ジョバンニが見た世界「時計屋編」(7)…宝石を乗せて回る硝子盤(第2夜) ― 2011年11月30日 21時13分20秒
賢治が宝石屋になりたいと考えたのは、大正7年(1918)の暮れから翌年にかけてのことです。彼はこの時22歳で、盛岡高等農林(現・岩手大学農学部)を卒業し、さらに研究生という身分で学生生活を続けていました。
この年の12月、東京で学ぶ妹・トシが病で倒れ、賢治は祖母とそもに、その看病のために上京します。このときの東京生活は、大正8年(1919)3月に、トシが退院するまで続きましたが、学校卒業後の進路選択で煩悶していた賢治にとって、東京で見聞きしたものは心を大いに揺さぶったらしく、その中で浮上したのが「人造宝石の製造販売業の立ち上げ」という、ちょっと怪しげな計画でした。
この件について、板谷栄城氏の『宮澤賢治 宝石の図誌』(平凡社、1994)から、孫引きと受け売りをさせていただきます。
★
師走の街をブラブラする賢治の目を捉えたのは、神田小川町にあった水晶堂と金石舎の2軒でした(今も水晶堂ビル、金石舎ビルとして残っています)。
これらの店は、宝石や貴石の原石の販売・卸を手がける原石屋でしたが、賢治はここで「石を売る」というアイデアに魅了され、岩手産の蛋白石や瑪瑙をこれらの店に卸したら、商売として十分成り立つのではないかと夢想します(賢治自身は真剣で、郷里の父に石の手配を依頼する手紙を書いています)。
(金石舎の鉱物標本セットのラベル。昭和10年代?)
(同セット中で唯一岩手県産の標本。仙人鉱山の雲母鉄鉱)
(蛋白石は福島県・宝坂産)
さらにこのアイデアは、本格的な宝石商への夢として発展していきます。
大正8年1月に父親に宛てた手紙では、
「色々鉱物合成の事を調べ候処 殆んど工場と云ふものなく 実験室といふ大さにて仕事には充分なる事、設備は電気炉一箇位のものにて 別段の資本を要せぬこと、東京には場所は元より 場末にても間口一間半位の宝石の小店たくさんにありて いづれにせよ商売の立たぬ事はなきこと」
云々と、父親を説得するため、盛んに弁を振るっています。
その後も、賢治は頻々と手紙を書き送って、父親を口説きます。
「私の目的とする仕事は宝石の人造に御座候。〔…〕私は之を研究実験し営利的にも製造する様に相成度と存じ候。」
「人造の宝石を人造の名に於て(模造には非ず)売るもの故 同義上決して疾しからざるのみか 宝石の人造は有名の化学者も多く研究し、〔…〕鉱物の合成は実用的にも大なる意義あるものに候。」
そして商売としては一層手広く、「飾石宝石原鉱買入及探究」、「飾石宝石研磨小器具製造」、「金属部を買入れてネクタイピン、カフスボタン、髪飾等の製造」、「鍍金」、「飾石宝石改造」を手掛けたいと大風呂敷を広げます。
(繰り返しますが、賢治自身は真剣でした。ちなみに最後の「宝石改造」というのは、「黄水晶を黒水晶より造る。瑪瑙に縞を入る。真珠の光りを失へるを発せしむ、下等琥珀を良品に変ず」といった「まがい仕事」で、いささか賢治らしくないものです。)
結局、賢治のこの思いつきは父親の容れるところとならず、彼はしょんぼり花巻に帰ってきたのですが、私には、宝石屋の店先に憧れの視線を向けた若き日の賢治と、時計屋をじっとのぞき込むジョバンニの姿とが、ダブって感じられます。
★
ところで「モノ」のレベルに返って、ここに並んでいる宝石の種類は何でしょう?
