明治日本のアマチュア天文家…前原寅吉翁のこと(6) ― 2010年12月28日 18時38分56秒
実は、満州日日新聞は、このハレー彗星の観測を大がかりなイベントとして計画していました。費用は全て会社持ちで、満州にハレー彗星観測隊を送ることをぶち上げ、天文界もこれに呼応し、大連に2人の研究者を送り込み、当日を待ちうけたのです(※)。
(※)以前、満鉄と天文学会の組み合わせにピンと来るものがある、と書いた(http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/12/27/5611389)のはこのことです。純粋な憶測ですが、植民地経営と天文観測という点で、両者には何か相利共生的つながりがあったのでかもしれません(イギリスの国策からの連想です)。
「天文月報」第3巻第1号(明治43年4月)の雑報欄に、そのことが出ています。
(出典:http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1910/pdf/191004.pdf よりスナップショット)
満州に渡ったのは、理科大学〔=東大理学部〕講師・早乙女清房と東京天文台助手・帆足通廣の2名。では、「その瞬間」はどうであったか?
その後7月に出た同誌(第3巻第4号 http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1910/pdf/191007.pdf)にそのレポートがあります(内容は、満州日日新聞所載の「日誌」の再録のようです)。
「◎大連のハリー彗星観測
〔…〕五月十九日は風なき晴天にして、月入の後直に彗星の尾を東天に認めたる由、其幅の最広き部分は六度に達し其長百〇五度に及べりと、尚写真は二時三十分に始め一時五分間の曝露をなせりと云ふ。
同日の太陽面経過に就ては矢張り其面上に何等の異状をも認めずと云はれたり。
尚同日夕刻は快晴なりしも、月光の跋扈の為彗星の尾を認むるを得ずと、尤も日没後の薄明が目立て橙黄色を帯びたるを見たれども、彗星と関係あるや疑はしと附記されたり。」
結局、東京と同様、大連でも何の変化も観測されなかったのです。鳴り物入りで待ち構えていた新聞社としては、ちょっと格好がつかないですね。そんなところに、もし寅吉が何かポジティブな情報を伝えたとすれば、新聞社にとってはまさに渡りに船、得たりや応と飛び付いたのではないか…というのが、この「スクープ」の陰に想定される事情です(確証はありません。想像です)。
(この項つづく)
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