惜別2011年08月02日 21時39分17秒

「天文古玩」の行く手に黒いものが見える。
老婆が、しわがれ声でそう囁いた…。

   ★

5年余りも続ければ、いい加減ブログの寿命も尽きるのが普通だと思います。

そもそも、ブログという器自体、今では「古い革袋」なのかもしれません。
既にトラックバックという行為が消えて久しく、コメント機能も多くのブログで閉じられつつあります。要は時代に合わないということでしょう。

他者からの応答性を最大化することで、人々の「つながり欲求」をうまく掬い上げたツイッターにも凋落の兆しが見えますし、ネットは(というか、ネットを仲立ちとした人々の関係は)これからどういう方向に向かうのか?まあ、進化か退化かは分かりませんが、いずれにしても変化は続くのでしょうけれど…。

   ★

天文古玩的なモノを楽しむことと、ネット上で情報発信することの間に、もともと必然的な結びつきはありませんでした。ブログという形式は、単に同好の士と出会う可能性を高めるための、1つの仕掛け以上のものではなかったわけで、それが十分機能しなくなったとなれば、ブログを続ける理由はないなあ…という思いが、この頃ときどき頭をよぎります。

これは「天文古玩」に限らず、テーマを絞ったブログを開設されている多くの方に共通する思いだと思いますが、どうでしょう?

エイ、エイ、オー!2011年08月05日 20時46分16秒

何か元気の出るものはないか?
それもネットではなく、自分の目と足を使って見つけたい…。

そんな思いを抱いて、街をフラフラ歩いていたら、ショーケースの中の不思議なものと目が合いました。


大人が掌を広げたほどの、小さなエイの剥製です。
「うむ、怪魚の背にまたがり、月光の海に乗り出すなんて、真夏の夜の夢に至極ふさわしいじゃないか!」と、そのまま家に連れて帰ることにしました。


 月の光 星の光 水の光。
 魚の歌 風の歌 波の歌。

一瓢を携え、エイの背に寝転んだまま海中に分け入る自分を夢想して、しばしボーっとしたのですが、でも、このエイはアマゾン原産の淡水エイ(学名 Potamotrygon motoro)なので、実際に万里の波頭を超えて行くのは、ちょっと難しそうです。

夏休みは理科室へ…理科室の怪談(その1)2011年08月06日 17時36分17秒


(↑「学校の怪談」予告編(1995)。
「学校の怪談って観終わった後なぜか寂しいような切ないような気持ちになってた~ もう10数年前の話ですけど^^夏休みの終わりって感じがします」という、YouTubeに寄せられたコメントがいいと思いました。)


夏深し。朝の通勤時に生垣のそばを通ると、懐かしい夏の匂いがします。
ラジオ体操の行き帰りに嗅いだのも、ちょうどこんな匂いでした。
来週8日は立秋で、その翌週はお盆。そうなると子どもたちは、ぼちぼち夏休みの残りが気になって来るころでしょう。

この季節は、理科室趣味の徒にとっても、そぞろ懐旧の情を催す時で、理科室情緒を求めて、いろいろ空想にふけったりします。

   ★

今宵は季節柄、理科室の怪談について考えてみたいと思います。

理科室には、気色悪い人体模型(※)やビン詰め標本があったり、ガラスの実験器具や薬品が魔術めいたムードを発散させていたりして、もともと子どもたちにとっては剣呑な雰囲気があるので、怪談の舞台としては絶好のように思えます。

しかし、現実に流布している学校の怪談話の中で、理科室の役割は意外なほど軽いです。

たとえば、映画「学校の怪談」シリーズの原作(というよりタネ本)となった、常光徹氏の『学校の怪談』(角川ソフィア文庫、平成14)や、あるいは松谷みよ子氏の労作、「現代民話考」の1冊である、『学校― 笑いと怪談、子供たちの銃後・学童疎開・学徒動員』(立風書房、1987)を見ても、学校の怪談の舞台として断トツに多いのは「トイレ」、次いでピアノ、階段、体育館、時計、鏡、肖像画などにまつわるもので、理科室はどちらかといえば「その他大勢」的な地位に甘んじています。