文中には何も書かれていませんが、それを解く手がかりが「夢仮説」です。つまり、「銀河鉄道の旅は、ジョバンニが見た一場の夢であり、そこに展開する光景は、彼が現実世界で経験したことの変形である」という考え方。
銀河鉄道そのものが、カンパネルラの家で遊んだアルコールで走るおもちゃの汽車のメタモルフォシスであることは、言うまでもありません(←ちょっと強引)。また車中で手にした「黒曜石でできた銀河の地図」が、時計屋の店先に飾ってあった黒い星座早見盤の変形であろうことも既に述べました(http://mononoke.asablo.jp/blog/2011/11/04/6187712)。
この夢仮説に従えば、銀河の旅に登場する宝石が、すなわち時計屋に飾られていた宝石だということになります(少なくともその一部は)。
そういう目で見ると、たしかに銀河旅行の記述には、たくさんの宝石が出てきます。
(長くなるので、ここで一息入れます。)
コメント
_ S.U ― 2011年12月01日 21時07分20秒
_ 玉青 ― 2011年12月02日 23時21分35秒
賢治の伝記の中には、その辺をつっこんで書いてあるのもあると思いますが、今ぱっと出てきません。
「質屋 歴史」といったワードで検索すると、どうも宝石・貴金属の類が質種としてメジャーになったのは、都市部でも戦後のことのようです。
質草の中身は、時代と客層によって規定されるのでしょうが、賢治の父の場合、明治時代の花巻近在の庶民が相手ですから、おそらくは鍋釜や衣類のような日用品が主で、高額な品といっても、没落士族等の所有にかかる書画骨董の類、さらには牛馬、土地・家屋といったものではないかと想像するのですが、どんなものでしょうか。
(とはいえ、まれまれ持ち込まれることも無いとは言えず、相応の知識はあったかもしれません。)
「質屋 歴史」といったワードで検索すると、どうも宝石・貴金属の類が質種としてメジャーになったのは、都市部でも戦後のことのようです。
質草の中身は、時代と客層によって規定されるのでしょうが、賢治の父の場合、明治時代の花巻近在の庶民が相手ですから、おそらくは鍋釜や衣類のような日用品が主で、高額な品といっても、没落士族等の所有にかかる書画骨董の類、さらには牛馬、土地・家屋といったものではないかと想像するのですが、どんなものでしょうか。
(とはいえ、まれまれ持ち込まれることも無いとは言えず、相応の知識はあったかもしれません。)
_ S,U ― 2011年12月03日 08時04分01秒
お調べありがとうございます。
なるほど、地方で宝石が質屋にやってくるには、地方出身者に富裕層が現れる→都会で宝石が流行る→地方から出てきた人が宝石が買う→宝石を買った家が零落する→地方の質屋が宝石の値踏みができるようになる、とざっとこれだけの手順を踏まねばならず、これには最低でも20年くらいはかかりそうですから、おっしゃる状況ならそれほど一般的ではなかったでしょうね。でも、賢治が父に商売について説明し支援を頼んでいるということは、家業と関連する点もあった可能性もあると思います。
賢治は父親と家業のことで対立することがあったといわれていますが、対立の理由は、父親が尋常でないやり方をしていたのか、そうではなく賢治が主観的に質屋業を相続するのがいやだったのか、私は知らないのですが、そのへんは研究があるのでしょうね。
なるほど、地方で宝石が質屋にやってくるには、地方出身者に富裕層が現れる→都会で宝石が流行る→地方から出てきた人が宝石が買う→宝石を買った家が零落する→地方の質屋が宝石の値踏みができるようになる、とざっとこれだけの手順を踏まねばならず、これには最低でも20年くらいはかかりそうですから、おっしゃる状況ならそれほど一般的ではなかったでしょうね。でも、賢治が父に商売について説明し支援を頼んでいるということは、家業と関連する点もあった可能性もあると思います。
賢治は父親と家業のことで対立することがあったといわれていますが、対立の理由は、父親が尋常でないやり方をしていたのか、そうではなく賢治が主観的に質屋業を相続するのがいやだったのか、私は知らないのですが、そのへんは研究があるのでしょうね。
_ 玉青 ― 2011年12月03日 10時15分15秒
私も詳しくは知らないのですが、賢治の父はおよそ「守銭奴」的な人ではなくて、浄土真宗の信仰に厚い篤実な人であったという評価がありますね。
