明治日本のアマチュア天文家…前原寅吉翁のこと(1)2010年12月28日 06時06分42秒

さて、そういう純粋のアマチュアの人たちは、どういう素性の人で、どこでどういう活動をしていたのでしょうか。まだまだ調べないと分からないことだらけですが、ここで1人の人物に注目したいと思います。

   ★

その前に、ここで再び『ビクトリア時代のアマチュア天文家』のことを持ち出しますが、あの本で私が最も心を奪われたのは、貧しい労働者階級の天文家たちの生き様でした。純粋に星への憧れだけに突き動かされて、望遠鏡を空に向けた人たち。

別に裕福な人の天文趣味が不純だったというわけではありません。ただ、そうした人たちには、星を眺めることを通じた交友と、議論と、名声とがあり、傍からもその行動は理解可能なものでした。他方、労働者階級の人々にはそうしたものが一切なく、天文学に入れ込んだところで、いや入れ込んだからこそ、形而下の生活はますます逼迫するばかりで、いったい何のために星なんぞ…?と、周囲は首をひねったに違いありません。(そして、そのおかみさんともなれば、首をひねるだけでは済まなかったでしょう)。

   ★

明治の日本にも、高等教育とは無縁なまま、純粋に市井の人として天文趣味に打ち込んだ人がいたかといえば、少なくとも1人います。

その名は、前原寅吉(1872-1950)
本州の北の端、青森県は八戸の人です。
元・八戸藩士の家に生まれ、小学校の高等科を出るとすぐに時計屋に弟子入りして、後に自分の店を持ちました。(その店は今でも八戸で続いています。余談ですが、『銀河鉄道の夜』に出てくる時計屋のモデルはここだ!と、色川大吉氏は大胆に推測していますが、むう…。→ http://sumihan.blog1.fc2.com/?mode=m&no=324

前原寅吉についてまとまった本としては、以下のものがあります。


■鈴木喜代春(作)、三浦福寿(絵)
  『野の天文学者 前原寅吉』
  あすなろ書房、1993

「あとがき」を読むと、著者の鈴木氏が主として参照した1次資料は、寅吉自身が書いた『天文論文集及身辺雑記』、『科学雑記』、『思い出―夕話』、『天文日誌』の4冊で、これらはたぶん刊本ではなく稿本だと思うので、一般に入手できる資料としては、上に掲げた児童書が唯一のものでしょう。

この本に拠って、寅吉の略年譜を以下に書き抜いてみます。

(この項つづく)

【付記】
今見たら、あすなろ書房版の『野の天文学者』は既に絶版のようです。現在は、らくだ出版から出ている『鈴木喜代春児童文学選集』の第6巻(2009)として入手可能。以下の引用や記述は、すべてあすなろ書房版に基づくものであることをお断りしておきます。

明治日本のアマチュア天文家…前原寅吉翁のこと(2)2010年12月28日 18時13分12秒

『野の天文学者 前原寅吉』には、具体的な年代が書かれていない部分も多いのですが、適宜時代を区切って事項を配列してみます。(以下、〔 〕内の年次は、原文に記述がないものの、前後関係から私が推測したものです。また年齢は数え年で統一しました。)


【誕生~修学】
1872(明治5)年2月26日…1歳
・前原正明(元八戸藩士で、維新後は八戸役場に出仕)の三男として八戸に生まれる。
・1歳のときに実母が死去。父は後妻を迎え、異母弟妹と合わせ6人きょうだいの中で育つ。
1878(明治11)年…7歳
・八戸小学校下等入学。
1881(明治14)年…10歳
・同校中等科(3年課程)に進級。中等科の頃より、星に興味を抱き、天文の基礎知識や自らのアイデアを記した「天文日誌」の筆録を始める。
1883〔原文1885〕(明治16)…12歳
・父・正明、病気により死亡。
○〔同年〕…12歳
・八戸小学校高等科(2年課程)に進級。
・「天文日誌」に星座の観測記録が増える。
・時計屋の仕事に興味を持つ。