怪談というのは「何となく不安を掻き立てる」場所に発生しやすく、理科室のように「あからさまに怪しい」ところには、むしろ発生しにくいのかもしれません。

とはいえ、理科室にまつわる怪談も複数報告されているので、「理科室民俗学」(今作った用語です)の材料として以下に転記し、簡単に考察を加えてみます。

(文章が長いので、ここで記事を割ります。以下、明日につづく)


(※) 私は人体模型を気色悪いとは思いませんし、むしろ愛らしいと思いますが、多くの生徒が恐がるという事実は当局も無視できなかったようで、文部省が著した 『改訂版・新しい特別教室』 (昭和36、光風出版)という本を見ると、「人体模型および骨格模型ケース」は、「生徒が不快の感を起さないよう、ガラス戸の内面からカーテンを引いてお」きなさいという注意事項が書かれています(p.65)。

これは当局自身が、「不快な存在」のお墨付きを与えたに等しく、人体模型がちょっとかわいそうですね。それに、下手に隠すともっと怖いんじゃないでしょうか。本来であれば、そうした不快の感を超克し、人体生理に知的興味を抱かしむるのが理科教育だと思うんですが…。まあ、余談です。

夏休みは理科室へ…理科室の怪談(その2)2011年08月07日 15時58分51秒


(背景は、武田信夫氏の写真集『懐かしの木造校舎』‐作品社、1992‐より)

昨日のつづきです。
以下、青字は常光・松谷両氏の前掲書からの引用です。

事例1
「三 のっぺらぽう・一つ目・お岩さん
 昭和十三年、三年生の頃の話。古い校舎の二階に標本室があり、人体標本などのあるうす暗い部屋の前から中二階の教室(畳敷)があり、数段の階段があった。そこに行くと、うす暗くなった頃に妙齢の娘が出て、顔はノッベラポウだといった。何でも学校の裏手の家の娘で、そこで死んだという話を聞いたことがあった。すぐそばに便所があり、廊下からみると階段の上にその部屋の天井が見えていて、変な中二階であったことが噂を作ったのかも知れず、担任もそこへ行くものでないといっていたのは、その場所が補習科(高等科)の女の人の裁縫の部屋だったからかも知れぬ。 山形県・武田正/文」
(松谷p.203)

理科室(標本室)が登場する、古い時代の怪談の例です。
ただし、直接理科室にまつわる怪談というよりは、階段・便所とともに、不気味なムードを醸し出す舞台装置として、理科室が利用されているにすぎません(戦前のいたずら坊主どもも、理科標本には相当ビビっていたようですね)。まだ「理科室の怪談」と呼ぶには未完成で、ノッペラボウというのが、むしろ江戸以来の怪談話との連続性を感じさせます。

■事例2
「五 工事事故のたたり
 当校の卒業生である先生に聞く。現在勤めている学校。昭和十年完成。二階建の新校舎を建てる時(以前墓地)すでに大方仕上がり二階部分の壁ぬり作業になった。足場を組んで外回りをぬっている時、一人の職人があやまって足をすべらせ地面に落ちてしまった。そのため、死亡してしまった。その後工事は進み、校舎は仕上った。しかし、その後、日が経つにつれ、理科室の壁面に怪奇な現象が起こるようになった。準備室の戸棚の陰の部分に大人の手の跡が現れるということだ。夕方下校時や雨もようのうすぐらい日などに起こるという。ちょうどその壁の裏側から職人が落ちたということだ。今はその校舎もこわされ、近代的な新校舎になった。 群馬県・山本茂/文」
(松谷p.35)

