『ケプラーの憂鬱』 の憂鬱2011年07月10日 19時29分19秒



(↑原著ペーパーバック。アマゾンで見ると、最新のエディションはもっと大人しいデザインになりましたが、以前はこんなオドロオドロシイ表紙だったらしい。果してブックデザイナーは、本の内容を理解していたのか?)

そういえば、『ケプラーの憂鬱』の全体構成には、作者のジョン・バンヴィルが、ある秘密を仕掛けていて、「それはまた次回」と書いたのを忘れていました。

その秘密は、高橋和久氏の「訳者あとがき」で知ったのですが、バンヴィル自身があるインタビューで、次のように種明かしをしているそうです。

 「私の最新作『ケプラーの憂鬱』は五部から成っていて、各部の節の数は〔…中略…〕五つの正多面体の数に呼応しており、各部内の節の長さはそれぞれ等しくなっています。また…各部の時間はその部の中ごろのある一点から、もしくはその一点へ向かって、前進したり逆行したりして、一種の時間の軌道を形成します。しかしどの部もきちんとは出発点に戻ってきません。なぜなら、ケプラーが発見したように、惑星は円ではなく楕円を描いて運行しているからです。こんなことを試みるのは狂気じみて見えるかもしれません。無害ではあるが、ばかばかしいと。私としても、その試みを完全に正当化することはできません、合理的には。ただ私には、芸術にとって大切なのはこれ、つまり形式だと思われるのです。」

どういうことかと言うと、ケプラーの多面体宇宙モデルは、惑星軌道に接するように、外側から6面体、4面体、12面体、20面体、8面体がはめ込まれているのですが、『ケプラーの憂鬱』 はこれに対応して、第1部「宇宙の神秘」は全6節、第2部「新天文学」は全4節、第3部「屈折光学」は全12節…という具合に構成されていて、しかも各部における時間経過は単純に過去から未来に流れるのではなく、行きつ戻りつしながら、円環的にストーリーが進むという、非常に複雑な構造になっているのです。

これはバンヴィルの形式至上主義のなせる業であり、また、各章節の長さに正多面体の面数を反映させるというのは、ケプラー自身がその著 『世界の調和』 で試みたプランなので、『ケプラーの憂鬱』 は、この点でバンヴィルがケプラーに捧げたリスペクト作品になっているというわけです。

しかし、正直なところ「何でそんなご苦労なことを…」と思わなくもありません。こうして書いているだけで、なんだか暑さが増す感じです。それに、時間進行が行ったり来たりというのも、素朴な読者にとっては、はなはだ読みにくい。
こういう緻密な作品は、秋から冬にかけて、精神が内向きになっているときに読むといいのではないかと思いました。(ちょうどストーリーも、冬のシーンで始まり、冬のシーンで終ります。)