沙漠の黄道光2010年07月24日 10時44分05秒

最近の買い物から。


1922年に出たチョコカード。
トブラー・チョコレート(スイス)のおまけに入っていた品です。
切手のようなミシン目が、心憎いアクセント。
少年の収集欲は、得てしてこういう小ワザで容易に煽られるものです。

この天文シリーズは12枚コンプリートで、上はその全カード。
その中から1枚を拡大します。


ナツメヤシが繁る沙漠のオアシス。
黄道光をバックに浮かびあがるモスクのシルエット。
さらに地平線上には新月、その上には双子座とオリオン座が浮かんでいます。
天体の位置関係でいうと、8月の夜明け前でしょうか。
異国ムード満点の絵柄ですね。そして束の間の涼を感じさせます。

  ★

ところでカードの説明文。
  “Sudala steloza cielo kun zodiakala lumo, deskreskanta luno
    e stelaro Oriono, Jemeli, edc.”
何だか分かるような、分からないような不思議な言語ですが、これはイド語だそうです。(→イド語:ウィキペディア

1907年に、エスペラント語をさらに改造して作られた人工言語。
でも、エスペラントほどには普及しなかったみたいですね。「エスペラントのように一年に一回大会を開くが、エスペラントの世界大会が2000人程度であるのに対し、イド語大会の参加者は2001年以後、毎年20人未満の参加である」というウィキペディアの記述が泣かせます。

それにしても、なんでトブラー社は、こんなマイナー言語でカードを作ったのでしょう?
多言語国家・スイスというのが、何かカギを握っているんでしょうか。
それとも単なる時代のムード?
少なくとも、当時これを読める少年がいたということですよね。
何だか不思議な気がします。

コメント

_ S.U ― 2010年07月25日 12時33分00秒

小学校の国語の教科書にザメンホフ伝が載っていて、それでエスペラントを知って感激しました。将来は勉強しないといけないのだろうな、と思いました。玉青さんの時はどうでしたか。イド語については今まで知りませんでした。

 このカードには、何か世界を一つにしたい、という時代の希望のようなものを感じます。その通り、今やマッターホルンのマークのトブラローネは、「世界中どこでもお土産」というか、どこへ行っても「もうええわ」と思うほど見られます。
 いっぽうの人工国際語の普及のほうはなかなかのようで、門外漢の私の推測では、エスペラント語が、ラテン語やスラブ系言語のような難物っぽい見た目しているのがよくなかったのではないかと思います。ハワイ語みたいな見た目だったら違っていたかもしれません。

_ 玉青 ― 2010年07月25日 20時48分18秒

>ザメンホフ伝

うーん、どうも記憶にありません。私が忘れてしまったか、あるいは教科書会社が違ったんでしょうか。

今ふと思ったのですが、現代の標準日本語も、考えてみれば明治政府が作った一種の人工言語でしょうか。誰もが何となく理解できるけれど、その通りに話している人は当時どこにもいなかった…という意味では、エスペラントみたいなものかも。まあ、日本の場合、書き言葉はそれ以前から標準化されていたのが幸いしたのでしょうが、もしヨーロッパ諸言語のように、書き言葉まで各藩ごとに違う形で確立していたら、標準語の普及はずっと遅れたかもしれませんね。

>トブラローネ

ああ、なるほど。トブラー社とトブラローネがぜんぜん頭の中で結びついていませんでしたが、そういうことでしたか。普遍化に有利なのは、言葉よりも断然甘味ですね(笑)。

_ S.U ― 2010年07月26日 20時31分09秒

>教科書会社
 小学国語教科書の内容の検索システムによると
http://kjd.edu-ctr.pref.kanagawa.jp/daizai/default.aspx
「ザメンホフ伝」があったのは日本書籍でした。このシステムはユーザーが懐かしがるためにあるのでしょうか。

>書き言葉はそれ以前から標準化
 日本の書き言葉に中世から明治まで大きな違いはないのはとても不思議です。これは朝廷の威光によるのでしょうか。

_ 玉青 ― 2010年07月27日 21時19分33秒

>このシステムはユーザーが懐かしがるためにあるのでしょうか

あははは。本当ですねえ。
いったい何のために?と考えると、不思議なシステムですが、こういう正体の知れないものが存在するのは、世の中の余裕という点では良いことかと。ところで私の使っていたのは、光村図書のものと判明したので、ザメンホフとはやっぱり接点がなかったようです。