上の記事で、賢治が「人造宝石の販売は決して同義にもとるものではありません」と、必死に言い訳をしているのは、それに先立って父親から、「お前のやろうとしていることは、偽物作りのやましい仕事ではないのか」となじられたのに答えて、こう書いているのでは?という趣旨のことを、上掲書の著者・板谷氏は述べていますが、おそらくはそうなのでしょう。
まあ、あまり賢治のお父さんを聖人君子に祭り上げて、それと賢治の人生を絡めて解釈するのもどうかと思いますが、まずはまっとうな商道徳を心得た人と見てよいのでしょう。
賢治が家業を嫌ったのは、思想的な煩悶もあったかもしれませんが、その根っこには、田舎の質屋の帳場でくすぶっているよりも、何かもっとハイカラなことをしたいという、賢治の新し物好きの気象もあったんじゃないかなあ…と思いますが、これまた単なる憶測です。
上の記事で、賢治が「人造宝石の販売は決して同義にもとるものではありません」と、必死に言い訳をしているのは、それに先立って父親から、「お前のやろうとしていることは、偽物作りのやましい仕事ではないのか」となじられたのに答えて、こう書いているのでは?という趣旨のことを、上掲書の著者・板谷氏は述べていますが、おそらくはそうなのでしょう。
まあ、あまり賢治のお父さんを聖人君子に祭り上げて、それと賢治の人生を絡めて解釈するのもどうかと思いますが、まずはまっとうな商道徳を心得た人と見てよいのでしょう。
賢治が家業を嫌ったのは、思想的な煩悶もあったかもしれませんが、その根っこには、田舎の質屋の帳場でくすぶっているよりも、何かもっとハイカラなことをしたいという、賢治の新し物好きの気象もあったんじゃないかなあ…と思いますが、これまた単なる憶測です。
_ S.U ― 2011年12月03日 16時41分34秒
賢治のお父さんがまっとうの人であるならば、この父子の対立は、非常に平ったく言えば、賢治が父親に心配をかけるタイプの子どもであった(あるいは父親が息子を心配するタイプであった)と言うことだったのではないかと思います。
ところで、私は、「宮沢賢治の天文普及活動」について、いまだに気にしています。でも、文学の世界(思想の世界も含めて)で出てくる天文について論じているものは山ほどあるのですが、彼がリアルの天文学の講義をしたとか科学的内容の解説書を書いたとかいう資料は見つけていません。そういう観点でもし引っかかるものを見つけられたらぜひぜひ教えて下さい。
ところで、私は、「宮沢賢治の天文普及活動」について、いまだに気にしています。でも、文学の世界(思想の世界も含めて)で出てくる天文について論じているものは山ほどあるのですが、彼がリアルの天文学の講義をしたとか科学的内容の解説書を書いたとかいう資料は見つけていません。そういう観点でもし引っかかるものを見つけられたらぜひぜひ教えて下さい。
_ 玉青 ― 2011年12月05日 21時19分29秒
諸氏の天文普及活動、足穂編につづき賢治編ですね。
また何か新知見が得られたら素晴らしいですね!
この件、私は草下英明さんの『宮澤賢治と星』に書かれている以上のことは知りません。以下はその受け売り+αです。S.Uさんも御承知のことばかりでしょうが、情報整理のために書いてみます。
教師時代の賢治の担当科目は、英語・代数・化学・気象・作物・土壌・肥料・実習で(マルチな先生ですね)、その「気象」の中で、おそらく太陽黒点の話題について触れたであろうことは、羅須地人協会時代の例のお手製の教材から想像されます。それ以外の天文の話題については、賢治自身、天文に関しては趣味の範囲を超える知識はなかったので、公的に授業で教えることはなかったように思います。
ただ、花巻農学校の教員時代(大正10年代)は、賢治の天文知識のバックボーンとなった、吉田源治郎の『肉眼に見える星の研究』(大正11年刊)が出た時期とも重なり、しきりに星を仰いだ中学時代に続き、彼の天文熱が俄然再燃した時期ですから、プライベートではなかなか饒舌に語ったようです。(そういう時期は、往々にして人にも教えたがりますから。)
草下氏の本で引用されているのは、① 佐藤隆房著『宮澤賢治』(冨山房、昭和17)に書かれた、大正10年のエピソード(当直中の小学教員を賢治が訪ねて、校庭でしきりに星の名を指し示しながら、「あの蝎座というのは数々の星座のうちの傑作ですよ」云々と語り、さらに翌日、星座早見をその先生に進呈したというもの。ただし、これは花巻農学校就任直前の話です)と、② 翌大正11年9月に農学校の生徒たちと岩手山に上り、そこで星座について一くさり語ったというエピソードです。
後者の情景は、『春と修羅』中の「東岩手火山」に描かれているそうなので、さっそく見てみると、次のような感じの語り口。星座の位置を教える内容で、あまり宇宙論には踏み込んでいません。
