明治日本のアマチュア天文家…前原寅吉翁のこと(5)2010年12月28日 18時35分55秒

問題のウィキペディアの記事にはこうあります(ハレー彗星/1910年 の項)。鈴木氏の文章と内容が重複しますが、念のため転記します。

「日本では、1910年(明治43年)、世界中の天文台が当時としては最新の機材を使って観測にあったにも拘らず、結局、確実に見たとの報告はなかった。現在の八戸市に住む、一人の天文愛好家、前原寅吉(1872年 - 1950年)がハレー彗星の太陽面通過を鮮明に観測したとして、大きくクローズアップされている。

前原寅吉は、自作の「黒色ガラス」をつけた3台の天体望遠鏡を自宅の物干し台に取り付け、観測、発表した。「5月19日、午後〔ママ〕11時20分に至り西より東に向き太陽面上段青色に変じたり。これ全く核(ガス状になった彗星の本体)の経過せしものにて午後12時17分まで見えたるも西方より白色状の状態に復したり」とあり、彗星の通過によって、そのガスがフィルターとなり、太陽面が変色する様子をはっきり捉えている。寅吉の快挙について、満州日日新聞の記事は「列国の天文台が観測に失敗し居れるに独り個人たる氏が此の大成果を収め得たるは独り氏の名誉なるのみならず日本学界の光栄たりと言うべし」絶賛している。」

一読して明らかなように、寅吉の“偉業”を取り上げたのは「満州日日新聞」ただ1紙であり、それが当時「大きくクローズアップされ」たというのは誇大です。
「世界でただ一人」とか、「立派な装備を誇った学者たちを出し抜いて」というのは、ファクトというよりは、1つのアネクドート(逸話)、つまりそういう書き方をした新聞も当時あった…という解釈にとどめるべきだと思います。

少なくとも、「世界中の天文台が準備万端、彗星の太陽面通過を待ち受けた」というのは事実ではないので、こういう書き方はフェアではありません。何せヨーロッパやアメリカでは、太陽は地平線の下だったのですから。

それにしても、何故「満州日日新聞」だったのでしょうか?
同紙は明治40(1907)年に創刊された満鉄系の新聞で、いわば国策紙ですから、国威発揚的記事は大歓迎だったでしょう。でもどういうルートで外地までニュースが流れたのでしょう?

(この項つづく)

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