涼は南にあり2010年09月01日 19時02分37秒

今日も画像なしです。

9月になっても暑いですね。
今年は、いろいろな暑さ記録を更新した、規格外れの夏だったようです。
私は夏は好きですが、暑さはそれほど好きでもないので、なんとかならんものかと思うのですが、なんともなりません。

では、なんともならない私は、9月を迎えていったいどうしたか?

 (答) 南極の地図を買いました。

買ったのは、南極点がまだ未征服だった頃の、古い南極大陸の絵図。
それが届くころには、日本もちょっとは涼しくなっていることを期待します。

南半球は、これから春。
昭和基地は現在マイナス20度ぐらいだそうです。

空の青、本の青(2)2010年09月03日 20時33分09秒

この前載せた、青い表紙のしゃれた本、『大空と宇宙で半時を』。

この本は「The Half-Hour Library(半時シリーズ)」の1冊で、他にも『極東で半時を』、『北の果てで半時を』、『野生の森で半時を』、『地面の下で半時を』 etc., いろいろなタイトルが出ています。 副題に “for young readers”  とある通り、主に学校の生徒向けに、世界の地理や自然、科学の知識を平易に語った叢書です。

この『大空と宇宙で半時を』は、気象と天文の知識を説いた巻。ボリューム的には天文の方が手厚く、気象2に対して天文3ぐらいの割合でページを割いています。

↑口絵より。「ELECTRICAL STORMS」

章立てを列挙すると、「風と嵐」、「雲の間で」、「雨」、「霜と雪」、「電気」、「宇宙の旅」、「太陽」、「月」、「惑星と彗星」、「光」、「流星雨ほか」という内容。

この本は、以前も書いたように、著者不明です。
タイトルページに名前がないのはもちろん、序文も後書きもない本なので、著者については全く手がかりがありません。

そんな正体不明の著者ですが、文中ではやけに饒舌で、「私が昨年西インド諸島にいたとき…」とか、「少なくとも私が気球から観察した限りでは…」とか、いきなり一人称で語りかけてきます。そして読者にむかって、「さあ、以上の説明で、君たちにも十分わかってもらえただろう」と親しげに(時に押しつけがましく)説いてくるのです。

「私」が語っているのは、「私」の存在同様、あるいはすべて架空の体験なのかもしれません。何となく「講釈師 見て来たような嘘を言い」という感じもしますが、でも、その「見て来たような」描写が、当時の年若い読者にはアピールしたのでしょう。


上は表紙のデザインにもなった挿絵、 「ABOVE THE CLOUDS, NIGHT」。
層雲の上に浮かび出た気球からの眺め。これは名画ですね。
この絵も、著者である「私」が乗った気球として描かれています。

(この項つづく)

空の青、本の青(3)…19世紀のたそがれ、20世紀のあけぼの2010年09月04日 19時36分58秒

【9月5日付記 画像が暗いので貼り替えました。】

↓奇妙な太陽断面図(左)と、皆既日食の図。

太陽の黒点は、光り輝く大気に開いた「穴」であり、そこから暗黒の核(太陽本体)が見えている…という、19世紀のいわば「標準理論」を説いたものです。

さらに、本体と輝層の間には、少なくとも2層、おそらくはそれ以上の層状構造(殻)があり、それによって黒点の半影(半暗部)の存在は説明できるとされていました。しかも、それらの中間層が上層の熱と光をさえぎることで、太陽本体は、生物が住むのに適した環境になっている…とも考えられたのです。

これと同じ図は以前も出てきました。19世紀前半の天文教科書、『スミスの図解天文学』に載っていたものです。

■スミスの図解天文学(3)
  http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/02/07/243817

この説は、ウィリアム・ハーシェルが1795年(※)に唱えたもので、天文学が急激な進歩を遂げた19世紀にあっても、ずいぶんと長いこと信じられていました。(彼は自説に絶対の自信があり、黒点(spots)という、比喩的で誤解を招きやすい古い言い方をやめて、自分は開口部(openings)という語を断固使うぞ!と、1801年の論文中で力説しました。)

(※)【9月5日付記】 1801年と書きましたが、上記の通り修正します。

しかし、本書『大空と宇宙で半時を』が出たのは1881年。さすがにこの奇説も再考が必要ではないか…ということが、子ども向きの本でも示唆されており、この辺に時代を感じるというか、歴史的興味を覚えるところです。