「さうさう 北はこつちです/北斗七星は/いま山の下の方に落ちてゐますが/北斗星はあれです/それは小熊座といふ/あの七つの中なのです/それから向ふに/縦に三つならんだ星が見えませう/下には斜めに房が下つたやうになり/右と左とには/赤と青と大きな星がありませう/あれはオリオンです オライオンです/あの房の下のあたりに/星雲があるといふのです/いま見えません/その下のは大犬のアルフア/冬の晩いちばん光つて目立つやつです/夏の蝎とうら表です」
草下氏の本に戻ると、このときのこととして、賢治の教え子である小田邦雄氏が『宮澤賢治覚え書』(弘学社、昭和18)で書いている次の一節が引用されています。
「この名称(銀河ステーション)は岩手登山に皆で先生に連れられて行った時、種々星の話、天の河の話など先生がされて居った。自分等も勝手な想像や、その時々の感じをおしゃべりしたもんだ。その時小田島治衛君だったと思ふ。「先生、天の河の光る星、停車場にすればいいナッス」そうしたら先生は喜ばれた様に「さうだ。面白いナッス」と言はれた。さうして皆で天の河ステーションなんてふざけさわいだもんだ。」
これは銀河鉄道誕生のエピソードとして有名ですが、ここで賢治が天の川について、どんな話をしたのかは気になりますね。上の詩の語り口は、「午後の授業」の先生の口吻とそっくりですが、その内容もまた似ていたのだろうか?と、期待したくなります。
さて、草下氏は以上を総括して、「恐らく賢治はこの登山のときうばかりでなく、ことある毎に夜空の星を指して、友人や生徒達に教えていたものと想像される。しかもその教え方も賢治独特の比喩や表現が添えられて、それを受け取る側の反応などから奇抜な着想を得るという効果も考えていたらしい。」と述べています(p.27)。これがいわば賢治の天文普及活動なのでしょう。
(なお、天文解説書の類を賢治が書いた話は聞きませんが、自分の手控えとして天文知識の筆録ぐらいはしていたかもしれませんね。)
また何か新知見が得られたら素晴らしいですね!
この件、私は草下英明さんの『宮澤賢治と星』に書かれている以上のことは知りません。以下はその受け売り+αです。S.Uさんも御承知のことばかりでしょうが、情報整理のために書いてみます。
教師時代の賢治の担当科目は、英語・代数・化学・気象・作物・土壌・肥料・実習で(マルチな先生ですね)、その「気象」の中で、おそらく太陽黒点の話題について触れたであろうことは、羅須地人協会時代の例のお手製の教材から想像されます。それ以外の天文の話題については、賢治自身、天文に関しては趣味の範囲を超える知識はなかったので、公的に授業で教えることはなかったように思います。
ただ、花巻農学校の教員時代(大正10年代)は、賢治の天文知識のバックボーンとなった、吉田源治郎の『肉眼に見える星の研究』(大正11年刊)が出た時期とも重なり、しきりに星を仰いだ中学時代に続き、彼の天文熱が俄然再燃した時期ですから、プライベートではなかなか饒舌に語ったようです。(そういう時期は、往々にして人にも教えたがりますから。)
草下氏の本で引用されているのは、① 佐藤隆房著『宮澤賢治』(冨山房、昭和17)に書かれた、大正10年のエピソード(当直中の小学教員を賢治が訪ねて、校庭でしきりに星の名を指し示しながら、「あの蝎座というのは数々の星座のうちの傑作ですよ」云々と語り、さらに翌日、星座早見をその先生に進呈したというもの。ただし、これは花巻農学校就任直前の話です)と、② 翌大正11年9月に農学校の生徒たちと岩手山に上り、そこで星座について一くさり語ったというエピソードです。
後者の情景は、『春と修羅』中の「東岩手火山」に描かれているそうなので、さっそく見てみると、次のような感じの語り口。星座の位置を教える内容で、あまり宇宙論には踏み込んでいません。
「さうさう 北はこつちです/北斗七星は/いま山の下の方に落ちてゐますが/北斗星はあれです/それは小熊座といふ/あの七つの中なのです/それから向ふに/縦に三つならんだ星が見えませう/下には斜めに房が下つたやうになり/右と左とには/赤と青と大きな星がありませう/あれはオリオンです オライオンです/あの房の下のあたりに/星雲があるといふのです/いま見えません/その下のは大犬のアルフア/冬の晩いちばん光つて目立つやつです/夏の蝎とうら表です」
草下氏の本に戻ると、このときのこととして、賢治の教え子である小田邦雄氏が『宮澤賢治覚え書』(弘学社、昭和18)で書いている次の一節が引用されています。
