抜き書き・火星論争 in 英国 ― 2010年09月09日 19時44分16秒
(ジョヴァンニ・スキアパレッリ、伊、1835-1910 ; Wikimedia Commons)
先日記事で取り上げた『大空と宇宙で半時を』。
これは1881年にイギリスで刊行された本ですが、9月5日の記事およびコメント欄で話題にしたように、火星の扱いが非常に簡単というか、ほぼ完全にスルーされているのはなぜか?ということが一寸気になりました。
<神秘の星・火星>にとって、この1881年というタイミング、そしてイギリスという場所は、どんな意味があったのか?そういう非常に瑣末な(瑣末過ぎる!)興味を持って、マイケル・J・クロウ博士の『地球外生命論争 1750‐1900』(工作舎、2001)を読んでみました。
以下は同書第3巻からの抜き書きです。
固有名詞が多くて、一般にはあまり面白くない内容だと思うんですが、自分のためにメモ書きしておきます。
★
1877年以前、火星に関する千以上の図が(ほとんど出版されることなく)作成されたが、天文学者たちは未だにこの惑星の表面の形態に関して意見の一致に達してはいなかった。(p.806)
1877年の〔引用者註:火星の2個の衛星発見につづく〕第二の驚くべき報告は、ミラノのブレラ天文台からやってきた。ジョヴァンニ・スキアパレッリ(1835-1910)が、8インチ口径の屈折望遠鏡しか利用できなかったにもかかわらず、火星における広範囲の「運河」組織の発見を発表したのである。(p.807)
スキアパレッリの運河観測は、イギリスの天文学者たちの間でさまざまな反応を受け取ったが、1877年の衝の折、ナサニエル・E・グリーンがライバルとなる地図を描いたことの影響は大きかった。(p.816)
1878年4月12日の王立天文学協会の会合においてグリーンは、「スキアパレッリ教授の火星に関する書簡を読みあげ、…幾つかの興味ある図を示した」と『ネイチャー』が報告した時、英語圏の人々は初めてスキアパレッリの火星研究について知ったであろう。グリーンは、自分の火星が徹底的にスキアパレッリの火星とは違っていることを認め、その会合でこれらの相違に関する三通りの説明を提案した。〔引用者註:グリーンは、描画技術の問題・大気振動の影響・錯視効果など、「運河」は主に観測者の側の要因によるものとした。〕(同上)
1879年から1880年の衝の頃、スキアパレッリはイギリスで支持され始めた。グリーンは、スキアパレッリが運河について「ライン川の存在と同様、それらの存在は疑い得ない」と書いてきたと報告したある注の中で、アイルランドの天文学者チャールズ・E・バートン(1846-82)も運河の痕跡を観測したと述べている。〔…〕グリーンはバートンの報告に対して丁寧に応えている。「これらの形態に関するバートン氏の正確な描写によれば、…それらの存在を疑うことは不可能であろう」。(p.817)
スキアパレッリは、1879年から1880年の衝の間に火星を注意ぶかく観測し、長文の報告書を作成するとともに、たとえ個々の図の輪郭に関しては実質的に明確さは減少したにしても、運河を明示する地図をも作成した。この衝の時、彼はまた、「二重化」と呼ぶ新しい現象を目撃する。〔引用者註:二重化とは、以前は1本の線として観測された「運河」の隣に、平行してもう1本の線が生じる現象〕(p.818)
スキアパレッリの新しい発見は、瞬く間に広がった。T・W・ウェッブは、1882年4月10日ロンドンの『タイムズ』にそれを発表し、さらに『ネイチャー』の5月4日付けの記事の中でそれについて詳しく論じた。数日後『サイエンティフィック・アメリカン』がそれに言及し、その情報源として『ロンドン・テレグラフ』を引用した。プロクターはウェブの『タイムズ』への書簡に刺激を受け、その新聞に投稿する。(p.818)
プロクターの書簡は、1882年4月14日の王立天文学協会の会合において始まった運河論争で話題にされた。その会合でグリーンは、個々の運河が時々各観測者によって異なって観測される〔…〕という理由から、運河を承認する前に「大きな注意」が必要であると主張した。グリニッジ天文台のE・W・モーンダーはその時、幾つかの運河を観測したが、その位置は日々移動していたと述べた。(pp.818-19)