【青年期~独立まで】
○1885(明治18)年…14歳
・小学校卒業と同時に八戸の時計屋に住み込みで弟子入りする。
○1889(明治22)年…18歳
・時計屋での奉公を終える。
○1890(明治23)年…19歳
・八戸城下の中心に近い番町に自分の店「前原時計店」を構える。
(時計店の開店は「寅吉23歳のとき」という記述も文中にありますが、前後と整合しません。)


【壮年期…天文一途の時代】
○以下、年次不明
・「なか」と結婚。
・東京から本を取り寄せ、天文学の勉強を続けるとともに、初めての望遠鏡を購入する(長さ(鏡筒長?)1.2m、倍率80倍)。
・時計店が繁盛し、店員を雇い入れる。
・望遠鏡をさらに2台追加購入(1台は長さ2m、188倍。もう1台は長さ1.7m、
100倍)。
・同じく番町で営業していた高野写真館の高野直太郎と協力して、月・太陽・星座の写真を撮影する。
・自分で撮影した天体写真を添えた天文学の啓蒙チラシ「天体之現象」を作成。数千枚を印刷して、日本全国の学校、朝鮮、台湾、清、ハワイに配布する。
・「天文山(てんもんさん)」を名乗り、店名を「天文堂前原時計店」と改める。
・八戸藩9代藩主旧蔵の望遠鏡を、藩主の縁故者より贈られる。
・自説を論文の形にまとめるようになる。「音声の速度は夜は昼の3倍になる」などの説を唱える。


(↑「天文山主」前原寅吉。この絵葉書は昭和に入ってから作られたものですが、写真自体は青年期に撮影されたものでしょう。)


○1908(明治41)年…37歳
・日本天文学会の「天文月報」第1巻第5号に〔本の中では“第1号”になっていますが、正しくは第5号です〕、寅吉の質問が掲載される。「太陽黒点上に雲のようなものが通過するのを観察したが、プロミネンスだろうか?」という内容。天文学会は「プロミネンスではないでしょう」と回答。
○〔1908(明治41)か〕
・「太陽面直接観望用眼鏡」を製作。(この装置は現存せず詳細不明。これについては後ほど詳しく見ます。)
・日本天文学会特別会員に推挙される。
○1910(明治43)年…39歳
・南極探検に出発する白瀬中尉に「星座時計」を贈る。(「暗い夜でも北極星に針をあわせれば時刻がわかる」と文中にありますが、南極探検に北極星はやや不審。)
○1910(明治43)年5月19日…39歳
・ハレー彗星の日面通過を望遠鏡で観測。(この件も後ほど詳述)
○1911(明治44)年…40歳
・電灯を使ったプラネタリウムを自作。
・この前後、論文を立て続けに発表(発表先は書かれていません)。「不規則気象の変化に就いて」(1910)、「地球は果たして楕円形なるか」(1911)、「天候は果して人為に依りて左右せらるか」
○1913(大正2)年…42歳
・論文「天文学上より凶作の原因を論ず」を天文学会に提出。(これは「地球を取り巻くガスの変動によって土地が冷える」ことを主張する内容でした。)


【失明~晩年】
○1922(大正11)年…51歳
・養嗣子を迎える(寅吉夫妻には実子がありませんでした)。
・この頃より視力が衰え、ついに失明に至る。失明後も口述により論文の発表を続ける。「太陽のプロミネンスを容易に見る法なきか」、「地球太陽は如何なる処を通過するか」、「ウエンネッケ彗星の過去、現在、未来」、「太陽の自転と地球上の影響」。
○1938(昭和13)年…67歳
・養嗣子・義臣が中国で戦死。
○1950(昭和25)年…79歳
・逝去

(この項つづく)

明治日本のアマチュア天文家…前原寅吉翁のこと(3)2010年12月28日 18時24分48秒

さて、以下はためらいを覚えつつも、敢えて書きます。

実は、私はこの『野の天文学者 前原寅吉』という本に多少の違和感を覚えるのです。
もちろん、この本がなければ私は寅吉の存在を知ることすらなかったでしょうし、辛苦の調査の末に、それまで殆ど知られていなかった人物に光を当てた功績は、甚だ大なるものがあります。しかし―。