「しかし、太陽の内部で何が生じているかに関する我々の知識は、近年大きな進歩を遂げた。それは、最も遠くまで見通せるはずの天文学者でさえ、以前には想像すらできなかったようなやり方で成し遂げられたものだ。」

著者が言う大きな進歩とは、もちろん写真術と分光学のこと。
この2つの技術によってプロミネンスの正体が判明し、太陽が高温のガス球であること、そしてその表面では日々劇烈な現象が生じていることが、近年になって分かってきた…と著者は述べています。本書の中で、ハーシェル説はまだ辛うじて余命を保っていますが、「太陽人」は明らかに過去のものとなりつつありました。

   ★

「宇宙の旅」という章にも、20世紀の息吹が感じられます。
この章は太陽系を遊覧しながら、各惑星の様子を物語るという趣向で、そういうアイデアは昔からありそうですが、ここではその方法を真面目に考えているところが驚きです。

「しかし、いったいどんな乗り物が、我々の役に立つのだろう?我々は想像の妖精の翼に頼らねばならないのだろうか?あるいは、もっと現実味のあるものの力を借りることができるのか?〔…〕大気の力を借りないものとして、我々が唯一思い描ける機械は、ロケットの原理を応用したものだ。」

著者は、反作用の力で飛ぶロケットを使えば、大気のない宇宙でも進めることを正しく指摘し、将来の宇宙飛行に望みを託しています。これも20世紀との連続性を強く感じる部分です。(「ロケット工学の父」ツィオルコフスキーは、1881年にはまだ24歳。「近代ロケットの父」ゴダードに至ってはまだ誕生前ですから、この著者の先進性が分かります。)

ただし、さすがにロケットの具体像を描くことは手に余ったのか、ロケット装置を考案するために、我々の想像力を拷問にかけるような真似はやめて、いっそ空想飛行の助けになってくれる、天然ロケットに乗りこもうじゃないか」と、読者を誘います。

著者がいう「天然ロケット」とは彗星のことです。彗星に乗って、太陽系を巡回しようというのです。(このアイデアは、1877年にジュール・ヴェルヌが発表した、『彗星飛行』(原題:Hector Servadac)に由来するのかもしれません。)


(この項つづく)

空の青、本の青(4)2010年09月05日 20時12分19秒

(昨日のつづき)

「では、太陽系の果てを超えた場所から、彗星号に乗りこむことにしよう。」

この彗星の旅は完璧な空想旅行なので、著者はいきなりいちばん遠い場所からスタートします(そこまで自由に行けるなら、そもそも彗星に乗る必要はないような気もしますが、著者はあまり気にせず旅の案内を続けます)。

まず訪れるのは海王星です。当時はここが太陽系の果てでした。
著者は、海王星の物理的性質を説明した後で、適当な大気と惑星自身の熱のおかげで、この酷寒の地でも海王星人は生きのびることができるし、彼らは暗闇の中でも活動できるよう、おそらく大きな瞳を持ち、網膜も鋭敏なのだろうと推測します。


彗星号は、次いで天王星、土星、木星、小惑星帯へと順番に進みます。
天王星の衛星の話、大きな図体のくせにコルクのように軽い土星の話…旅の話題は尽きません。

小惑星が密集する危険なエリアを抜け、太陽が近づくにつれ、彗星はジェットの尾を伸ばし、その壮麗な姿を天空に現します。

「我々の乗り物は、今や非常に速力を増し、停車駅の間隔もごく狭いので、各惑星にほんの一瞥を投げかけただけで次に向わねばならない。」

火星や地球の脇を過ぎ、さらに我々は金星、水星、そしてバルカンへと、次から次へと通過していく。ただしバルカンは、水星と太陽の間の小惑星帯を構成する、無数の小惑星の1つに過ぎないことが分かるだろう。」

バルカンの名が、郷愁を誘います。
バルカンは、海王星の軌道予測者、ユルバン・ルヴェリエ(1811‐1877)が1859年に提案した幻の惑星。1881年には、すでに存在が疑問視されていましたが、この記述こそ、まぎれもない時代の刻印でしょう。

そして彗星号は最終目的地の太陽に到達します。
視界いっぱいに広がる光。ダイヤモンドでさえも一瞬で燃え、どんなに硬い金属でもとろけてしまう熱。目の前に、あまたの観測者を悩ませた、あのバラ色のプロミネンスが燃えています…。