「この名称(銀河ステーション)は岩手登山に皆で先生に連れられて行った時、種々星の話、天の河の話など先生がされて居った。自分等も勝手な想像や、その時々の感じをおしゃべりしたもんだ。その時小田島治衛君だったと思ふ。「先生、天の河の光る星、停車場にすればいいナッス」そうしたら先生は喜ばれた様に「さうだ。面白いナッス」と言はれた。さうして皆で天の河ステーションなんてふざけさわいだもんだ。」
これは銀河鉄道誕生のエピソードとして有名ですが、ここで賢治が天の川について、どんな話をしたのかは気になりますね。上の詩の語り口は、「午後の授業」の先生の口吻とそっくりですが、その内容もまた似ていたのだろうか?と、期待したくなります。
さて、草下氏は以上を総括して、「恐らく賢治はこの登山のときうばかりでなく、ことある毎に夜空の星を指して、友人や生徒達に教えていたものと想像される。しかもその教え方も賢治独特の比喩や表現が添えられて、それを受け取る側の反応などから奇抜な着想を得るという効果も考えていたらしい。」と述べています(p.27)。これがいわば賢治の天文普及活動なのでしょう。
(なお、天文解説書の類を賢治が書いた話は聞きませんが、自分の手控えとして天文知識の筆録ぐらいはしていたかもしれませんね。)
_ S.U ― 2011年12月06日 08時06分55秒
おぉ、詳細な情報ありがとうございます。
草下氏の本は未見ですので、今度見てみます。似たような題の章が『星の文学・美術』にもあったと思いますので、こちらも再読してみます(内容や分量は違うのでしょうか)。
友人?と雑談として星座の話をしたということですね。その方向は気がつきませんでした。また、詩の内容からすると、生徒に校外実習?で教えたのも星座についてですね。星座早見を進呈したというのは注目すべきエピソードだと思います。「銀河鉄道の夜」や「双子の星」のような複数の星座の繋がりのようなものに着眼があったことがわかります。
しかし、言い方が悪いかもしれませんが、星座の雑談くらいは、夜に外で会合をすれば、一般の人でも語り合う程度のことですので、賢治ですから、もう少し踏み込んだものがあるのでは、と期待してしまいます。私は、教え子の証言を中心に扱った畑山博『教師 宮沢賢治のしごと』を読んでみたのですが、授業で天文の話をしたという内容は見つけられませんでした。引っかかるのが少ないのがちょっと意外です。
でも、それが無いとすれば、それはそれで意味のある情報なのでしょう。賢治と足穂を比べてみた時、賢治のほうがずっと天文普及のネタがありそうなのに、それが逆のように見えます。ちょっとどう説明して良いのかわかりません。
草下氏の本は未見ですので、今度見てみます。似たような題の章が『星の文学・美術』にもあったと思いますので、こちらも再読してみます(内容や分量は違うのでしょうか)。
友人?と雑談として星座の話をしたということですね。その方向は気がつきませんでした。また、詩の内容からすると、生徒に校外実習?で教えたのも星座についてですね。星座早見を進呈したというのは注目すべきエピソードだと思います。「銀河鉄道の夜」や「双子の星」のような複数の星座の繋がりのようなものに着眼があったことがわかります。
しかし、言い方が悪いかもしれませんが、星座の雑談くらいは、夜に外で会合をすれば、一般の人でも語り合う程度のことですので、賢治ですから、もう少し踏み込んだものがあるのでは、と期待してしまいます。私は、教え子の証言を中心に扱った畑山博『教師 宮沢賢治のしごと』を読んでみたのですが、授業で天文の話をしたという内容は見つけられませんでした。引っかかるのが少ないのがちょっと意外です。
でも、それが無いとすれば、それはそれで意味のある情報なのでしょう。賢治と足穂を比べてみた時、賢治のほうがずっと天文普及のネタがありそうなのに、それが逆のように見えます。ちょっとどう説明して良いのかわかりません。
_ S.U ― 2011年12月06日 19時23分23秒
自己レス>『星の文学・美術』にもあった
これは記憶違いで、宮沢賢治の文学については少し載っていましたが、これに関したことは載っていませんでした。
話はずれますが、宝石に喩えられる星、というので、「ガーネット・スター」(ケフェウス座μ星)というのを思い出して、調べてみたら、これは、ウィリアム・ハーシェルによる命名だということです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC
これについては、日本ハーシェル協会で研究がありますでしょうか?