何というか、私はこの作品の背後に、はっきりとした教育的配慮を感じます(著者の鈴木喜代春氏は、小・中学校の教員をされた後に児童文学作家になられた方だそうです)。もっとあからさまな言い方をすると、この本には、寅吉を素材に「偉人伝」を書きたいという強いバイアスがかかっているように思うのです。

  ★

物も情報も必ずしも恵まれない環境で独力奮闘した、1人の熱烈なアマチュア天文家が明治時代にいた。それだけで、もう既に十分意味のあることであり、顕彰の価値があることだと私は思うのですが、そこからさらに寅吉を「隠れた大天才」のように祭り上げるのは、それこそ贔屓の引き倒しというもので、却って寅吉の真価を歪めるのではないかと危惧します。

そこで、失礼を承知の上で、あえてこの本の記述を批判的に見てみようと思います。

   ★

資料がごく限られている中で、伝記を書くとなれば、ある程度想像で隙間を埋めざるを得ませんし、ましてやこれは子供向けの本なのですから、厳密な資料操作よりも、分かりやすさが求められて当然です。しかし、だからこそ、この本の読解には十分注意が必要です。

肝心の天文学上の記述についてもそうです。
例えば、本書には、寅吉が近所の子どもたちに恒星の一生を物語る、次のようなくだりがあります(p.180)。

「太陽だって、ひとつの星であることはまちがいない。いままで五十億年、燃えて光ってきたのだ。あと五十億年たてば赤くふくらんで爆発するか、あるいは小さな星になって消えてしまうのでは、とも言われているんだ。」

このシーンは現代の知識に基づいて書かれた、著者(鈴木氏)の純然たる創作に違いありません。なぜなら、当時の恒星進化論は、現在とは反対に赤色巨星から始まって、徐々に収縮し白色化する系列を考えていたからです。また太陽の寿命も全くの謎でした。

あるいは島宇宙説、あるいはアンドロメダ星雲の大きさと距離。こうしたものに寅吉は圧倒されたことが書かれていますが(pp.80‐82)、この辺の記述もすべて現代の宇宙論に即して書かれています。説明の煩を避けたのかもしれませんが、歴史的事実には反します。

   ★

寅吉は優れた着想の人だったと思います。そして、当時の高等教育を受けた人以上に天文学の知識が豊かだったのも確かでしょう。しかし、当然そこには自ずと限界もありました。その辺の客観的な評価がないと、寅吉の事績は光を失うと思います。

『野の天文学者』からまた引用させていただきます。寅吉が「天文月報」の応問(質問投稿欄のこと)で質問したくだりについてです(pp.104‐105)。

 寅吉はまた、「オリオン大星雲を望遠鏡で見ていたら、小さい二つの星をみつけたのだが、これは大星雲と関係があるのか、それとも遠くはなれた別々の星なのか」
という意味の質問もしました。
 オリオンの三つ星の下に、さらに三つの小さな星があります。そのまん中の星が、オリオンの大星雲といわれているガスのかたまりです。
 オリオン座には、このほかに暗黒星雲もあります。
 これらのガス星雲から、ガスが飛び散って新しい星が、どんどん生まれているのです。寅吉は、観測をつづけているうちに、そこに、いままでにない星を見つけたので、それは新しく生まれた星ではないかと思って質問をしたのでした。
 日本天文学会は「此等の星と大星雲とが関係あるものか如何は、大問題に有之侯(中略)此間題の解決は現今にては不可能と可申侯」と、答えています。
 専門の天文学者でも、かんたんに答えられない質問を寅吉はしていたのです。
「八戸といったら、日本のはしの青森県の太平洋岸の町じゃないですか。ここに、こんなにも天体にくわしい人がいるとは、おどろきましたね」
「まったくです。一人で、こんなにすばらしい研究をつづけているのは、おどろきです。これはぜひ行って、あってみたいですね」
「天文月報」を編集している編集室では、こんな話が交わされていました。

この編集室での会話も、私は純粋なフィクションだと思いますが(そもそも、「天文月報」には、編集担当者=天文台職員はいても、「編集室」はなかったはずです)、それはさておき、原文を見てみます。
 
