デロールがデロールだった頃2011年06月19日 08時54分49秒

flickrにすこぶる貴重な画像が投稿されているのを見つけました。
http://www.flickr.com/photos/thsnailandthecyclops/5556088035/in/set-72157626216985241/

今から四半世紀あまり前の1985年に、あるインテリア雑誌が特集したデロールの記事の全ページをスキャンしたものです。


画面操作の説明として、上の写真に赤(①)と緑(②)の矢印を書き込んだので、クリックで拡大してご覧ください。
① Prev/Nextで画像切り替え。虫眼鏡をクリック→右上のView all sizesで画像拡大。
② “World of Interiors”をクリック→右上にあるSlideshowでオートプレイ開始。

   ★

さて、この記事を見ると、ヴンダー濃度が今よりも3割増、いや5割増の感じです。

以前も書きましたが(http://mononoke.asablo.jp/blog/2009/04/15/4247034)、デロールの経営権は、1995年に某アンティークショップ・オーナーが買い取り、さらにその後、園芸用品会社に身売りされて、現在に至っています。
今のデロールは(この目で見たことはありませんが)、どうも「オシャレで奇抜な店」というか、アート色を前面に出した店づくりになっている気がします。

しかし、この1985年においては、依然として19世紀博物商の面影を色濃く残しており、今では店頭から消えたバタフライトラップ(蝶の採集用具)や、人体骨格標本や、植物採集用胴乱なんかも並んでいますし、剥製類もあまり整理が行き届かないまま雑然と積み上げられています。「そうだよ!これがデロールなんだよ!!」と、行ったこともないくせに叫びたくなるような、驚異の空間です。

しかし、上掲インテリア雑誌の記事を読むと、デロールがそれでは立ち行かなくなりつつあった1985年当時の現状が書かれています。

「デロールは、1830年に探検家のデロール氏(その名はマレーシア産のクワガタの1種に残っている)が創業し、1850年以来、現在の場所で商売を続けている。かつてのデロールは、主に学校教育関係の仕事に関わっていた。デロール氏は、甲虫類・化石・その他さまざまな自然科学の珍物を収めた15冊以上の目録を刊行し、植民地で財を成した金満家たちが持ち帰った動物を剥製にすることで、当時流行の異国趣味を満足させた。

店内には、今でも地理学者用の地図や、有毒植物や絶滅したレッド・ベリー類を詰め込んだ棚があるにはある。しかし、デロールの教育関係の仕事は先細りだし、蒐集家や裕福なアマチュアが、探検家もろとも消え失せるにつれて、その客層も変化しつつある。」

そう、時代は移ろうものなのです。
デロールの店員が語るところによれば、旧派の客も当時はまだかろうじて生き残っていました。

「お客様のうちには、とてもお年を召した、品の良い採集家がいらっしゃいます。この方は13歳の頃からずっとご来店いただいております。最初の聖餐式のときに、この方のお母様が、はじめて蚕蛾をお与えになったそうです。この方は、デロールに来るたびに永遠を感じるとおっしゃいます。何せここでは100年以上何も変わっていないのですから。」

しかし、一方では、“クリスマス・ツリーに飾るために蝶の標本を買いあさる、テキサスから来た夫婦”といった存在が幅を利かせる時代となってきました。また、デロールのお家芸である剥製作りの技術も、腕をふるう場がすっかり減って、剥製部門主任のコルペ氏もあきらめ顔…というようなことが、記事には書かれています。

まさに「時代は変わった」のです。
しかし、時代が変わったからこそ、こうやってネットで昔のデロールのことも分かるし、そこにあった珍物を、自分の部屋から一歩も出ずに買うこともできるわけで、時代の移り変わりをどう評価すべきか、簡単には答が出せそうにありません。

コメント

_ たつき ― 2011年06月19日 22時21分40秒

デロールはいいですよね。私は昔の「博物学」の香りのするデロールに行きたいです。剥製は苦手なのですが、これがあってこそでもあるとおもうので、きっと楽しめたと思います(向こうは乾燥していますしね。湿った日本だとすぐ虫がわくので、ダメなんです)。母は若いころは蝶や蜘蛛を捕まえては標本にしていた人だったのに、そこは似なかったのですね。