これは記憶違いで、宮沢賢治の文学については少し載っていましたが、これに関したことは載っていませんでした。
話はずれますが、宝石に喩えられる星、というので、「ガーネット・スター」(ケフェウス座μ星)というのを思い出して、調べてみたら、これは、ウィリアム・ハーシェルによる命名だということです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC
これについては、日本ハーシェル協会で研究がありますでしょうか?
_ 玉青 ― 2011年12月06日 21時34分42秒
足穂は日本天文学史から非ユークリッド幾何学まで何でもござれで、貪欲に天文知識を摂取し、ラジオには出るは、成書をものするは、戦後はロゴス自由大学の天文部主任(でしたっけ?)の肩書きまで名乗ったぐらいですから、その知識は「途中をすっ飛ばした」偏頗な面はあったにせよ、偏頗なりにセミプロ級のレベルには達していたのでしょう。(でも、一方には野狐禅の自覚もあって、抱影の前ではしおらしく振舞っていました。)
いっぽう賢治の天文知識は、あえて言えば「熱心な入門者」のレベルを出ることはなかったように思うので、仮に両雄相まみえたとしても、話はかみ合わなかったんじゃないかなあ…という気がします。(知識以前に、関西人と東北人のふたりは、きっと会話の呼吸が合わなかったでしょう。)
+
ときにハーシェルのガーネット・スターについてですが、協会の方で見た記憶はありません。これについては、ぜひS.Uさんに謎解きをしていただければと思います。
英語版のウィキ(http://en.wikipedia.org/wiki/Mu_Cephei)を見ると、ハーシェルは「ガーネットのような色をしている」と言っただけで、「ガーネット・スター(Garnet sidus)」と命名したのは、ピアッツィのような書き方がしてありますし、そもそも、ハーシェルがいつどこでこの星に触れているのか、はっきりしません。ウィキには一応アレンの『Star -Names』(1899)が挙がっていて、同書を見ると確かに「ハーシェルはこう言った」みたいなことが書かれていますが、同書には出典がありません。
それとウィキには、下の文献が原論文のような格好で引用されてますが、このリファレンスの付け方も、なんだかよく分からなくて、そもそも1783年には王立天文学会はまだありませんし、ハーシェルの論文集を見ても、この題名の論文が見つかりません。
Herschel, W. (1783). Stars newly come to be visible. the Royal Astronomical Society of London. 257.
なんだか狐につままれたようです。
いっぽう賢治の天文知識は、あえて言えば「熱心な入門者」のレベルを出ることはなかったように思うので、仮に両雄相まみえたとしても、話はかみ合わなかったんじゃないかなあ…という気がします。(知識以前に、関西人と東北人のふたりは、きっと会話の呼吸が合わなかったでしょう。)
+
ときにハーシェルのガーネット・スターについてですが、協会の方で見た記憶はありません。これについては、ぜひS.Uさんに謎解きをしていただければと思います。
英語版のウィキ(http://en.wikipedia.org/wiki/Mu_Cephei)を見ると、ハーシェルは「ガーネットのような色をしている」と言っただけで、「ガーネット・スター(Garnet sidus)」と命名したのは、ピアッツィのような書き方がしてありますし、そもそも、ハーシェルがいつどこでこの星に触れているのか、はっきりしません。ウィキには一応アレンの『Star -Names』(1899)が挙がっていて、同書を見ると確かに「ハーシェルはこう言った」みたいなことが書かれていますが、同書には出典がありません。
それとウィキには、下の文献が原論文のような格好で引用されてますが、このリファレンスの付け方も、なんだかよく分からなくて、そもそも1783年には王立天文学会はまだありませんし、ハーシェルの論文集を見ても、この題名の論文が見つかりません。
Herschel, W. (1783). Stars newly come to be visible. the Royal Astronomical Society of London. 257.
