リチャード・プロクター著 『恒星アトラス』(2)2010年12月01日 20時33分18秒

この立派な星図の「秘密」。
それは、星図がザックリと割れてしまっていることです。


そう、無残にもザックリと。


以前の本の所有者(少なくとも私以前に2人います)も、裏側から紙を貼ったりして、必死に防戦した形跡がありますが、本の崩壊を食い止めるには至りませんでした。


これは、製本にも問題があったのです。本来、見開きフルオープンで使うはずの本の背を、完全に糊で固めた「タイトバック」方式で仕上げたために、本の「のど」に無理がかかって、本自体が負荷に耐えられなくなってしまったのでした。

そしてもう1つの、そして私の心をいっそう暗くする「秘密」。
それは、紙の劣化です。本の「のど」が、これほど見事に両断されているのは、紙の柔軟性自体が失われているからで、今ではちょっと指が引っかかっただけで、紙の端がペリリと容易に裂けてしまいます。これからさらに劣化が進むと、触っただけで紙がフレーク状に崩壊するようになるはず。


この紙の劣化の問題。当然、プロクターのこの本に限定されないのが悩ましい点です。そして今、世界中の図書館がこの問題に戦々恐々としています。
星図の話題からとびますが、そのことを少しメモ書きしておきます。

(項を改めてつづく)

コメント

_ S.U ― 2010年12月01日 21時04分26秒

おぉ、お気の毒に...
こういう時のお決まりの言葉は、「まあ星図は消耗品だから。しかも野外に近い暗い所で使うんだし」というものですが、高価で貴重な資料ですから慰めにも何にもなっていませんね。でも、星図というのは元来こういう矛盾を含んだ物と言えるでしょう。ぬらすのがもったいない高価な雨傘のようなものです。
 星図を痛めるのが惜しい人は、かつてはトレーシングペーパーかなんかに複写して使ったのではないでしょうか。

_ 玉青 ― 2010年12月02日 20時43分37秒

お気づかいありがとうございます。
まあ、この星図は元々ざっくり割れているのを承知で買ったので、私への慰めはご無用ですが、でも星図の立場からすれば、いかにも傷ましい気がします。

観測の度に何べんも擦り切れるぐらい使ってもらったら、星図としてはむしろ本望でしょうけれど(分点も変わってきますしね)、上の星図は思わぬ伏兵にやられたと言いますか、本来であればまだまだ壮健であったはずなのに、志半ばで非業の死を遂げ、さぞ無念であったろう…と、妙な感情移入をしてしまいます(笑)。

_ DryGinA ― 2010年12月03日 12時16分31秒

ご無沙汰しております。DryGinA です。
 この紙の劣化については私も悩んだことがあります。
 米国旧標準局(NBS)が作成した様々な物についての物性資料で、1800年代から1950年くらいまでの論文から、物性データ部分だけを抜き出し、温度などの基礎物理量の広域グラフ上に熱伝導率や比熱などをプロットしていった“生”データの印刷物です。
 NBSはそのプロット群の抜け領域を新たな測定で埋め、最も確からしい“曲線”を作り上げました。数式化されたそれは現在、物性データコードとして各方面で活用されています。
 ですからそんな紙データ…しかも曲線化される前の“点”の資料は、理学・工学の分野では役目を終えた物かもしれません。…が、何かがひっかかるのです。その“確からしい曲線”が、どのようにして生み出されたものなのか…を、知らしめる必要はないのだろうか…と。

 その古い資料が、散逸してしまわないよう所在は常に確認しています。それ程古くはないそれは、せいぜい60年ほど前のものですが、当時の“紙”は、ほとんど酸性紙だったようです。持つとポロポロ、めくればボロボロになります。

□玉青さん
 以下のURLを覗いてみて下さい。
・酸性紙資料の脱酸性化処理
 http://www.library.metro.tokyo.jp/15/15a84.html
・国立国会図書館資料保存対策室
 http://www.ndl.go.jp/jp/aboutus/data/chuseishi.pdf

 「酸性紙 紙 アルカリ」で検索したら出てきました。
 図書館類は、皆さん悩んでおられるようです。
 ィエール大の資料館で、聖書の初版を見たことがあります。
 ボストンFAMでには、古い浮世絵が大量にありますが、
 それらは特別な処理無しで、保管に耐えているようです。
 古い和紙の偉大さを感じます。

---- DryGinA 2010-12-03 生きてます。

_ S.U ― 2010年12月03日 20時23分37秒

紙に、ひびが入り、風化し、触るだけで粉砕されていくのはやはり悔しいでしょうね。これは、やや薄手の片面につやのある紙でしょうか。そうだとすると何となく状況が目に見えます。
 DryGinA様もおっしゃってますが、和紙は丈夫で、虫食いでレース状になっても浸水しても粉砕されないです。タイムカプセル向けですね。