_ つん ― 2011年06月20日 01時11分22秒

いつも楽しく拝見しております。
デロールいいですね。以前ご紹介のあった神戸元町のヴンダーショップでデロールのラベルが売られていて、古びた感じがちょっといいなと思ったことがあります。
以下今回のテーマとは全く関係なくてすみません。
steampunk laptopというPCがあるそうなのですが、ご存知ですか。既出だったらごめんなさい。
youtubeに動画がありました。まあ、欲しいわけではありませんが。

_ 玉青 ― 2011年06月20日 22時25分48秒

○たつきさま

博物学の「香り」。湿った環境だと、剥製も文字通り匂ってきそうな感じですね。^_^;
私も剥製がそれほど好きということはないのですが、理科室ムードを出すという、何だかよく分からない理由のために、いくつか手元に置いていて、やっぱり保管には結構気を使います。

それにしても、お母上、凄いですね。
蝶はまだしも、クモの標本まで作っていたというのは、本格的な昆虫少女だったのでしょう。その嗜好が、たつきさんまで受け継がれなかったのは、かえすがえすも残念です。(笑)

○つんさま

ありがとうございます。
私も例の店の店頭で、デロールのラベルを見つけて、とても欲しかったのですが、でもその時は「売り物じゃありません」とバイト?の女の子に言われて、すごすご引き下がりました。あれはやっぱり売り物だったと知って、ちょっぴり残念です。

ご紹介の動画、見ました(初めて見ました)。関連動画も何だかスゴイですねぇ。
うーん…私も「欲しいか?」と聞かれたら、ちょっと微妙です。
ものすごい情熱で作られていることは伝わってくるですが、その熱気にむしろ引いてしまうというか…。でも、店頭で普通に売られていたら、買ってしまうかもしれません。(笑)

_ つん ― 2011年06月20日 23時16分17秒

すみません。デロールのラベルはそこそこ枚数があったので、売り物だと思っておりました。
私は確かめていませんので、玉青さまのほうが正しいと思います。

_ 玉青 ― 2011年06月21日 05時53分10秒

実は、あのデロールのラベルが売り物だというのは、後からランスハップブックのサイトで知って、「ありゃりゃ」と思ったんですよ(笑)。ちょっと文章が舌足らずで、お気を使わせてしまい、すみませんでした。
http://landschapb.exblog.jp/12984167/
今度の神戸訪問の折にまだ在庫があれば、そのときこそは…!

_ S.U ― 2011年06月21日 07時21分31秒

あぁ、このデロールは昔の理科準備室の雰囲気です。
 あまりに物事を単純化しては身も蓋も無いでしょうが、店の運命は、子どもの時の何らかの記憶からその雰囲気をなつかしいと感じる人が訪れるかどうかにかかっているような気がします。歳月がたち、なつかしむことが出来る人が老人ばかりになり、蝶の収集のみが目的の客層が中心になると、店は変わらざるを得ないのかもしれません。
 物にとって、同じなつかしさを世代を超えて人間に継承させることは、不可能ではないにしても、そうとう至難の業のようです。

_ 玉青 ― 2011年06月21日 20時46分41秒

懐かしさ一辺倒では、たしかに難しいでしょうねえ。
懐かしさにプラスして、常に何か新しい魅力を発揮し続けるものが、結果的に永らえることができるのでしょう。これは、店舗経営に限らず、あらゆる文化事象に共通することかもしれませんが…。博物趣味は、不易流行の「流行」の部分がちょっと弱かったのかもしれません。(あるいは全体がすべて流行だったのかもしれません。)

_ S.U ― 2011年06月21日 23時00分04秒

>あるいは全体がすべて流行
 これは、博物趣味は時代に追随することが運命づけられているということでしょうか。つねに新天地に付き従う必要があるのなら、確かに懐かしがってばかりもおられません。

_ 玉青 ― 2011年06月22日 22時48分57秒

博物学(博物趣味)が「ファッショナブル」なものであり得たのは、ほぼ近代の西欧に限定されると思います。それは何故か?というのは、いろいろな人が論じているでしょうし、実際どこかで読んだような気もしますが、あまり思い出せません。たぶん、植民地経営と海外の文物の流入とか、啓蒙主義の高揚とか、国民教育の普及とか、顕微鏡の進化とか、いろいろ複合的な要因があるのでしょう。で、天文古玩的にはここで博物趣味の盛衰と、天文趣味のそれとを対比させて、何か一席ぶちたいのですが、ちょっと準備が足りません。でも、いずれは考えてみたいテーマです。

