述に直接触れた可能性も少なからずあります。(興味深いことに、ロッキャーの原著では、フィッシュマウスネビュラのすぐ下に環状星雲、そして隣にアンドロメダ星雲の挿絵が来ています。賢治がこの本を読んだとしたら、その絵柄と魚の口の形とが自ずと結びついても不思議ではありません。アンドロメダも、ちょうど口の形に見えますね。)
(↑Lockyer 上掲書より。左・こと座の環状星雲、右上・アンドロメダ星雲)
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以上、大雑把ですが、「フィッシュマウスネビュラ」という語が直接指すのはオリオン星雲のことであり、賢治はこれをロッキャー由来の天文書で読んで脳裏に刻んだものの、いつの間にか環状星雲やアンドロメダ星雲と脳内でまじり合ってしまい、その誤解が解けぬまま文章を綴った…というのが、私の現時点での推測です。(このことは、もうどなたか書かれているかもしれませんが、私にとっては新知見なので書いておきます。)
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