_ 玉青 ― 2010年12月03日 22時31分12秒

○DryGinAさま

お久しぶりです!私の方もこうしてどうにか生きています(笑)。

紙は「古くて新しい技術」というのがピッタリくるようです。
その起源は古く遡るものの、近代の紙は、それ以前とは氏素性の異なる簒奪政権のようなものですから、いろいろほころびが出るのは止むを得ないかもしれません。当時の人が良かれと思ってやったことで、後世大きな禍根を残した例はたくさんありますが、近代製紙法もその1つですね。
まあ、これは「紙」だからまだしもですが、ひょっとして近代文明そのものが、酸性紙と同じ性格のものだとしたら…。考えるだに恐ろしいことです。

…と、常に大風呂敷を広げる私の癖も相変わらずですが(笑)、どうぞまたお立ち寄りくださいませ。

  +

情報をありがとうございました。
記事の方は、お知らせいただいた情報を加味して、明日以降書くことにいたします。

○S.Uさま

今、紙に関する本を読んでいます。
で、私もいろいろ驚いたのですが、この紙の保存性の問題はなかなか一筋縄では行かないようです。というのも、「和紙-洋紙」の軸に「伝統製紙-近代製紙」の軸を直交させて考える必要があって、同じ和紙でも、明治以降の和紙はかなり怪しくなっているのだとか。そう言われれば、思い当たる節があります。技術と伝承の関わりについて、そして真の経済性とはいったい何なのか…思うこと多々です。

_ S.U ― 2010年12月04日 08時58分06秒

幕末の頃、江戸に来た西洋人が、西洋では高価な紙を使って日本人が鼻をかんでいるのをみて驚いた、という話を読んだことがあります。これは、当時すでに古紙の回収・再生をしていたからだといいますが、昔は和紙のほうが洋紙より安かったのでしょうか。また、出版向けの紙の生産量の比較はどんなものだったのでしょうか。また、ごゆるりとご教授下さい。

_ 玉青 ― 2010年12月04日 17時26分06秒

ムムム…これまた門外漢なのではっきりしませんが、紙は初期輸出品目として、生糸や茶と並んで稼ぎ頭で、フランスあたりでは「和紙=高級」のイメージが明瞭にありましたから、実際には粗悪な和紙でも、件の外国人には高級そうに見えたのかもしれません。

日本における近代の製紙の歴史は、以下に簡単に述べられていました。
http://homepage2.nifty.com/t-nakajima/9toppage.htm

これを見ると、日本で
・木材パルプ紙の製造が始まったのは、明治22年頃。
・洋紙の輸入比率は、明治7年(95%)→明治33年(38%)に低下。
・和紙の生産戸数が最多だったのは、明治34年。
・和紙と洋紙の生産(量か額か不明)が逆転したのは、明治末年~大正初年。

紙の需要は明治を通じて増加を続け、最初は洋紙も和紙も生産が増えていきましたが、明治の末にいたって和紙は洋紙に首位を明け渡したようです。機械印刷への適性の差はもとより、日露戦争後に製紙業が重工業化するにつれて、生産コスト面でも太刀打ちできなくなったのではないでしょうか。(いかに人件費が安くても、機械には勝てなかった!)

   +

和紙と洋紙の話題は明日以降の記事にも続きます。

_ S.U ― 2010年12月05日 09時06分49秒

なるほど。経済的な部分は大きいですね。人件費<材料費のときは精巧なものが作られ、人件費>材料費になると粗悪になるというのが手工業の鉄則だと思いますが、機械が入ってくるとこの構図はいったん崩れて、次の段階では、機械の都合に振り回されるようになるということでしょう。

 もう一つ、例を思いついたのですが、西洋の児童小説では小学生は学校で石盤を使っていますが、日本の時代劇の寺子屋では幼児さえ紙に○やら×やら書いて遊んでいます。これも価格差を物語っているのではないかと思いますが、授業料への投資の違いもあるかもしれません。

紙の保存法についての後続情報を楽しみにしております。

_ 玉青 ― 2010年12月05日 14時24分23秒

単に安価な生産手段としての手工業は淘汰され、付加価値のあるものだけが生き残るのでしょうが、どうも「付加価値」というのは、正体が有るような無いような、ちょっと謎めいた存在です。(経済学よりも、むしろ心理学の領域かもしれませんね。)

近世以前の紙の製造コストは、日本の方が格段に安かったのは確かだと思います。
西洋では長らく廃衣料(リネン)が主原料で、原料の供給に大きな制限があったのに対し、日本では楮などの栽培植物から直接製紙したため、生産量がそもそも違ったのでしょう。名のある紙の産地でなくても、いたるところで農間余業として普通に紙すきを行ってましたし、何せ建築資材まで紙に求めた国ですから…。

ただ、石盤と紙については、コストにも増して、ペンと筆という筆記具の違いが大きかったと思います。
日本でも、明治の子どもには石盤はお馴染みだったらしいですね。物の本によれば、石盤は明治18年ごろから急速に普及し、大正いっぱいぐらいまで使われたようですが、いっぽう長野県では、早くも明治36年に石盤・石筆をやめて鉛筆への切り替えを決めた小学校もあったとかで、結構地域差があるようです。まあ、何にせよ昭和の子どもにはとんと分からぬ教具ですね。

(S.Uさんにしか通じない独り言ですが、何だかこうやって考証めいたことを書き綴っていると、自分が○藤○達氏になったような気がします…^_^;)

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