精神の物理学の果てに2010年08月14日 20時35分37秒

心が落ち着くまで、記事の方は場つなぎ的な内容で…云々と書いたので、ちょっと毛色の変わったことを書こうと思います。
それはおそらく人類が挑戦する、最後の秘境となるであろう場所、すなわち人の心についてです。

最初に言い訳をしておきますが、これはあくまでも場つなぎなので、精密な議論ではありません。お盆休みの最中に、ぼんやりと思い浮かべたことです。

   ★

昔、心理学は科学でした。
いや、今でも科学なのですが、昔はさらにカギカッコ付きの「科学」でした。
分かりやすいエピソードを上げると、昔の心理学専攻の学生は、文学部の中で唯一白衣を着る存在だった…と言えば、何となくイメージしていただけるでしょうか。つまり自ら「自然科学」の一分科たらんと志していたわけです。

現代の心理学は、19世紀に「精神物理学」として始まり、その<開祖>がグスタフ・フェヒナー(1801-1887)です。くだんの白衣の学徒たちは、フェヒナー博士から100年ちょっと下った後裔であり、厳密な実験によって人間精神のふるまいを解明しようと奮闘していたのです。

ただ、形だけ自然科学的手法を取り入れても、人間精神が容易に陥落しないのは当然の話で、<開祖>フェヒナー博士自身が、晩年はオカルトに接近していったというのは、心理学の教科書があまり深入りしない点ですけれども、しかし、これは心理学という学問の性格を考える上で、むしろ積極的に載せるべきエピソードだと思います。

敢えて言えば、フェヒナー博士は「途中で道を誤った」わけではなく、心にアプローチする以上、どの道をたどったにしても、そのまま進み続ければ必然的に「そっちの世界」に行ってしまうのだと思います。

たとえば物理学なんかでも、結局最後に認識論の問題が出てきて、それ以上先に進めなくなる局面があるような気がします。ましてや、認識そのものを対象にする心理学においては、あっという間に壁にぶつかるのは理の当然で、頭のいい人たちは、なるべくその壁を見ないように、壁に沿って歩き続けることで、自分たちがずいぶんと進歩を遂げたような気分を味わおうとしましたが、そういう無理は長続きしないものです。

(心理学の対象は「心」ではない、心理学は行動の科学であって、その扱う対象は外部から観察できる行動だけだ…と、学生の頃に聞かされましたが、素直に考えれば無理な話で、「心」に対して無力な心理学なんて最初から要らないよと、そのとき思った記憶があります。)

   ◆

…うーん、ちょっとお酒が入ったので、うまく文章がまとまりません。お盆なので、「そっち系」の話を書こうと思ったのですが、手に余りました。

事前構想では、ここで明治時代の珍奇な知能測定法の本を紹介しつつ、当時の超心理学ブームのことを書き、さらにフェヒナー博士の怪説(= 唯物論的思考法である「闇夜見」を超えた、スピリチュアルな思考法「白昼見」の称揚 )にいたく感心し、自ら「白昼見」という作品を書いた稲垣足穂のことを取り上げようと思ったのですが、どうもあんまり面白く書けそうにないので、この話はここまでです。