クシー君と星の煙2011年01月12日 21時01分24秒

今日は「鴨沢忌」または「クシー忌」。
クシー君の生みの親、鴨沢祐仁氏が亡くなられてから3年。
昔の記事を読み返すと、1月12日は去年も一昨年も雪でした。
今日も寒気がきついです。

   ★

氏の短篇、「プラトーン・シティ」のひとこま。
(「ガロ」1975年9月号掲載、単行本『クシー君の発明』に収録)

いつものように、うさぎのレプス君と夜の街を散歩するクシー君。
シガレットをくゆらせながら、レプス君に誘われるままガラス工場の裏に行くと、そこには…!?

   ★

さて、クシー君の世界に入り込むチケットが、何とか手に入らないかな…と探し求めた末に見つけたのは、レプス君の好きな煙草の銘柄、「STAR」。



これを一本すすめれば、二人だって悪い気はしないだろうし、一晩ぐらいなら散歩のお供に加えてくれるかも。

   ★

以下、参考画像。普段あまり紹介されないであろう、裏面と底面。

専売局謹製、定価12銭也。
(ゴールデンバット然り、昔の煙草のパッケージは妙にカッコいいですね。)

               

   ★

煙草をたしなむ方は、喫煙することを戯れに「お焼香」と言ったりしますね。
私は煙草をやらないので、せめて今夜はパッケージだけでもお供えすることにします。
(鴨沢氏やクシー君には、そういうのはあまり似合わないかもしれませんが…)

賢治先生の理科準備室、のような部屋2011年01月13日 20時10分46秒

「先生」
「やあ、どうしました。そこは寒いから中に入るといい。」
「ありがとうございます。実はこんなものを拾って…何かの化石でしょうか?」
「どれ…ふーむ…君はこれをどこで見つけました。」

   ★

…というような場面が脳裏に浮かんだ上の画像。
先にご紹介したBlack-pool (http://black-pool.tumblr.com/)で見つけました。

なんだか本当のオリジンが霞むぐらい、何回も引用の連鎖を重ねた画像のようです。しつこくリンクをたどっていくと(全く同じ画像にはぶち当たらないのですが)、どうやらここは学校の一室ではなくて、個人のお宅のようです。すなわちニューヨークにある建築・インテリア総合プロデュース会社、Roman and Williams Buildings and Interiors の「作品」で、作品名は「ニューヨーク4番街のロフト」(2000年)
http://rwwork.blogspot.com/2010/02/4th-street-loft.html

上のリンク先に邸内のスライドショーが置かれているので、一度ご覧ください。
蝶の標本箱や、キッチンに置かれた球根の水栽培など、このお宅は、全体にかなり理科室趣味に侵されています。そして、いちいち洒落ています。実に心憎いです。

   ★

ところで、上の画像の右上に見えるのは、たぶん下と同じデロールの掛図(のアラビア語版)を額装したもの。
http://mononoke.asablo.jp/blog/2007/04/09/1382312

なるほど、こういうふうに飾ればいいのか…と思いつつも、でもそこだけ真似しても、全体のカラーデザインがしっかりしていないと、トンチンカンなものになりそうで、心地よい空間を作るのは、なかなか難しいものです。

星の煙をくゆらせる晩 (前編)2011年01月15日 12時29分31秒

各地で雪ですね。がんばれ受験生!

      ★    ☆    ★


いつものL’s Bar(エルズバー)のカウンターで、私はクシー君の前にカラフルな箱を並べて見せました。 「キミだったら、イギリスのSTARもお気に召すかと思って。」

クシー君は、奇妙なダブルクロスの星印に目をやると、「へえ、どれどれ」と言いながら、早速ぷかぷかやり始めました。

「うん、なかなかいいよ。特にこのネイビーパケットがね。ふーん、同じSTARでもこっちはインド製か。どうりで魔法の味がすると思った。」

クシー君は急にいたずらっぽい表情になってこちらを見ました。
「でも、この煙草。どうも初めてのような気がしないな。だって…」
クシー君はカウンターの向こうに置かれた赤い箱を取り上げて、私の前に置きました。

星の煙をくゆらせる晩 (中編)2011年01月16日 14時22分32秒

いつの間にか外は真っ白。私の町では今シーズン初めての本格的な雪です。
あとからあとから舞い飛ぶ雪を見ながら、今日は静かに過ごしています。

   ★

「ほら。」
それは古びた真っ赤なブリキ缶でした。


そこには確かに 「WILLS’s “STAR” CIGARETTES」 という文字が、鮮やかに読みとれました。

「ボクの‘マイ・ドミノ’さ。 どう、1ゲームやろうか?」
ふたを開けると、真っ黒な牌が中でカキンと、澄んだ高い音を立てました。


「よし、マティーニでも賭けるか!」
勇んで牌に手を伸ばしかけた時、どこかでかすかな排気音が聞こえてきました。

星の煙をくゆらせる晩 (後編)2011年01月17日 20時04分57秒

と、赤い缶のかげから、突然1台の小さな車が現われました。


「クシー君!迎えに来たぜ」
車の窓ごしに、クシー君とよく似た男の子が手を振っています。

「あ、イオタ君!その車、どうしたの?」
「さあね、どうしてだか知らないけど、さっきボクの部屋に現われたから乗ってきた。誰かの贈り物かな?」
「ははーん、ひょっとしてインドの魔法かもね。まあ何でもいいや、よし出かけよう。」
クシー君の体はみるみる小さくなり、次の瞬間にはもう車に乗り込んでいました。