   ★

こんな風に書いていると、話が終りそうにないので、あとは挿絵を適当に貼って、本の紹介に代えることにします。(版画ばかりで写真がないのは、さすがに19世紀。)

              立派な館の庭から眺める真夜中の空。

                            海上に浮かぶ蜃気楼

 むつまじく虹を眺める親子

              「霜と雪」の章題ページ

  雪の結晶と美しい雪化粧

   ★

今日も全国で猛暑日。一体いつになったら、現実世界に涼が訪れるのでしょうか。
いささかバテてきました。。。

秋は天から下りてくる2010年09月06日 20時58分29秒

(はくちょう座。プロイセンゴールドのシガレットカードより。)


暑いですね。口を開けば、暑さを嘆く言葉しか出てきません。
まるで日本が常夏の国になってしまったかのようです。

しかし、否でも応でも、もうじき<夏>は終ります。
仮にこの<夏>が永遠に続くことを願ったところで、その願いが叶うことはありません。

今日の仕事帰り、高くなった空を眺めながら、そんな当り前のことをしきりに反芻していました。

「夏も終る。人も終る。それがどうした。」
…という強気な自分も一方にはいます。
でも、今はそんな虚勢を張るより、静かに夏の終りを見つめることの方が大事な気がします。

   ★

夏の星座といわれる白鳥座が、いちばん空高く飛ぶのは、むしろ今の季節ですね。
午後9時ともなれば、壮麗な銀河が真一文字に空を貫き、巨大な白鳥が天頂部をゆうゆうと飛ぶのが見えます。(少なくとも心の眼にはそれが見えます。)

宇宙卵2010年09月07日 20時22分07秒

ちょうどニワトリの卵ほどの大きさの、不思議なものを買いました。

            たくさんの卵が宿した、それぞれの宇宙。


はげしい渦動からの分離。
世界の創世。または異世界への入口。


                       宇宙全体を反照する微小な気泡世界。


            透明な媒質中の脈理。不均一さが生む空間の歪み。

   ★

この美しい、そして不思議なガラス卵は、FUSION FACTORY の製品で、タイトルを『時空のトンネル』といいます(私が買ったのは「小」サイズ)。

宇宙の秘密を封じ込めたような濃密なオブジェ。
じっと見ていると、いろいろな思いがあふれてきます。

抜き書き・火星論争 in 英国2010年09月09日 19時44分16秒

(ジョヴァンニ・スキアパレッリ、伊、1835-1910 ; Wikimedia Commons)

先日記事で取り上げた『大空と宇宙で半時を』。
これは1881年にイギリスで刊行された本ですが、9月5日の記事およびコメント欄で話題にしたように、火星の扱いが非常に簡単というか、ほぼ完全にスルーされているのはなぜか?ということが一寸気になりました。

<神秘の星・火星>にとって、この1881年というタイミング、そしてイギリスという場所は、どんな意味があったのか?そういう非常に瑣末な(瑣末過ぎる!)興味を持って、マイケル・J・クロウ博士の『地球外生命論争 1750‐1900』(工作舎、2001)を読んでみました。

以下は同書第3巻からの抜き書きです。
固有名詞が多くて、一般にはあまり面白くない内容だと思うんですが、自分のためにメモ書きしておきます。

   ★

1877年以前、火星に関する千以上の図が(ほとんど出版されることなく)作成されたが、天文学者たちは未だにこの惑星の表面の形態に関して意見の一致に達してはいなかった。(p.806)

1877年の〔引用者註:火星の2個の衛星発見につづく〕第二の驚くべき報告は、ミラノのブレラ天文台からやってきた。ジョヴァンニ・スキアパレッリ(1835-1910)が、8インチ口径の屈折望遠鏡しか利用できなかったにもかかわらず、火星における広範囲の「運河」組織の発見を発表したのである。(p.807)

スキアパレッリの運河観測は、イギリスの天文学者たちの間でさまざまな反応を受け取ったが、1877年の衝の折、ナサニエル・E・グリーンがライバルとなる地図を描いたことの影響は大きかった。(p.816)