このイタリアの天文学者〔引用者註:スキアパレッリ〕の卓越した名声こそ、アグネス・クラークが1885年に出版した『19世紀における天文学の歴史』の初版において、スキアパレッリの運河は「十分に確証された…。火星の<運河>は現実に存在し、不動の現象である」と述べた最大の理由であった。しかし、イギリスではグリーンを中心にかなりの反論が展開された。中でも、間もなく運河説の最も活動的な敵手になったのがE・W・モーンダーであった。(p.819)
運河論争は、1890年に専門家でも素人でも、女性も含め、ともに所属できる組織として設立された英国天文学協会において特に活発になった。その後の数十年にわたって、『会報』、『紀要』、そして会議が、しばしば火星論争の公開討論の場となった。(p.828)
★
1881年のイギリスは、火星論争が幕を開ける直前のきわどい時期にあたり、子供向けの本で火星の話題がスルーされたのは、上のことから納得がいきます。
★
ところで、この勝負。この先も天文界の大立者を交えて、揉めに揉めます。
火星の運河論争は、否定論が徐々に肯定論にとって替わった…というような単純な経過をたどったのではなく、最初から肯定論と否定論ががっぷり四つに組み、双方得失点を重ねながら拮抗する状態が長く続きました。
しかし、1907年ごろから「運河は錯視に過ぎない」という説が、それまで以上に精緻に展開され(アメリカのサイモン・ニューカムが急先鋒)、また各地に新造された巨大望遠鏡が強力な裁定者となり、1910年を過ぎた頃(日本でいえば明治の末年)、「運河」論者は力尽きたのでした。
★
『地球外生命論争』には、火星論争の余波が、今も天文学の世界に大きく影響している…という、カール・セーガンの文章が引用されています。興味深い内容なので、最後にそれを孫引きしておきます。
「多くの科学者たちにとって、それはあまりにも苦く、益のないもののように思われた。したがって、恒星物理学の進展とともに、惑星天文学から恒星天文学への大脱出が起こったのである。現在惑星天文学者たちが不足している理由は、大半これら二つの要因のせいである。」(p.901)
先日記事で取り上げた『大空と宇宙で半時を』。
これは1881年にイギリスで刊行された本ですが、9月5日の記事およびコメント欄で話題にしたように、火星の扱いが非常に簡単というか、ほぼ完全にスルーされているのはなぜか?ということが一寸気になりました。
<神秘の星・火星>にとって、この1881年というタイミング、そしてイギリスという場所は、どんな意味があったのか?そういう非常に瑣末な(瑣末過ぎる!)興味を持って、マイケル・J・クロウ博士の『地球外生命論争 1750‐1900』(工作舎、2001)を読んでみました。
以下は同書第3巻からの抜き書きです。
固有名詞が多くて、一般にはあまり面白くない内容だと思うんですが、自分のためにメモ書きしておきます。
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1877年以前、火星に関する千以上の図が(ほとんど出版されることなく)作成されたが、天文学者たちは未だにこの惑星の表面の形態に関して意見の一致に達してはいなかった。(p.806)
1877年の〔引用者註:火星の2個の衛星発見につづく〕第二の驚くべき報告は、ミラノのブレラ天文台からやってきた。ジョヴァンニ・スキアパレッリ(1835-1910)が、8インチ口径の屈折望遠鏡しか利用できなかったにもかかわらず、火星における広範囲の「運河」組織の発見を発表したのである。(p.807)
スキアパレッリの運河観測は、イギリスの天文学者たちの間でさまざまな反応を受け取ったが、1877年の衝の折、ナサニエル・E・グリーンがライバルとなる地図を描いたことの影響は大きかった。(p.816)
1878年4月12日の王立天文学協会の会合においてグリーンは、「スキアパレッリ教授の火星に関する書簡を読みあげ、…幾つかの興味ある図を示した」と『ネイチャー』が報告した時、英語圏の人々は初めてスキアパレッリの火星研究について知ったであろう。グリーンは、自分の火星が徹底的にスキアパレッリの火星とは違っていることを認め、その会合でこれらの相違に関する三通りの説明を提案した。〔引用者註:グリーンは、描画技術の問題・大気振動の影響・錯視効果など、「運河」は主に観測者の側の要因によるものとした。〕(同上)