車が走り出す間際、こちらを振り向いたクシー君は、大声で、
「そうだ、煙草をありがとう。マティーニは僕のおごりでいいよ。じゃ、また!」

呆然とする私を残し、2人を乗せた車はカウンターの向こうの闇へと消えて行きました。うさぎのバーテンダーは、やれやれという顔でドミノ缶を棚に戻し、私の前にそっとマティーニのグラスを置きました。

   ★

クシー君の夜の散歩は、こんな風にしていつまでも続くのでしょう。



【なくもがなの補足】
○「前編」で登場した3色のSTAR。いずれもWillsブランドの同じ銘柄ですが、黄色はイギリス本国、紺はインド、そして水色はバングラディシュ製です。
○「中編」のドミノ牌は既出→ http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/04/09/5007386
○1月18日付記。散らかしっぱなしは良くないので、最後の1文を加えました。

いながらにして驚異の部屋2011年01月20日 20時25分16秒

我ながら粘着質だと思いますが、小石川の驚異の部屋(東大総合博物館小石川分館)は、私にとって云わば行動規範なので(←愚か者かも)、ときどきは覗かないと落ち着きません。

で、今日ふと思いついてYouTubeを見たら、ありました。

■科学映像館 Koishikawa Annex. The University Museum 東大総合研究博物館



これでいつでも好きな時に小石川気分を味わうことができます。

うーん、それにしても投稿されてから4年近くになるのに、再生回数はまだ300回足らず。リアルの小石川の方も、いつ行っても観覧者がいないし、やっぱりマイナーはマイナーですね。

昨年暮に特別展「ファンタスマ―ケイト・ロードの標本室」をやっていたときは、またちょっと違ったかもしれませんが、現在は再び常設展に戻ったので、閑散としていることでしょう。

常設展の方も、少しずつ展示替えがあるので、今現在は映像と全く同じ展示ではないはずですが、あらましはこんな感じです。行かれたことのない方も、これで十分雰囲気は伝わることでしょう。

賢治 「星めぐりの歌」 雑感2011年01月22日 20時53分07秒

今週は公私ともに(公というのは食べるための仕事のことです)、なかなか忙しく、あまり記事が書けませんでした。ようやく一段落してホッとしていますが、今度はまた腰が痛くなり、これは暫くおとなしくしていろ、という天意なのでしょう。

   ★

今日の朝日新聞の土曜版(be on Saturday)は、宮澤賢治の「星めぐりの歌」の特集でした。「あかいめだまのさそり…」で始まる、賢治が作詞・作曲した名高い星の歌。

■YouTubeにアップされている「星めぐりの歌」の例
 http://www.youtube.com/watch?v=q0gQSKKjh9M

記事は、地元・岩手での取材を絡めて、この歌の誕生の背景を探っています(筆者は藤生京子氏。以下< >内は記事の引用)。

取材を受けられた方の年齢に注目すると、81歳、69歳、76歳、74歳…とあって、81歳の方にしろ賢治の直接の記憶はないでしょうから、賢治も遠い人になったことを改めて感じます。

で、今回の記事の流れは、そうした人々の記憶の中で、賢治の神格化が着実に進んでいることを述べる一方で、この歌には別の顔もあるよ…というのが眼目になっています。

<賢治を語らせると、控えめな人々の口調が、少しずつ、冗舌になってゆく。ただ、その歌曲の代表作に対して、最近は少し違う見方も現われている。>

それはソプラノ歌手の藍川由美さんの説で、「星めぐりの歌」の旋律は、大正時代のヒット曲「酒場の唄」(松井須磨子主演「カルメン」の劇中歌)に一部酷似していることを指摘したものです。

<「賢治が『カルメン』を劇場で見たかどうかは不明ですが、当時の流行歌の広がりは爆発的でした。『酒場の唄』に自作の詞をのせて口ずさんだと考えるのが、普通ではないでしょうか」と藍川さん。>

記事によれば、数年前にこの説が発表された時、それに怒りを覚えた賢治ファンが少なからずいたらしい。ファナティックな賢治ファンの特質を如実に示すエピソードです。ファンにとっては、何か「我が神、賢治」が冒涜されたように感じたのかもしれません。

人間には誰しも、清い部分と醜い部分、あるいは高貴な部分と下らない部分があって、もちろん賢治もその例外ではないはずです。賢治を神として崇める人は、たぶん自らの清い部分を賢治に投影しているのでしょうけれど―そしてそのこと自体別に悪くはありませんが―ただ、そうした自らの心に余りにも無自覚的な人は、ひょっとして己の悪にも気づかないのではないでしょうか。