(↑「天文月報」第1巻第5号(明治41年8月)出典:http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1908/pdf/190808.pdf よりスナップショット)

寅吉はこのとき、3つの質問をしていて、オリオン星雲に関する質問は、その2番目です。で、このやりとりを読むと、現実には寅吉の鋭い質問が中央の学者をタジタジとさせたわけではなくて、むしろ寅吉の知識の欠落を示す内容であることが分かります。

寅吉がいう2つの星とは、例の四重星・トラペジウムのことで、回答者(一戸直蔵)はその旨教示していますが、寅吉は当時その存在を知らなかったのでしょう。

とはいえ、その「見え方」に基づいて、ガス体とそれに包まれて見える恒星とが、何か相互に関係しているのか?という疑問を持ったのは、鋭い着眼であり、一戸もそれを「大問題」だと是認しています。(ただ、その後に出てくる、「此間題の解決は現今にては不可能」というときの「問題」は、左記の「大問題」とはまた別です。これは星雲と恒星の距離測定のことで、それは現在技術的に無理だという事実を述べたにすぎません。「専門の天文学者でも、かんたんに答えられない質問」を寅吉がしたというのは、やや曲解です。)

ちなみに、その次に載っている寅吉の第3の質問。
実はこれこそ寅吉の真骨頂と言うべきもので、私にはむしろこちらの方が興味深いです。寅吉は変光星の光度変化の理由を自分なりに考えて、「規則的変光星は、主星を回る伴星がその原因ではないでしょうか。また不規則変光星は恒星表面に出現する黒点が原因ではないでしょうか。自転の早い星は黒点も大きいと思うので、巨大な黒点が出現することがその原因だと思うのですが…」と、問うています。

何事も自分の頭で考えようという姿勢が彼の素晴らしいところであり、そして部分的に正しい推論を下しています。一戸はこう答えています。

「規則的変光星の一部はたしかにお説の通りと思います。ただ、それ以外の規則的変光星はまだ十分な説明ができていません。」
「不規則変光星についての貴方の想像は、たくさんある内にはそういうものもあるかもしれませんが、全部をそれで説明できるかは疑問です。黒点説は実は長期変光星を説明するものとして既に提案されています。ただ、お説の中で、‘自転の早い星は黒点も大きいはず’というのは、いったいどういう理論に基づくものか分かりかねます。ともあれ、想像力を働かせて、それを事実と学理に照らして仮説を立てるのは大いに良いことですから、ある種の不規則変光星に、あなたの想像説を応用されてみてはどうでしょう。」

奔放な想像力のせいか、寅吉の論には途中に飛躍があります。一戸もそれに困惑気味で、その辺は軽くあしらっているように見えますが、ともあれ寅吉の自由な発想がうかがえるエピソードです。

(この項つづく)

明治日本のアマチュア天文家…前原寅吉翁のこと(4)2010年12月28日 18時32分25秒

『野の天文学者 前原寅吉』の著者、鈴木喜代春氏には、東北電力の広報誌「白い国の詩」(2008年夏号)のために書き下ろした、次の一文もあります(リンク先のページには寅吉の写真や、その使用した望遠鏡など、貴重な画像が載っています)。

■前原寅吉が観た宇宙
 (WEB版 http://www.tohoku-epco.co.jp/shiro/08_07/01toku/index.html

こちらは1次資料の直接引用もあり、いわば、『野の天文学者』よりも「大人向き」の内容です。冒頭、鈴木氏は「ハレー彗星を捉えた唯一の人」という章題で、以下のように記します。

「〔…〕こうして、いよいよハレー彗星が太陽の間を通過する〔1910年〕5月19日を迎えた。国立天文台は勿論、八戸町(現在は市)の前原寅吉も、3台の望遠鏡を物干し台に据え付けて、ハレー彗星の観測に備えた。