1878年4月12日の王立天文学協会の会合においてグリーンは、「スキアパレッリ教授の火星に関する書簡を読みあげ、…幾つかの興味ある図を示した」と『ネイチャー』が報告した時、英語圏の人々は初めてスキアパレッリの火星研究について知ったであろう。グリーンは、自分の火星が徹底的にスキアパレッリの火星とは違っていることを認め、その会合でこれらの相違に関する三通りの説明を提案した。〔引用者註:グリーンは、描画技術の問題・大気振動の影響・錯視効果など、「運河」は主に観測者の側の要因によるものとした。〕(同上)

1879年から1880年の衝の頃、スキアパレッリはイギリスで支持され始めた。グリーンは、スキアパレッリが運河について「ライン川の存在と同様、それらの存在は疑い得ない」と書いてきたと報告したある注の中で、アイルランドの天文学者チャールズ・E・バートン(1846-82)も運河の痕跡を観測したと述べている。〔…〕グリーンはバートンの報告に対して丁寧に応えている。「これらの形態に関するバートン氏の正確な描写によれば、…それらの存在を疑うことは不可能であろう」。(p.817)

スキアパレッリは、1879年から1880年の衝の間に火星を注意ぶかく観測し、長文の報告書を作成するとともに、たとえ個々の図の輪郭に関しては実質的に明確さは減少したにしても、運河を明示する地図をも作成した。この衝の時、彼はまた、「二重化」と呼ぶ新しい現象を目撃する。〔引用者註:二重化とは、以前は1本の線として観測された「運河」の隣に、平行してもう1本の線が生じる現象〕(p.818)

スキアパレッリの新しい発見は、瞬く間に広がった。T・W・ウェッブは、1882年4月10日ロンドンの『タイムズ』にそれを発表し、さらに『ネイチャー』の5月4日付けの記事の中でそれについて詳しく論じた。数日後『サイエンティフィック・アメリカン』がそれに言及し、その情報源として『ロンドン・テレグラフ』を引用した。プロクターはウェブの『タイムズ』への書簡に刺激を受け、その新聞に投稿する。(p.818)

プロクターの書簡は、1882年4月14日の王立天文学協会の会合において始まった運河論争で話題にされた。その会合でグリーンは、個々の運河が時々各観測者によって異なって観測される〔…〕という理由から、運河を承認する前に「大きな注意」が必要であると主張した。グリニッジ天文台のE・W・モーンダーはその時、幾つかの運河を観測したが、その位置は日々移動していたと述べた。(pp.818-19)

このイタリアの天文学者〔引用者註:スキアパレッリ〕の卓越した名声こそ、アグネス・クラークが1885年に出版した『19世紀における天文学の歴史』の初版において、スキアパレッリの運河は「十分に確証された…。火星の<運河>は現実に存在し、不動の現象である」と述べた最大の理由であった。しかし、イギリスではグリーンを中心にかなりの反論が展開された。中でも、間もなく運河説の最も活動的な敵手になったのがE・W・モーンダーであった。(p.819)

運河論争は、1890年に専門家でも素人でも、女性も含め、ともに所属できる組織として設立された英国天文学協会において特に活発になった。その後の数十年にわたって、『会報』、『紀要』、そして会議が、しばしば火星論争の公開討論の場となった。(p.828)

  ★

1881年のイギリスは、火星論争が幕を開ける直前のきわどい時期にあたり、子供向けの本で火星の話題がスルーされたのは、上のことから納得がいきます。

  ★

ところで、この勝負。この先も天文界の大立者を交えて、揉めに揉めます。
火星の運河論争は、否定論が徐々に肯定論にとって替わった…というような単純な経過をたどったのではなく、最初から肯定論と否定論ががっぷり四つに組み、双方得失点を重ねながら拮抗する状態が長く続きました。

しかし、1907年ごろから「運河は錯視に過ぎない」という説が、それまで以上に精緻に展開され(アメリカのサイモン・ニューカムが急先鋒)、また各地に新造された巨大望遠鏡が強力な裁定者となり、1910年を過ぎた頃(日本でいえば明治の末年)、「運河」論者は力尽きたのでした。

  ★

『地球外生命論争』には、火星論争の余波が、今も天文学の世界に大きく影響している…という、カール・セーガンの文章が引用されています。興味深い内容なので、最後にそれを孫引きしておきます。