1879年から1880年の衝の頃、スキアパレッリはイギリスで支持され始めた。グリーンは、スキアパレッリが運河について「ライン川の存在と同様、それらの存在は疑い得ない」と書いてきたと報告したある注の中で、アイルランドの天文学者チャールズ・E・バートン(1846-82)も運河の痕跡を観測したと述べている。〔…〕グリーンはバートンの報告に対して丁寧に応えている。「これらの形態に関するバートン氏の正確な描写によれば、…それらの存在を疑うことは不可能であろう」。(p.817)
スキアパレッリは、1879年から1880年の衝の間に火星を注意ぶかく観測し、長文の報告書を作成するとともに、たとえ個々の図の輪郭に関しては実質的に明確さは減少したにしても、運河を明示する地図をも作成した。この衝の時、彼はまた、「二重化」と呼ぶ新しい現象を目撃する。〔引用者註:二重化とは、以前は1本の線として観測された「運河」の隣に、平行してもう1本の線が生じる現象〕(p.818)
スキアパレッリの新しい発見は、瞬く間に広がった。T・W・ウェッブは、1882年4月10日ロンドンの『タイムズ』にそれを発表し、さらに『ネイチャー』の5月4日付けの記事の中でそれについて詳しく論じた。数日後『サイエンティフィック・アメリカン』がそれに言及し、その情報源として『ロンドン・テレグラフ』を引用した。プロクターはウェブの『タイムズ』への書簡に刺激を受け、その新聞に投稿する。(p.818)
プロクターの書簡は、1882年4月14日の王立天文学協会の会合において始まった運河論争で話題にされた。その会合でグリーンは、個々の運河が時々各観測者によって異なって観測される〔…〕という理由から、運河を承認する前に「大きな注意」が必要であると主張した。グリニッジ天文台のE・W・モーンダーはその時、幾つかの運河を観測したが、その位置は日々移動していたと述べた。(pp.818-19)
このイタリアの天文学者〔引用者註:スキアパレッリ〕の卓越した名声こそ、アグネス・クラークが1885年に出版した『19世紀における天文学の歴史』の初版において、スキアパレッリの運河は「十分に確証された…。火星の<運河>は現実に存在し、不動の現象である」と述べた最大の理由であった。しかし、イギリスではグリーンを中心にかなりの反論が展開された。中でも、間もなく運河説の最も活動的な敵手になったのがE・W・モーンダーであった。(p.819)
運河論争は、1890年に専門家でも素人でも、女性も含め、ともに所属できる組織として設立された英国天文学協会において特に活発になった。その後の数十年にわたって、『会報』、『紀要』、そして会議が、しばしば火星論争の公開討論の場となった。(p.828)
★
1881年のイギリスは、火星論争が幕を開ける直前のきわどい時期にあたり、子供向けの本で火星の話題がスルーされたのは、上のことから納得がいきます。
★
ところで、この勝負。この先も天文界の大立者を交えて、揉めに揉めます。
火星の運河論争は、否定論が徐々に肯定論にとって替わった…というような単純な経過をたどったのではなく、最初から肯定論と否定論ががっぷり四つに組み、双方得失点を重ねながら拮抗する状態が長く続きました。
しかし、1907年ごろから「運河は錯視に過ぎない」という説が、それまで以上に精緻に展開され(アメリカのサイモン・ニューカムが急先鋒)、また各地に新造された巨大望遠鏡が強力な裁定者となり、1910年を過ぎた頃(日本でいえば明治の末年)、「運河」論者は力尽きたのでした。
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『地球外生命論争』には、火星論争の余波が、今も天文学の世界に大きく影響している…という、カール・セーガンの文章が引用されています。興味深い内容なので、最後にそれを孫引きしておきます。
「多くの科学者たちにとって、それはあまりにも苦く、益のないもののように思われた。したがって、恒星物理学の進展とともに、惑星天文学から恒星天文学への大脱出が起こったのである。現在惑星天文学者たちが不足している理由は、大半これら二つの要因のせいである。」(p.901)
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