 ところがこの時、ハレー彗星の観測に成功したのは、時計店を営んでいた前原寅吉ただ一人だけだった。〔…〕
 このように天文台が総力をあげて観測に当たったが、新聞は次のように報じている。
 「観測の結果▽結局何の変化も見えず▽機械の不精巧が残念」(東京朝日新聞・明治43年5月20日)。
 「殆ど変化無し。昨日のハレー彗星観測。太陽面現象分らず。過半は望遠鏡の不備」(東京日日新聞・明治43年5月20日)。

 「満州日日新聞」では、「青森県八戸町前原寅吉氏は、夙に天文の研究に趣味を有し(中略)十九日、ハリー彗星の太陽面通過の際は、自家の考案になる望遠鏡にて、明らかに観測するを得たり(中略)列国の天文台が観測に失敗し居れるに、独り個人たる氏が此大成果を収め得たるは独り氏の名誉なるのみならず日本学界の光栄なりと云うべし」と報じた。

 「列国の天文台が観測に失敗し居れる」時、「独り個人たる」前原寅吉だけが「大成果を収め」成功したのだった。
 「天文台」の「観測に失敗」したのは「望遠鏡の不備」といっているが、この時の天文台の望遠鏡は、8インチ。寅吉の望遠鏡は3インチだった。寅吉はこの時、自分が考案した「太陽面直接観望用眼鏡」を望遠鏡に取り付けていた。」

   ★

ハレー彗星の太陽面通過の一件は、寅吉の「神格化」にあずかって最も大きなエピソードになっているようです。そして、それが子ども向きの本にとどまっているうちは、まだ良いのかもしれません。しかし、ウィキペディアの「ハレー彗星」の項にまで、その事績が大書されるに至っては、少なからず不安を覚えます(ウィキペディアの記事にはソースが書かれていませんが、たぶん鈴木氏の文章に拠ったのでしょう)。

はたして、これを全て事実と認定して良いか?

(この項つづく)

明治日本のアマチュア天文家…前原寅吉翁のこと(5)2010年12月28日 18時35分55秒

問題のウィキペディアの記事にはこうあります(ハレー彗星/1910年 の項)。鈴木氏の文章と内容が重複しますが、念のため転記します。

「日本では、1910年(明治43年)、世界中の天文台が当時としては最新の機材を使って観測にあったにも拘らず、結局、確実に見たとの報告はなかった。現在の八戸市に住む、一人の天文愛好家、前原寅吉(1872年 - 1950年)がハレー彗星の太陽面通過を鮮明に観測したとして、大きくクローズアップされている。

前原寅吉は、自作の「黒色ガラス」をつけた3台の天体望遠鏡を自宅の物干し台に取り付け、観測、発表した。「5月19日、午後〔ママ〕11時20分に至り西より東に向き太陽面上段青色に変じたり。これ全く核(ガス状になった彗星の本体)の経過せしものにて午後12時17分まで見えたるも西方より白色状の状態に復したり」とあり、彗星の通過によって、そのガスがフィルターとなり、太陽面が変色する様子をはっきり捉えている。寅吉の快挙について、満州日日新聞の記事は「列国の天文台が観測に失敗し居れるに独り個人たる氏が此の大成果を収め得たるは独り氏の名誉なるのみならず日本学界の光栄たりと言うべし」絶賛している。」

一読して明らかなように、寅吉の“偉業”を取り上げたのは「満州日日新聞」ただ1紙であり、それが当時「大きくクローズアップされ」たというのは誇大です。
「世界でただ一人」とか、「立派な装備を誇った学者たちを出し抜いて」というのは、ファクトというよりは、1つのアネクドート(逸話)、つまりそういう書き方をした新聞も当時あった…という解釈にとどめるべきだと思います。

少なくとも、「世界中の天文台が準備万端、彗星の太陽面通過を待ち受けた」というのは事実ではないので、こういう書き方はフェアではありません。何せヨーロッパやアメリカでは、太陽は地平線の下だったのですから。

それにしても、何故「満州日日新聞」だったのでしょうか?
同紙は明治40(1907)年に創刊された満鉄系の新聞で、いわば国策紙ですから、国威発揚的記事は大歓迎だったでしょう。でもどういうルートで外地までニュースが流れたのでしょう?