これまた戦前に遡る古風な因縁話。
理科室が正式な舞台として登場していますが、「出る」のは工事中に死んだ左官職人の手の跡ですから、いわゆる「理科室の怪談」― つまり、理科室という空間の特殊性と結びついた怪談とも言い難い。理科室独自の怪談が生まれるまでには、いろいろなプロトタイプがあったことが想像されます。

■事例3
「宿直の怪・その一
 兵庫県小野市のある学校に入り、初めての宿直の夜のこと、宿直室の隣りの理科室でコツコツという足音がする。怖いもの見たさに木刀をさげて、理科室の前へいった。と、女の人のすすり泣きが聞えてきた。なかをあけると声はやみ、懐中電燈の光の中に骸骨が立っていた。次の朝、用務員さんにいうと、ああそのことかと簡単にいった。昔、理科室で女の人が心臓麻痺で死んだ。それで先生方は泊りの夜、一番に理科室の前へ行って、今夜静かにしといてや、いうて拝むのや。そしたら何にもないんやで、といわれた。その理科室はのちに神主さんがおはらいをし、坊さんにお経をあげてもらって女の人の魂をなぐさめた。それからは何もおこらない。雨の夜になると思い出す。 兵庫県・玉井義明/文」
(松谷p.169)

これは時代が不明ですが、教員が宿直に当たっていた頃ですから、たぶん昭和20~30年代の話でしょう(文部省が教員の宿直廃止を省議決定したのは昭和42年)。この頃に至って、理科室の怪談の「型」が徐々に定まってきたのではないでしょうか。

過渡期ゆえか、上の話では女の人がなぜ理科室で心臓麻痺を起したのか、そこに納得のいく説明がありません。例えば、「女の人が理科実験の失敗で死亡し、その遺体が骨格標本にされて、夜な夜な泣くのだ」とでもすれば、怪談のプロットとして一応首尾が整いますが、上のストーリーは、そうした意味で怪談としてまだまだ進化途上という気がします。

上のリライトはちょっと後段がグロテスクですが、しかし理科室の怪談は確かにそういう方向性を持って進化したらしく、常光氏の本には次のような例が見えます。

■事例4
「姉の通っている私立高校で、昔四階の音楽室から女の人が飛び降り自殺をした。その死んだ女性の顔の四分の一を標本にして理科室に保存しておいた。ところが、それ以来、夕方理科室の鍵をかけておいても、朝になると不思議に開いているという (女子・中学一年になって高一の姉から聞く)」 (常光p34:常光氏が1985年に都内の中学校で採録)

全くありえない設定ですが、話者の心意としては、話のリアリズムを犠牲にしてでも、生理的な気味悪さを強調したかったのでしょう。ホラー映画がスプラッタームービー化した時代の産物でしょうか。女生徒たちも存外それを喜んでいたみたいですね。

(この項、さらにつづく)

夏休みは理科室へ…理科室の怪談(その3)2011年08月08日 20時40分56秒


(↑理科器材メーカーの広告。昭和30年)

時代を少し戻って、以下は再び昭和30年代の怪談です。
長いですが、全文引用します(途中の1行空けは引用者)。

■事例5
「魂のおとずれ・その一

 長野県の千曲川ぞいにある埴科郡戸倉町の中学に、姉の息子が勤めていて、昭和三十一年の秋の夕方、電話をかけてきました。
「叔母さん、今夜花火見にこないかね」
「そうね、ここからは.バスもあるし、いこうか」

 というわけで、戸倉町へやってきました。待ちくたびれていた甥と連れだって外へ出ましたが、今夜は黒山の人だかりで、押しあい、へしあい、とうとう花火も踊りもあきらめて、「学校へでもよって帰るとするか」ということになり、裏道をぬけて中学の庭にきました。