「多くの科学者たちにとって、それはあまりにも苦く、益のないもののように思われた。したがって、恒星物理学の進展とともに、惑星天文学から恒星天文学への大脱出が起こったのである。現在惑星天文学者たちが不足している理由は、大半これら二つの要因のせいである。」(p.901)

二度あることは…ウィーン大学天文台2010年09月11日 11時11分09秒

ちょっと前、ウィーンのウラニア天文台や自然史博物館のことを書いていたとき、ウィーンつながりから、ウィーン大学天文台のことを連想しました。

もっとも、同天文台のことは、これまで2度記事に書いています。

■ウィーン大学天文台
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/10/07/551185
■星の寺院…ウィーン大学天文台の場合
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2009/02/04/4099060

その後、特に目新しい話題もないんですが、たまたま別の絵葉書があったので、この機会に貼っておきます(裏面区画のない、1900年前後のもの)。

以前は、この天文台を教会にたとえましたが、こうして見ると華麗なパレスのように見えます。国家の力の入れようが一目瞭然。この建物は1874年の竣工で、これまたフランツ・ヨーゼフ1世の息がかかった施設です。

ウラニア天文台も、ウィーン自然史博物館もそうでしたが、オーストリア=ハンガリー二重帝国におけるフランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916;在位1846-1916)というのは、非常に大きな存在であったことを、あらためて感じます。

連想するのは、大英帝国におけるヴィクトリア女王(1819-1901;在位1837-1901)で、一人の君主と、一つの時代や文化が分ちがたく結びついていたという意味で、両者はパラレルな存在のように感じられます。(もちろん、両国の社会のありようは、かなり違ったでしょうけれど。)

理科趣味絵葉書の世界2010年09月12日 20時59分31秒

最近、また絵葉書をよく買うようになりました。
天文台、理科室、プラネタリウム、博物館、あるいは必ずしも天文学とは結びつかない雑多な天文モチーフの絵葉書…などなど。

「たかが絵葉書」とは言え、彼らは時代の証人として、なかなか侮り難いです。
たとえば昔の理科室風景などは、多くの場合、写真資料としては、絵葉書という形でしか残り得なかったと思います。
あるいは、今も当時の被写体が残っているものについても、その撮り方には自ずと時代色が出て、当時の人の対象に向ける「まなざし」を感じたりします。
それに何よりも、セピア色の画面、古い消印、古い筆跡が、失われた遠い世界への憧れを、はげしく掻き立ててくれます。

   ★

…という前振りの後で、博物館の絵葉書を少し載せようと思います。
古い博物館の夢がただよう画面には、ひょっとしたら秋の訪れがほのかに感じられるかもしれません。

(項を改め次回に続く)

過去にまどろむ博物館2010年09月13日 23時20分44秒

多くの場合、博物館は古い物を展示する施設ですが、その博物館自体が歴史的建造物だと、古さの2乗でいっそう味わいが深いです。空間全体が存分にかもされている感じです。

  ★

さて、今日の絵葉書は、パリの自然史博物館。
ウィキペディアによれば、起源は1635年に創設された王立薬草園で、1793年に正式に博物館として発足したそうですから、ロンドンの自然史博物館(1753年設立)と並ぶ、ヨーロッパでも老舗中の老舗です。

同博物館は、いろいろな組織の変遷を経て、現在は複数の展示施設から成りますが、写真に写っているのは、1898年にできた<古生物館>。絵葉書自体は、1910年代のものでしょう。それから100年経った、現在の様子は以下。

■骨づくし!パリの自然史博物館
http://woman.excite.co.jp/odekake/sanpo/sid_561896/

昔も今も、部屋の主役は巨大なディプロドクスで、これだけでもう博物館濃度は最高値に達しています。

ただし、その周辺の様子はだいぶ変わって、現在はスッキリとプレーンな空間です。
対照的に、100年前には一種の空間恐怖を思わせる、高密度な展示が行われています。これがまさに時代の感性なのでしょう。いささか神経症的であり、かつ強迫的です。

内装もすごいですね。
この鉄とガラスを多用した建築には、エッフェル塔(1889年完成)とも共通する、世紀末パリの匂いが強く感じられます。

   ★

それにしても、この絵葉書の世界に入り込んで、コツコツ歩き回ったら、どんな感じがするでしょうね。(でも、じーっと見ていると、本当に自分が歩き回っているような、妙な気が一瞬します。)