(この項つづく)

明治日本のアマチュア天文家…前原寅吉翁のこと(6)2010年12月28日 18時38分56秒

実は、満州日日新聞は、このハレー彗星の観測を大がかりなイベントとして計画していました。費用は全て会社持ちで、満州にハレー彗星観測隊を送ることをぶち上げ、天文界もこれに呼応し、大連に2人の研究者を送り込み、当日を待ちうけたのです(※)。

(※)以前、満鉄と天文学会の組み合わせにピンと来るものがある、と書いた(http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/12/27/5611389)のはこのことです。純粋な憶測ですが、植民地経営と天文観測という点で、両者には何か相利共生的つながりがあったのでかもしれません(イギリスの国策からの連想です)。

「天文月報」第3巻第1号(明治43年4月)の雑報欄に、そのことが出ています。
 
(出典:http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1910/pdf/191004.pdf よりスナップショット)

満州に渡ったのは、理科大学〔=東大理学部〕講師・早乙女清房と東京天文台助手・帆足通廣の2名。では、「その瞬間」はどうであったか?
その後7月に出た同誌(第3巻第4号 http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1910/pdf/191007.pdf)にそのレポートがあります(内容は、満州日日新聞所載の「日誌」の再録のようです)。

「◎大連のハリー彗星観測
 〔…〕五月十九日は風なき晴天にして、月入の後直に彗星の尾を東天に認めたる由、其幅の最広き部分は六度に達し其長百〇五度に及べりと、尚写真は二時三十分に始め一時五分間の曝露をなせりと云ふ。
 同日の太陽面経過に就ては矢張り其面上に何等の異状をも認めずと云はれたり。
 尚同日夕刻は快晴なりしも、月光の跋扈の為彗星の尾を認むるを得ずと、尤も日没後の薄明が目立て橙黄色を帯びたるを見たれども、彗星と関係あるや疑はしと附記されたり。」

結局、東京と同様、大連でも何の変化も観測されなかったのです。鳴り物入りで待ち構えていた新聞社としては、ちょっと格好がつかないですね。そんなところに、もし寅吉が何かポジティブな情報を伝えたとすれば、新聞社にとってはまさに渡りに船、得たりや応と飛び付いたのではないか…というのが、この「スクープ」の陰に想定される事情です(確証はありません。想像です)。

(この項つづく)

明治日本のアマチュア天文家…前原寅吉翁のこと(7)2010年12月28日 18時45分28秒

次いで、寅吉の報告内容を検討してみます。

ウィキペディアの記述には、文語体で太陽の見え方の変化が書かれていますが、基本的なこととして、その出典が不明です。寅吉自身の記載なのか?それとも満州日日新聞の記事の引用なのか?大事な点ですが、未詳です。

ただ、いずれにしても、寅吉が報告しているのは、彗星本体の太陽面通過ではなく、彗星の尾が地球を覆うことによって、太陽の見え方に変化が生じたことです(なにせ当日の位置関係では、彗星の核自体はどんな大望遠鏡でも捉えることは不可能でしたから)。であれば、金星の太陽面通過のように、開始と終了の明確な区切りはないように思うのですが、寅吉は分単位でそれを報告しています。即ち、午前(ウィキペディアには午後とありますが誤記でしょう)11時20分に太陽の変色が始まり、午後12時17分に終ったと。

ここでいささか気になることがあります。
実は「天文月報」の同じ号(第3巻1号)の雑報欄には、ハレー彗星の太陽面通過に関して、具体的予測が出ていました。

「クロンメリン氏は又前記現実軌道の要素に依りて 来る五月十九日に起るべき太陽面通過の時刻方向等を推算せり、其結果左の如し、(時刻は日本中央標準時。)
 経過の初。 午前十一時二十二分
         方向角二百六十四度
 経過の終。 午後零時二十二分
         方向角九十二度
 最も太陽の中心に接近するは午前十一時五十二分にして、其時に於ける彗星の位置は太陽の中心より南方一分二秒の処に在るべしと云ふ。」

クロンメリンが行ったのは、あくまでも彗星本体と太陽の位置関係の推算です。そこから伸びる尾がどのような振舞いを見せ、地球にいつ到達するのかは、天文学者にも予測不能でした(この点については下記を参照して下さい)。