なんだか狐につままれたようです。
_ S.U ― 2011年12月06日 22時32分18秒
うーん。賢治と足穂の天文普及活動は深そうで、なかなか深層までは踏み込めそうにありません。一応、二人とも「作家」ですので、文学からも解いてみたい気もしますが、解ける見込みがあるものかどうかもわかりません。
もういっぽうのガーネット・スターについては、AAVSOの変光星解説にかなり詳しい記述がありました。
http://www.aavso.org/vsots_mucep
ハーシェルが「ガーネットのような色」と書いたのを受けて、別人が「ハーシェルのガーネット・スター」と呼ぶようになったと書いてあります。また、論文は、Philosophical transactions of the Royal Astronomical Society of London (1783),
にあるとなっていますが、書名で検索すると、Philosophical transactions of the Royal Society of Londonの間違いみたいです。
もういっぽうのガーネット・スターについては、AAVSOの変光星解説にかなり詳しい記述がありました。
http://www.aavso.org/vsots_mucep
ハーシェルが「ガーネットのような色」と書いたのを受けて、別人が「ハーシェルのガーネット・スター」と呼ぶようになったと書いてあります。また、論文は、Philosophical transactions of the Royal Astronomical Society of London (1783),
にあるとなっていますが、書名で検索すると、Philosophical transactions of the Royal Society of Londonの間違いみたいです。
_ 玉青 ― 2011年12月06日 23時01分20秒
あ、ありがとうございます。おかげで謎が解けました。
原論文のタイトルは、
On the proper Motion of the Sun and Solar System; with an Account of several Changes that have happened among the fixed Stars since the Time of Mr. FLAMSTEED.
で、掲載は
Phil. Trans.. vol. lxxiii., 1783, pp.247-283
でした。その中に設けられた小節のタイトルが 「Stars newly come to visible.」というわけで、やっぱり上のウィキの引用の仕方は、かなりよろしくないです。
ちなみに関連部分の全文は以下の通りです。
A very considerable star, not marked by FLAMSTEED, will be found near the head of Cepheus. Its right ascension in time, is about 2' 19'' preceeding FLAMSTEED'S 10th Cephi, and it is about 2°20' 3'' more south than the same star. It is of a very fine deep garnet colour, such as the periodical star οCeti was formerly, and a most beautiful object, especially if we look for some time at a white star before we turn our telescope to it, such as αCephei, which is near at hand.
(この話題、協会掲示板の方が良かったですね。)
原論文のタイトルは、
On the proper Motion of the Sun and Solar System; with an Account of several Changes that have happened among the fixed Stars since the Time of Mr. FLAMSTEED.
で、掲載は
Phil. Trans.. vol. lxxiii., 1783, pp.247-283
でした。その中に設けられた小節のタイトルが 「Stars newly come to visible.」というわけで、やっぱり上のウィキの引用の仕方は、かなりよろしくないです。
ちなみに関連部分の全文は以下の通りです。
A very considerable star, not marked by FLAMSTEED, will be found near the head of Cepheus. Its right ascension in time, is about 2' 19'' preceeding FLAMSTEED'S 10th Cephi, and it is about 2°20' 3'' more south than the same star. It is of a very fine deep garnet colour, such as the periodical star οCeti was formerly, and a most beautiful object, especially if we look for some time at a white star before we turn our telescope to it, such as αCephei, which is near at hand.
(この話題、協会掲示板の方が良かったですね。)
_ 玉青 ― 2011年12月06日 23時09分19秒
あ、ごめんなさい。AAVSOのページを読む前にコメントを書いたので、内容が一部かぶってしまいました。失礼しました。
_ S.U ― 2011年12月07日 07時13分03秒
コメントありがとうございます。
AAVSOの引用もよろしくありませんが(これがWikipedia英語版の元かもしれません)、ページナンバーは合っていたのですね。歴史的内容が詳しいのはさすが創立100周年の老舗団体です。
せっかくですから、適当なタイミングで協会掲示板にもコピーしておきたいと思います。
AAVSOの引用もよろしくありませんが(これがWikipedia英語版の元かもしれません)、ページナンバーは合っていたのですね。歴史的内容が詳しいのはさすが創立100周年の老舗団体です。