学校は静かでした。たまに花火やお宮のおはやしの音が遠いところからきこえます。
「あそこがね、ほら二階のまん中辺。あそこがクラスの教室で…」
 といいかけてやめたので、わたしはそのまん中辺を見ました。橙色と緑色を合せたような美しい色の火の玉がおりてきて、すいーっと尾をひいてまた屋根の上に上っていくではありませんか。またおりてきて今度は水平にゆらり、ゆらりと波打って、すいーっと教室の窓の中へ入ってしまいました。見ていた甥は、
「あそこは理科室だ。叔母さん先に帰っててくれないか」
 というなり宿直室めがけて駆けだしました。火の玉はそれっきり出てきませんでした。

 その夜おそく帰った甥はこんな話をするのでした。
「あれから宿直の人と一緒に理科室へいってみたのだけれど、火の玉はいなかった。二人ともやたら寒くて、ぶるぶる、ふるえて懐中電燈だけ頼りに室内を見てまわったのだけれど、最後に教壇の協にある、夏休み中の生徒の作品を見た時、ギョッとして息がとまりそうだった。というのは、そこに青白く光っているのはA君の夏休み中の作品で昆虫標本だったのだが、A君は夏休み中の或る日、千曲川で溺れたのだよ。十日目ごとの夏休み登校日にその作品を持ってきた時のA君は得意気で、誰にもさわらせなかった。それを『おいA君、ちょっとの間貸しとけよ、学校中の先生に見てもらいたいし、君だってその方がいいだろ』っていうと恨めしそうに、父ちゃんと三日がかりで作ったのだもの、とぐずぐずいうのを、いいじゃないか、な、な、と、あまりの蝶の美しさについひかれて説き伏せてしまった。それから三日後にA君は死んだんだ」
暗然とした甥は、大きなため息をしました。

 次の日、早速標本を丁寧に布に包んでA君の家を訪れ、仏前に供え、心から詫びたと申しますが、A君のお母さんは、
「あれはお祭りが好きでやしてな、きっとお祭りを見に来たついでに、標本を見に寄ったんでやしょ、気にしないでおくんなしゃ」
 と淋しく笑ったそうです。 長野県・多田ちとせ/文」
(松谷pp.143‐45)

良い話です。恐いというよりは、哀切な話ですね。科白まで詳細に書かれていますが、もちろん全てが実話ではないでしょう。(と私は睨んでいます。)
理科室、蝶の標本、水死した中学生、祭りの晩、母の嘆き…そうした素材を、古典的な怪談の筋立てを使って、実に印象深くまとめています。蝶は伝統的に亡き魂の象徴でもあるので、その辺も効いています。

   ★

さて、以下はより新しい時代の怪談です。

■事例6
「神奈川県川崎市のある中学校。昭和五十年頃の話。理科の○○先生は数年前に亡くなったが、その後、夜中の理科室にぼうっと明りがともり、○○先生が片手にフラスコ、片手に試験管を持ち、笑いながら立っているのだといいます。理科室にかけられた時計は、○○先生が寄贈されたものだそうです。僕が小学校六年の夏の夜、盆踊りの帰りに兄の友人から、その学校の門の前で聞いた話です。 回答者・加地仁(神奈川県在住)。」 (松谷pp.165‐66)

マッドサイエンティスト風の幽霊ですね。何となく、アメリカンコミックの影響を感じます。この幽霊には間違いなく足があるので、じめっとした旧来の幽霊と一線を画しているのは確かです。

■事例7
「学校によっては、ホルマリン漬のカエルが鳴きだすとか、夕方一人で理科室にいるとガイコツの模型がうしろから肩に手をかけて「ねえ、背くらべしようよ」と話しかけてくるなどという。」 (常光p.42:話者については説明なし)

この話は、昨日の「顔面4分の1標本」の話の説明として出てくるので、やはり1980年代の採録かと思います。ここまで来ると、すっかり「平成風・理科室の怪談」となっています。

(この項つづく。次回は全体考察編です。)

夏休みは理科室へ…理科室の怪談(その4)2011年08月09日 21時01分00秒


(↑液浸標本戸棚。 近畿教育研究所連盟編、『理科教育における施設・設備・自作教具・校外指導の手引』‐昭和39年‐より)