■暦と星のお話>1910年のハレー彗星騒動>1910年5月19日
 http://www.geocities.jp/planetnekonta2/hanasi/halley/kiji/19100519.html

したがって、寅吉の報告が、上記の開始/終結の予想時刻とあまりにも符合しているのは、かえって不自然です。

寅吉は確かに何かを「見た」のかもしれません。しかしそれが他の人にも見えたかどうかは別問題です。そして彼はこの「天文月報」の記事を事前に目にしていたはずです。そして満州日日新聞もそれを知っていました。(というか、当時この時刻は各紙が事前に報じていたので、国民周知でした。)

予断があったために、寅吉がそこに無いものを見てしまった。あるいは、寅吉が曖昧な形で報告したものを、新聞記者が自らのストーリーに合わせて改変してしまった。そうした可能性を考えるべきです。

後者とすれば何をかいわんやですが、仮に前者だとすると、寅吉を責めるのはいささか酷かもしれません。火星の運河論争を思い起こせば分かる通り、どんなに訓練された天文学者であっても、自らが期待するものの影響を完全に脱することは、きわめて困難なことだからです。

(この項つづく)

明治日本のアマチュア天文家…前原寅吉翁のこと(8)2010年12月28日 18時49分17秒

彗星の尾を通して「太陽面の一部が青く見えた」という記述についてはどうでしょう?

ガス状のものが空を覆えば、届く太陽光は散乱しにくい長波長に偏り、赤味を帯びるんじゃないかとか、いや彗星のガスの成分によっては太陽光によってガスそのものが青みを帯びてもおかしくないとか、いろいろ説を立てることはできます。

しかし一番重要なのは、寅吉は白昼にサングラスを装着した望遠鏡でそれを見たと言っていることです。裸眼では(そして他の望遠鏡でも)どんなに目を凝らしても、何の変化もなかったというのに。果してそんなことがあり得るでしょうか?

   ★

そこで登場するのが、謎めいた「太陽面直接観望用眼鏡」です。鈴木氏は『野の天文学者』で以下のように書いています(pp.106‐107)。

「男の人が「前原時計店」に入ってきてたずねました。
〔…〕
「いや、わたしは東京の天文学会からきたものです」
「そうですか。それはそれは遠いところ、ご苦労さまでした」

 寅吉は、仕事台から立ち上がりました。
「あの、どのようにして、太陽の写真をとったのですかね。ふつうは太陽の写真をとることはむずかしいんですがね。いわんや、黒点など写せません」
「それはですな」
寅吉は、部屋のすみにおいてある、特別な装置を見せました。
「これであんす。これは写真館の高野直太郎さんとわたしの二人で考えて作ったものであんす」
「ほうなるほど、これですか。なるほど、なるほど」
その学者は、ていねいに見ていきます。そして、
「これは、太陽面直接観望用眼鏡ですな」
と、いいました。
「はい、そうです。やっぱり学者の方ほ、いい名前をつけるもんであんすな。その名前いただきます」

 現在、寅吉の作った「太陽面直接観望用眼鏡」は残っていませんので、どのような装置かわかりませんが、すぐれた報道写真を数多く写した高野直太郎の技術と、時計の修理をしながら、いろいろと機械をあつかっているうちに気がついた寅吉の考えとが、ひとつになってつくられたものと思われます。

 学者が帰って間もなく、寅吉は、
「日本天文学会特別会員」
 に推せんされたのでした。」

このシーンもどこまで事実に基づくのか不明ですが(多分にフィクションめいています)、「太陽面直接観望用望遠鏡」というのは、何か特殊な機構を備えた装置としてイメージされています。

しかし、「天文月報」第1巻第6号(明治41年9月)の巻末の広告欄には、寅吉がこれを10個作って、日本天文学会有志に配布を申し出たことが記されています。

「本会特別会員 前原寅吉君(青森県八ノ戸在住)より 太陽面観望用として 直接に又は双眼鏡及び望遠鏡と共に使用し得べき 便利なる眼鏡十個を送付せられ 会員中有志の人に贈与したき旨申越され候に付 希望の人は本月二十五日迄に申込まれ度候 希望者十名以上ある時は 抽籤にて配布可致候」