自分の内なる聖性と魔性を共に自覚すること―人はそれによって初めて賢治の物語を「自らの物語」として読めるのだと思います。

話が脱線しました、この辺は朝日の記事とはまったく関係ない個人的感想です。まあ、「カルメン」云々の話は、単に微笑ましいエピソードに過ぎないので、こんな風に拳を突き上げるのは、滑稽かもしれませんが、酒の勢いもあって、ちょっと強く出てみました。

悲しくもあり、面白くもあり。2011年01月23日 21時34分58秒

欲しい本があって、久しぶりに本屋さん(大型新刊書店)に行きました。ひょっとしたら1年ぶりぐらいかもしれません。「本当に出版不況なのか?」と思うぐらいの本の山で、しかもいずれもなかなか面白そうです。懐が豊かだったら(そして置く場所があるなら)、ショッピングバッグいっぱいに詰め込んで帰りたかったです。

最近はほとんど本を読まないせいで、新刊情報にもうとく、何だか自分が過去に置き去りにされたような気分ですが、でも生きながらにして自ら古玩化するというのは、私の理想の生き方でもあり、それはそれで嬉しい気もします。

余生を考えたら、所詮、紙の本にしろ、電子書籍にしろ、山のように本を買ったところで、もうそんなに沢山は読めないのです。だったら、いっそのこと100年前の本をペラペラめくりながら、ボンヤリとまどろむように過ごすのもいいんじゃないか…とも思います。

   ★

さて、そんな折節、欲しかった本とは?

(この項つづく)

図鑑の森へ2011年01月25日 22時18分47秒

今更という気もしますが、最近気になるアイテムは「図鑑」です。それも、いわゆる「原色図鑑」。

世に図鑑好きの人は多いようです。その証拠に、「図鑑、好き」で検索すると、いろいろなページがヒットします。たとえば、雑誌「BRUTUS」の元副編集長、鈴木芳雄氏のブログ記事。

■子どもの頃から図鑑好きなもので…(2007年4月30日掲載)
 http://fukuhen.lammfromm.jp/?p=34

「ゴールデンウィークでもあるし、本の整理でもしようかなと思ったのだが、いざ始めると、ついつい「こんな本も持ってたのかぁ」と見たり読んだりしてまったく進まない。 今日は久しぶりに図鑑にすっかりハマってしまった。いっとき、戦前~昭和30年代くらいの図鑑を積極的に集めていた時期がある。なぜ、それらに惹かれるかというと、昭和30年代生まれの自分が子供の頃、見ていた図鑑がその時期のものだったからだろう。それと、カラー印刷も普及しだした時期でもあり、いま見ていても面白いのだ。」

上の記事には、当時の図鑑の図版も転載されていて、それと上の文章を併せ見る時、「おお!」と深くうなずかれる方も少なくないでしょう。
それにしても、ああいう図鑑はいつ生まれたのでしょうか?

   ★

…という問題意識を持ちつつ、先日、新刊本屋で買ったのが、『牧野植物図鑑の謎』(俵浩三・著、平凡社新書、1999)という本でした。ずいぶん前に出た本ですが、私はずっと知らずにいて、今回初めて読みました。


この本には、(ほぼ植物図鑑限定ですが)明治の「図鑑史」が語られていて、明治40年代に博物図鑑ブームがあったことや、それは何故か?という謎ときが書かれており、滅法面白かったです。これは類書のないユニークな本ですね。

で、さらに去年、神戸の古書店で買った『牧野富太郎―私は草木の精である』(渋谷章・著、平凡社ライブラリー、2001)も、積ン読本の山からレスキューして読みました。こちらも面白かった。


これらの本に教えられつつ、私なりに「図鑑史」をレビューしてみたいのですが、現在他に注文している本もあるので、この件はもうちょっと寝かせておこうと思います。

   ★

ところで、1つ前の記事について、出版界に身を置く某氏から丁寧なメールをいただきました。それによると、「出版不況なのに本の山ができている」というのは認識不足で、事実は「出版不況だから出版点数が増えてしまう」のだそうです。

つまり、一点あたりの販売部数が落ちているので、手を変え品を変え、たとえ中身が薄まろうとも、次々と新刊を出し続けねばならないのが実情なのだとか。その最たるものが、数年来続いている「新書ブーム」だという話で、なるほどと思いました。

見た目の活況の裏で、出版社の苦悩は深いようです。
健全な出版文化を維持するには、100年前の本を見ているだけではダメなことは確かなようですね。

木と鋳鉄とベークライト…理科室の機械モノ2011年01月26日 21時18分14秒

「小忙し」状態が尾を引いて、記事を書くのが何となく物憂いので、漫然と部屋の一角を切り取ってみました。

星とも虫とも関係のない、部屋全体の趣向からすると一寸異質な区画。でも、なんとなく格好いいような気がしなくもない。

   ★

こんな風に、古い理科室情緒を漂わせる品を少しずつ揃えてはいるのですが、なかなか本物の味わいを再現することは難しいです。その主原因は、たぶんキャビネットがないせいでしょう。キャビネットを買う金はともかく、それを置く空間を買う金がない…これはとても悲しい現実です。でも、夢だけは持ち続けたいですね(毎度いじましい話です)。