ここまでのところを、もう1度まとめて、怪談の場所、出現する怪異、それにまつわる因縁譚、不気味さを演出する理科室アイテムを書き抜いてみます。

<戦前>
○事例1
場所…標本室の前に続く中2階の教室、
怪異…ノッペラボウの娘
因縁譚…学校の裏の娘がそこで死んだ
理科室アイテム…人体標本

○事例2
場所…理科室
怪異…壁面に現われる大人の手の跡
因縁譚…校舎建築時にその壁の裏から左官職人が転落死。校舎は昔墓地だった。
理科室アイテム…特になし

<昭和20~30年代>
○事例3
場所…理科室
怪異…女のすすり泣き
因縁譚…昔、理科室で女が心臓麻痺で死んだ
理科室アイテム…骸骨

○事例5
場所…理科室
怪異…理科室に入る火の玉を目撃
因縁譚…夏休みに水死した生徒の作った標本が理科室にあった
理科室アイテム…蝶の標本

<昭和50年代以降>
○事例4
場所…理科室
怪異…夜の間に部屋の鍵が開く
因縁譚…音楽室から飛び降りた女性の顔を標本にして理科室に保管。
理科室アイテム…女の顔の標本

○事例6
場所…理科室
怪異…数年前に死んだ理科の先生が夜中に出現
因縁譚…(先生の寄贈した時計が理科室にかかっている)
理科室アイテム…先生が手にしたフラスコ、試験管

○事例7
場所…理科室
怪異…ホルマリン漬けのカエルが鳴き出す、ガイコツの模型が話しかけてくる
因縁譚…特になし
理科室アイテム…ホルマリン漬けのカエル、ガイコツの模型

   ★  ★

ごく少数のサンプルから大胆に推測してみます。
初期には、理科室周辺で不慮の死を遂げた死者の霊が怪異の主役だったのに、だんだん理科室に置かれたアイテムそのものが恐怖の対象となり(事例6の「理科の先生」も理科室に付属する存在であり、一種のアイテムと言えるのではないでしょうか)、それと並行して、因縁譚の希薄化傾向が見られます。いわば、心理的恐怖から即物的恐怖への転化が生じているわけです。

「え、理科室の怪談?夜中に人体模型が動き出すという、あれでしょ?」と、今では当然のように考えられていますが、実は、それはここ3~40年ぐらいの話ではあるまいか…というのが、現時点における私の推測です。

「理科室の怪談」の内実が、昭和40年代以降、変質を遂げた理由は、容易に想像できます。それは、昭和30年代を通じて、理科室そのものが各学校に普及し、同時に理科室備品も大幅に増加したからに違いありません。
当り前の話ですが、理科室も人体模型もなければ、それにまつわる怪談の生まれようがありません。(昭和33年当時、まだ全国の6割の小学校には理科室がありませんでした(注1)。また、文部省が定めた「理科室設備基準」の充足率は、昭和29年にはわずか15%で、それが70%に達したのは、ようやく昭和40年のことです(注2)。)

さらに、学校文化・学校民俗は、その参加者の意識としては、1校だけで完結しているように思えても、実は周辺校も含めて面的な広がりがないと成り立たず、理科室の怪談の場合も、地域全体に理科室が普及し、充実化が図られて初めて成立したのだ…ということも、仮説として述べておきたいと思います。

つまり、怪談というのは本質的に「語りの文化」ですから、例えば「友達のお姉さん」とか、「塾で知り合った隣の学校の奴」とかを含む、広範な語りのネットワークの中で、「ああ、分かる、分かる」と、共感的に受け止められて、初めて意味なり力なりを持ちうるので、市内の先進校にポンと理科室ができたからといって、それだけですぐ理科室の怪談が生まれるわけでもないのでしょう。

   ★

ところで、私自身のことをふり返ると、小中高を通じて、母校にまつわる怪談や七不思議を聞いた記憶がなくて、なんだか寂しい学校生活でした。私も「語りのネットワーク」とやらに参加して、きゃーきゃー言ってみたかった…。