直接覗いてもよく、また双眼鏡や望遠鏡でも使用可の「便利なる眼鏡」というのは、単純に眼鏡型のサングラスのことではないでしょうか? 例えば、アメリカで1932年に皆既日食があったとき、下のような日食グラスが販売されましたが、似たような形状のものではなかったかと、私には想像されます。

(↑アメリカの日食観測用眼鏡2種、いずれも1932年製)

鈴木氏も、「天文月報」誌上の記述には目を留めておられて、「個人で十個も寄贈するのですから、〔…〕そんなに複雑で高価なものではないと思います」と書かれていますが(p.139)、まったく同感です。いずれにしても、肉眼では捉えられない不思議な光学現象を捕捉する精妙な装置だとはとても思えません。

(この項つづく)

明治日本のアマチュア天文家…前原寅吉翁のこと(9)2010年12月28日 18時54分55秒

結局のところ、ハレー彗星の太陽面通過の一件について、私は全否定に近い立場をとるわけですが、何度もいうように、私は寅吉翁(以下、敬意をこめて翁と呼びます)の生涯は、アマチュア天文史の中に正当に位置づけられるべきだと考えます。
しかし、あまりハレー彗星の件にこだわってしまうと、仮にそれが否定されたとき、寅吉翁の業績が一切合財すべて否定されかねません。私はそれをいちばん恐れます。

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寅吉翁は100点満点の聖人であったのか?

『野の天文学者』を読むと、真面目で、賢く、人々の不幸を憂い、平和を愛し、ユーモアにあふれ、妻には優しく…といった人物描写が続きます。

もちろんそんなはずはないでしょう。寅吉翁には真面目なところも不真面目なところもあり、賢いところも愚かなところもあったと思います。むしろ、世間の物差しから外れても平然と我が道を行った人ですから、少なからずエキセントリックな人だったと思います。虚心に見ると、その説には奇説めいたものが多い感じです。

そもそも、私は奇想や奇行の人は好きですが、聖人や偉人はあまり好きではありません。聖人でない人を聖人に祭り上げることにも反対です。愚神礼賛じゃありませんが、
人間は愚かだからこそ愛すべき存在なのではありますまいか。

あるいは、寅吉翁に奇人になってほしいという、逆バイアスが私にはかかっているのかもしれません。でも、「偉大なる奇人」としての寅吉翁に、私はどうしてもより大きな魅力を感じてしまうのです。

(この項おわり)

100年の時を超え、ハレー彗星は不思議な暗合を地上にもたらした!2010年12月28日 19時00分20秒

(↑1910年にドイツで作られたハレー彗星絵葉書。ただし復刻品)

今、何とも云えない気分です。

実はこの年末年始は少しノンビリしようと思って、記事を書きためておきました。それが「明治日本のアマチュア天文家」という連載で、我ながら力作の長文です。

書き終えてホッとしていたら、NHKで1910年のハレー彗星騒動に取材した番組を放映することを耳にしました(28日22:00~)。何だか不思議な気がしました。でも、「まさか前原寅吉のことは取り上げないだろう…」と思っていました(メジャーな人とはとても思えなかったので)。

でも、そのまさかだったのです。こういうことが世の中にはあるのです。
寅吉翁の奇才とハレー彗星の神秘が、奇怪な偶然を生んだのです。

もうチビチビ記事を小出しにしている場合ではないので、ドンと一気に掲載します。(後々の引用のしやすさを考えて、原案通り切り分けてアップします。ブログの常で、新しい記事ほど上に来るので、順序が逆になって読みにくいと思いますが、どうかご容赦ください)。

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もう一度繰り返しますが、私は寅吉翁が好きです。そして近しいものを感じます。それは、私も翁と同じくアマチュアの天文愛好家であり、なるべく自分の頭で対象を捉えようと思っているからです。

私もこれから番組を見て、自分の推測の当否をもう一度考えてみますが、皆さんのご意見もお聞きできればと思います。