  +

文語の連続性は、言語を統べる権力の所在と表裏する問題でしょうから、朝廷の威光というのは、まさに一番本質的な点だと思われます。朝幕の二重構造や、群雄割拠の時代が長く続いたにせよ、結局日本に真の地方独立はなかったということなのでしょう。(だからこそ、別の王権が存在しえた琉球には、別の文語が成立したのでしょう。)

_ S.U ― 2010年07月28日 19時46分02秒

この国語教科書システムの検索で遊んでいて思ったのですが、戦後の小学校教育はいろいろと言われながらも、国語教材については、豊かな視点を与えるというか、寛容さを養うというか、うまく言えないのですが、ひとことで言うと「まあうまく教育をやって来たなあ」という感想を持ちました。現在、盛んに言われている「知識vsゆとり」とは別の次元の軸も重要なのではないか、ということを気づかせてくれたように思います。

_ 玉青 ― 2010年07月28日 19時58分35秒

国語の教科書というと、無味乾燥な記憶を呼び覚ます人もいるようですが、それは「主人公の気持ちを50字程度で…」式のテストがいけなかったのであって、教材自体はなかなか興味深いものが多かったと、個人的には感じています。

そういえば、私は宮澤賢治の「やまなし」という短編に鮮烈な印象を受けて、今でもその影響が残っているような気がします。(件のシステムによれば、光村の6年生の教科書に載っていたそうです。)

_ S.U ― 2010年07月29日 18時41分25秒

>「やまなし」
 賢治のことばの妙技が凝縮された作品は感覚の鋭敏な少年少女には刺激が強すぎるのかも。教科書といえども侮るべからず、ですね。

_ 玉青 ― 2010年07月29日 19時08分19秒

御意。
それにしても、小中高とだんだん教科書が印象に残らなくなるのはなぜでしょう?(私だけでしょうか?)
中学や高校になると、作品よりも、それを教えてくれた先生の方が印象に残っています。

_ S.U ― 2010年07月30日 20時22分10秒

>小中高とだんだん教科書が印象に残らなく
 はて、自分はどうだったろう、と思い出そうとしますが答えが出ません。どうやら小中高を通してあまり印象に残っていないらしいことがわかりました。教科書の内容にあまり集中していなかったのでしょうか、面目ありません... 先生はいろいろとお世話をかけたこともあり断然強く印象に残っています。
 
 それでも、国語の教科書に限って言えば、日本文学に興味など無かったのに、芥川、太宰、漱石、鴎外、新見南吉、下村湖人、志賀直哉、 といった「常連」の作品が不思議に次々と思い出されます。 さすがは大文豪、宣伝しなくても文庫本が売れるだけのことはありますね。

_ 玉青 ― 2010年07月31日 08時20分38秒

>不思議に次々と思い出されます

いやいや、それならば十分印象に残ってらっしゃるのでは。
私もそんなに口で言うほど覚えているわけではないので、S.Uさんに「あまり印象に残ってない」とおっしゃられると、立つ瀬がありませんです;;

_ S.U ― 2010年07月31日 08時34分56秒

ははは、そうですか。でも残っているのは特に好きでもなかった国語だけですよ。
南吉は新美でしたね。字が間違っていました。地元、尾張の方々にはお詫びします。載っていたのは「牛をつないだ椿の木」でした。

_ 玉青 ― 2010年08月01日 17時01分41秒

俗に「北の賢治、南の南吉」といいますが、この2人はかなり違いますね。
たぶん、教訓臭のついて回る南吉よりも、賢治の方が文学としては優秀だ…というのが、大方の評価でしょうし、私もそう思うんですが、ただ南吉に同情的に2人の違いを指摘するならば、「賢治はボンボンだが、南吉は苦労人だ」と言えるんじゃないでしょうか。

ですから、同じ苦労人のジョバンニなんかは、ひょっとしたら、賢治よりも南吉の童話を好むかもしれません。

_ S.U ― 2010年08月01日 19時52分46秒

>「北の賢治、南の南吉」
 これは、「『陰』の賢治、『陽』の南吉」ということなのかもしれません。「ボンボン」が「陰」で「苦労人」が「陽」というのがいかにもいいです。

 ジョバンニも、井戸を寄付した「牛をつないだ椿の木」の海蔵さんの心意気に感じいることでしょう。

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