(注1 戦後の理科室について
http://mononoke.asablo.jp/blog/2007/12/10/2501818
(注2 魅惑の理科準備室(付・理科室の昭和30年代)
http://mononoke.asablo.jp/blog/2011/06/03/5895570

暑い!!!2011年08月10日 22時14分00秒


白クマもイラついています。

本気で怒ってますよ。

フランスのポピュラーサイエンス誌『フランスの科学 La Science Française』(1892年11月24日号)より。

― 残暑お見舞い申し上げます。―

思いは極地へ2011年08月12日 20時20分01秒

夕べは帰路、地下鉄の階段を上がる途中から、太鼓の音が聞こえてきて、「ああ、今夜は盆踊りだったな…」と気付きました。
会場は例年に変わらず、なかなかの賑わいでしたが、今年は特に「魂祭りの踊り」という原義がしみじみと思い出されました。

   ★

特定の本の、特定の一節が気に入って、そこだけ繰り返し読むことを私はよくします。夏になると決まって開くのが、アン・ファディマンという人の読書エッセイ、『本の愉しみ、書棚の悩み』(相原真理子訳、草思社、2004)の、「趣味の棚」という文章です。


ファディマンさん曰く、だれの書庫にも、趣味の棚ともいうべきものがあるはずだとかねがね思っている。なるほど、然り。そして、わたしの趣味の棚には、極地探検に関する六十四冊の本がならんでいる。ほほう。

著者は、酷寒の地への思いを、熱く縷々と綴ります。
白一色の世界。寒々しく地味なミニマリズムの光景。
なぜという理由はない。とにかく記憶にある限り夏より冬、『シンデレラ』よりも『雪の女王』、ギリシャ神話より北欧神話のほうが好きだったのだと、著者は言い放ちます。

極地への思いとともに、ファディマンさんが愛するのは、「高潔な失敗」にたおれたイギリス人探検家の生き様です。ロス、フランクリン、ネアズ、シャクルトン、そしてアムンゼンとの競争に敗れた、かのスコット大佐。徹底的に紳士で、まじめで、不器用で、同時に楽天的だったヴィクトリア朝の男たち。

「わたしは、捜索隊が見つけたスコットのそりの積荷のことを読むたびに、さらに胸がつまる。それはグロッソプテリス(絶滅したソテツ状シダ)の葉と茎の化石が入った古生代後期の石で、重さは全部で十六キロあった。スコットは身軽に旅をするために、食料をぎりぎりまで切りつめたのに、これらの石は捨てなかった。もし捨てていたら、彼と隊員たちは最後の十二マイルを歩ききることができたかもしれない。」

「自分の趣味の棚のなかで、いちばん愛着のあるものは何かときかれたら、それらの地質学標本について書かれた部分と答えるだろう。〔…〕何かに殉じるなら、自分の命を何にささげるのかを慎重にきめなければいけないという教訓を、わたしはこれらの本から得た。人は祖国や信仰、民族などのために命を投げだすのがふつうだ。それを考えると、十六キロ分の石とそれが象徴する失われた世界のために死ぬのも、そう悪くはないと思えるのだ。」

極地は白く、冷たく、何もない。
何もないゆえにドラマが生まれ、はげしく心惹かれる人が絶えないのでしょう。
しかし、あくまでもそれは少数派です。
多くの人にとって、極地はやっぱり白く、冷たく、何もないところであり、それ以上のものではありません。

「わたしの趣味は孤独なものだ。カクテルパーティーで話題にするわけにはいかない。ときどき、人生の大半をついやして、もはやだれも話すことのできない死語を学んできたような気がする。」