_ S.U ― 2011年06月23日 07時28分58秒

昨夜のNHKテレビ「歴史秘話ヒストリア」は平賀源内でした。彼は、国益をリードするため博物の振興をはじめましたが、めざした実用にはならず民衆は見せ物として一時的に騒いだのみ、で彼は落魄の身になった、ということでした。これを、宣伝の天才源内でさえ博物学を「ファッショナブル」に出来なかったと見れば、確かにかなり敷居が高いようです。

_ 玉青 ― 2011年06月23日 21時40分37秒

自分が上で書いたことの有力な反証が、近世の日本の状況で、日本の博物趣味は、民衆レベルとまではいかなくても、かなり面的広がりがありましたね。

博物趣味流行の原因を植民地経営に求めるというのは、たぶん西欧の学者からすると常識なのでしょうが、日本の状況をちょっと考えただけでも、それが必須条件とはいえないことが分かります。では、博物趣味隆盛の真の要因はなんだったのか? すぐに答は出ないにしても、このことは日本に住む者として、よくよく考えてみたいです。

それにしても、源内は惜しかったですねえ。
この点について、私はS.Uさんとは一寸ちがった印象を持っていて、私はむしろ日本で博物趣味が流行する可能性は(結果的にそうはなりませんでしたが)大いにあったんじゃないかと思います。それは全国津々浦々で見られた俳諧運座の流行などからそう考えるのですが、当時の日本では士農工商を超えて、文化交流を楽しむサロン的雰囲気がかなりありましたね。ある意味、それは「時代のムード」そのものですから、極論すれば、交流の素材は、俳諧でも、狂歌でも、園芸でも、国学思想でも、あるいは本草学でも、実は何でも良かったのだと思います。

英国で職工などの労働者階級が博物趣味(植物採集や昆虫採集など)にのめりこんだのも、実はそうした趣味的活動が、社会的紐帯を強化する機能を持っていたためで、その意味では日本の俳諧趣味とパラレルな活動と見なせるかもしれません。

思うに、日本で博物趣味が普及する上で決定的に足りなかったのは、適切な手引書と、「博物道師範」のような金看板ではなかったでしょうか(日本では何故か金看板がないと根付かないという宿命があるようです)。

…うーん、酔っぱらって書いているので、何だか話が千鳥足です。
もうちょっと真面目に考えてみたいのですが、でも、しらふで考えたからと言って、酔っぱらっているときよりもいい知恵が浮かぶわけでもない、というのが大いに遺憾です。。。

_ S.U ― 2011年06月24日 07時34分29秒

日本に博物学の広がりがどの程度あったか、その解明は「天文古玩」さんのテーマのひとつとして今後、酔いつつ覚めつつ論陣を張っていただくことに期待いたします。

 私も、おっしゃるように、源内没後に博物趣味は一定の広がりを見せ、さらに発展する可能性もあったと思います。蘭学への興味と地方物産の振興がパラレルに走って士農工商が参加したということで、源内の遺志はある程度引き継がれたと見ます。(前の私のコメントは、源内が悲劇の天才であったというNHK番組の基調に基づくものですが、どちらも真実でしょう)

 俳諧とともに絵画も注目だと思います。日本では世界レベルの大家が動植物画を書いていて、若冲、応挙は源内と同時代人ですが、NHK番組によると源内と鈴木春信が多色刷りの錦絵を始めたということなので、源内は北斎以降の普及に橋渡ししたといえるのかもしれません。風景画の大流行とお伊勢参りなど旅行の流行はこの方向のポジティブな結果と言えると思います。もう少で庶民への博物普及まで進んだかもしれないのに、手引き書が出なかったということは、「時代のムード」がだんだん優雅でない方向に変わってきたということではないかと思います。

_ 玉青 ― 2011年06月24日 21時08分18秒

酔論にお付き合いいただき、ありがとうございます。
酔論だけに、結局日本では博物趣味が流行ったのか、流行らなかったのか、判然としない文になりましたが、巧みにフォローしていただき助かりました。

>「時代のムード」がだんだん優雅でない方向に変わってきた

結局その辺が大きかったのかもしれませんね。
確かに博物学の種は肥沃な土壌に播かれた。しかし、水や日光が足りなかったために、花を着ける前に立ち枯れてしまった…。

話の前段の「種」と「土壌」の何たるかについては、これから天文古玩的にフラフラ妄想を深めていきたいと思います。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック