ジョバンニが見た世界「時計屋編」(7)…宝石を乗せて回る硝子盤(第2夜)2011年11月30日 21時13分20秒

賢治が宝石屋になりたいと考えたのは、大正7年(1918)の暮れから翌年にかけてのことです。彼はこの時22歳で、盛岡高等農林(現・岩手大学農学部)を卒業し、さらに研究生という身分で学生生活を続けていました。

この年の12月、東京で学ぶ妹・トシが病で倒れ、賢治は祖母とそもに、その看病のために上京します。このときの東京生活は、大正8年(1919)3月に、トシが退院するまで続きましたが、学校卒業後の進路選択で煩悶していた賢治にとって、東京で見聞きしたものは心を大いに揺さぶったらしく、その中で浮上したのが「人造宝石の製造販売業の立ち上げ」という、ちょっと怪しげな計画でした。

この件について、板谷栄城氏の『宮澤賢治 宝石の図誌』(平凡社、1994)から、孫引きと受け売りをさせていただきます。

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師走の街をブラブラする賢治の目を捉えたのは、神田小川町にあった水晶堂と金石舎の2軒でした(今も水晶堂ビル、金石舎ビルとして残っています)。
これらの店は、宝石や貴石の原石の販売・卸を手がける原石屋でしたが、賢治はここで「石を売る」というアイデアに魅了され、岩手産の蛋白石や瑪瑙をこれらの店に卸したら、商売として十分成り立つのではないかと夢想します(賢治自身は真剣で、郷里の父に石の手配を依頼する手紙を書いています)。

(金石舎の鉱物標本セットのラベル。昭和10年代?)

(同セット中で唯一岩手県産の標本。仙人鉱山の雲母鉄鉱)

(蛋白石は福島県・宝坂産)

さらにこのアイデアは、本格的な宝石商への夢として発展していきます。

大正8年1月に父親に宛てた手紙では、

「色々鉱物合成の事を調べ候処 殆んど工場と云ふものなく 実験室といふ大さにて仕事には充分なる事、設備は電気炉一箇位のものにて 別段の資本を要せぬこと、東京には場所は元より 場末にても間口一間半位の宝石の小店たくさんにありて いづれにせよ商売の立たぬ事はなきこと」

云々と、父親を説得するため、盛んに弁を振るっています。

その後も、賢治は頻々と手紙を書き送って、父親を口説きます。

「私の目的とする仕事は宝石の人造に御座候。〔…〕私は之を研究実験し営利的にも製造する様に相成度と存じ候。」
「人造の宝石を人造の名に於て(模造には非ず)売るもの故 同義上決して疾しからざるのみか 宝石の人造は有名の化学者も多く研究し、〔…〕鉱物の合成は実用的にも大なる意義あるものに候。」

そして商売としては一層手広く、「飾石宝石原鉱買入及探究」、「飾石宝石研磨小器具製造」、「金属部を買入れてネクタイピン、カフスボタン、髪飾等の製造」、「鍍金」、「飾石宝石改造」を手掛けたいと大風呂敷を広げます。
(繰り返しますが、賢治自身は真剣でした。ちなみに最後の「宝石改造」というのは、「黄水晶を黒水晶より造る。瑪瑙に縞を入る。真珠の光りを失へるを発せしむ、下等琥珀を良品に変ず」といった「まがい仕事」で、いささか賢治らしくないものです。)

結局、賢治のこの思いつきは父親の容れるところとならず、彼はしょんぼり花巻に帰ってきたのですが、私には、宝石屋の店先に憧れの視線を向けた若き日の賢治と、時計屋をじっとのぞき込むジョバンニの姿とが、ダブって感じられます。

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ところで「モノ」のレベルに返って、ここに並んでいる宝石の種類は何でしょう?
文中には何も書かれていませんが、それを解く手がかりが「夢仮説」です。つまり、「銀河鉄道の旅は、ジョバンニが見た一場の夢であり、そこに展開する光景は、彼が現実世界で経験したことの変形である」という考え方。

銀河鉄道そのものが、カンパネルラの家で遊んだアルコールで走るおもちゃの汽車のメタモルフォシスであることは、言うまでもありません(←ちょっと強引)。また車中で手にした「黒曜石でできた銀河の地図」が、時計屋の店先に飾ってあった黒い星座早見盤の変形であろうことも既に述べました(http://mononoke.asablo.jp/blog/2011/11/04/6187712)。

この夢仮説に従えば、銀河の旅に登場する宝石が、すなわち時計屋に飾られていた宝石だということになります(少なくともその一部は)。
そういう目で見ると、たしかに銀河旅行の記述には、たくさんの宝石が出てきます。

(長くなるので、ここで一息入れます。)