「天文古玩」という死物を相手にする身として、こんな一節にも深い共感を覚えるのでした。

空白の大陸、南極2011年08月13日 17時09分54秒

ファディマンさんの思いに共感したからといって、極地探検記を何十冊も買い込んで読みふける気力はありません。でも、その影響で南極の古い地図を買いました。


写真は1907年、ニューヨークの出版社から出た、元は百科事典の付図として刷られたもの。幅30センチの小ぶりな紙面に、当時の南極の情報が詰め込まれています。


オセアニア↑からも、南米からも、アフリカ↓からも、ウネウネと赤い線が南極に向けて伸びています。


言うまでもなく、過去の名だたる探検家たちの遠征ルートです。


人名にまじって“Challenger”、“Belgica”とあるのは船の名前。
前者は英国海軍の軍艦チャレンジャー号で、ネアズ艦長率いる世界一周海洋観測隊が乗り込み、その途中南極にも立ち寄りました。後者はベルギー人、ド・ジェルラシュを隊長とする多国籍探検隊の乗ったベルジカ号。若き日のアムンゼンもその一行に加わっていました。

多くの探検家たちが、南極を征服しようと意気盛んでしたが、南極大陸の形すら依然あいまいなまま、広大な空白がこの地球上に広がっていたことが、この地図を見るとよく分かります。今からほんの100年前まで、地球は人類にとってまだまだドデカイ存在だったわけです。


この1907年の時点で、南極点にいちばん迫っていたのはイギリスのスコット隊で、1902年12月29日、南緯82°17'の地点まで到達していました。

スコットはその後1912年1月17日、2回目の南極探検で、ついに南極点に立ちますが、南極点初到達の栄誉をノルウェーのアムンゼンに奪われ、失意のうちに氷原で帰らぬ人となりました。その積荷にあった植物化石が、100年近く経って一人のアメリカ人女性の心をはげしく打った…というのが、昨日の記事。

そういえば、今年は人類の南極点到達100周年なんですね。
身近なところでは、スコットが南極点に立った日の前日、1912年1月16日は、白瀬中尉が日本人として初めて南極大陸に上陸した日でもあるので、今年の暮れから正月にかけて、何か南極にちなむ企画がメディアを賑わすかもしれませんね。

空白の大陸、南極(その2)2011年08月14日 10時35分13秒

南極探検の雄、白瀬矗(しらせのぶ;1861- 1946)のことを昨日チラと書きました。
その生年を見えると、今年は生誕150周年に当たるのですね。となると、南極探検は彼が50歳のときの壮挙であり、これまたびっくりです。当時の50歳は、今の70歳にも相当すると思いますが、そんな人が大英帝国の精鋭スコット隊の向こうを張って、想像を絶する酷寒の南極大陸に挑もうというのですから、当時の人は「口あんぐり」だったでしょう。

白瀬中尉のことは、ウィキペディア↓で読んだだけなので、詳しくは知りません。
しかし、その臨終について、「次女が間借りしていた魚料理の仕出屋の一室で死去。死因は栄養失調による餓死(または腸閉塞)」とあるのに言葉を失いました。氏は最初から暖衣飽食することは念頭になかったでしょうが、豪傑の最期としてはいかにも無念。

白瀬中尉といい、50歳を過ぎてから天文暦学を学び、全国測量の旅に出た伊能忠敬といい、そんな人々の生き方が気になる年齢に私もなってきました。

   ★

さて、南極地図の続編。

(↑斜めに射しているのブラインド越しの陽光)

上は昨日とほぼ同時期、1904年にドイツのライプツィヒで出版された地図です。
昨日の地図に比べてタテ・ヨコ倍の大型サイズですが、しかし大判だからといって、情報量はぜんぜん増えません。ブランクが空しく広がっているだけです。


 
海岸線がところどころ途切れがちに確定されていますが、あとは真っ白。


地図には、それまでの南極アプローチの記録が詳しく書き込まれています。
1950~60年代の月球儀が、米ソの人工天体の着陸・衝突地点を盛んに記載していたのを思い出します。当時の南極は、まさにミッドセンチュリー期の月に相当するような、遠く遥かな場所だったのでしょう。