せっかくですから、適当なタイミングで協会掲示板にもコピーしておきたいと思います。
_ 玉青 ― 2011年12月07日 22時38分34秒
ええ、どうぞよろしくお願いいたします。
_ S.U ― 2011年12月09日 22時13分16秒
先ほど、日本ハーシェル協会の掲示板に投稿しました。また、ご確認下さればありがたいです。勝手な要約をさせていただきました。補足修正等ありましたらよろしくお願いいたします。また、新事実があれば、今度はハーシェル協会のほうに書き込みます。
_ Bay Flam ― 2012年04月30日 02時46分30秒
お久しぶりです。"Garnet Sidus" をキーワードにしてネット検索していたところ、こちらのエントリが見つかりました。半年ほど前のことなので、既に旧聞に属することになりますが……。
『ウィキペディア英語版』の "Mu Cephei" の項目において「ガーネット・スター」について加筆したのは、何を隠そう私だったりします。
・"Mu Cephei" @en:Wikipedia edited by Bay Flam, revision as of 22:44, 31 January 2009 (UTC)
http://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Mu_Cephei&oldid=267713891
(編集差分は↓)
http://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Mu_Cephei&diff=267713891&oldid=267518176
なお、この件に関しては、私のウェブ・ログでも触れています。
・【第1夜】 Garnet Sidus
http://urano-research.txt-nifty.com/uranog/2009/04/garnet-sidus.html
で、玉青さんから書誌情報について「そもそも1783年には王立天文学会はまだありません」「上のウィキの引用の仕方は、かなりよろしくない」と鋭いツッコミをいれられておりましたが、ネタ元は S.U さんご推察の通り AAVSO の当該ページでした。そのため、"the Royal Society of London" を "the Royal Astronomical Society of London" と誤っておりました。
この「ハーシェルがケフェウス座μ星を『ガーネット・スター』と命名した」というのは、天文ギョーカイに流布している“沢山存在する”都市伝説の一つです。その実相は……
1) ハーシェルが「ガーネット・スター」と命名したわけではない
2) ハーシェルはケフェウス座μ星の色合いについて "garnet" と表現しただけ
3) 固有名を命名したのはピアッツィ
4) ただし、Garnet Star ではなく Garnet sidus
5) 19世紀から20世紀初頭まではそれがほぼ常識的に記述されていた(フラマリオン、スミス提督、ウェッブなど)
6) それがなぜか完全に忘れ去られた
7) Garnet Star の言い出しっぺはアレンらしい
8) アレンはハーシェルが命名したとは言っていない(「ハーシェルで有名」(Sir William Herschel's celebrated ...) とは言っているが、「初出はピアッツィ」(so entered by Piazzi) としている)
9) ハーシェルの言及からすると、この場合の garnet は鉱物名の「柘榴石」のことではなく色名の「ガーネット(深紅色)」のことである
といったところでしょうか。私はこの中で 6) に至ったジジョーにひどく興味をおぼえます。
『ウィキペディア英語版』の "Mu Cephei" の項目において「ガーネット・スター」について加筆したのは、何を隠そう私だったりします。
・"Mu Cephei" @en:Wikipedia edited by Bay Flam, revision as of 22:44, 31 January 2009 (UTC)
http://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Mu_Cephei&oldid=267713891
(編集差分は↓)
http://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Mu_Cephei&diff=267713891&oldid=267518176
なお、この件に関しては、私のウェブ・ログでも触れています。
・【第1夜】 Garnet Sidus
http://urano-research.txt-nifty.com/uranog/2009/04/garnet-sidus.html
で、玉青さんから書誌情報について「そもそも1783年には王立天文学会はまだありません」「上のウィキの引用の仕方は、かなりよろしくない」と鋭いツッコミをいれられておりましたが、ネタ元は S.U さんご推察の通り AAVSO の当該ページでした。そのため、"the Royal Society of London" を "the Royal Astronomical Society of London" と誤っておりました。
この「ハーシェルがケフェウス座μ星を『ガーネット・スター』と命名した」というのは、天文ギョーカイに流布している“沢山存在する”都市伝説の一つです。その実相は……
1) ハーシェルが「ガーネット・スター」と命名したわけではない
2) ハーシェルはケフェウス座μ星の色合いについて "garnet" と表現しただけ
3) 固有名を命名したのはピアッツィ
4) ただし、Garnet Star ではなく Garnet sidus
5) 19世紀から20世紀初頭まではそれがほぼ常識的に記述されていた(フラマリオン、スミス提督、ウェッブなど)
6) それがなぜか完全に忘れ去られた
7) Garnet Star の言い出しっぺはアレンらしい
8) アレンはハーシェルが命名したとは言っていない(「ハーシェルで有名」(Sir William Herschel's celebrated ...) とは言っているが、「初出はピアッツィ」(so entered by Piazzi) としている)
9) ハーシェルの言及からすると、この場合の garnet は鉱物名の「柘榴石」のことではなく色名の「ガーネット(深紅色)」のことである
といったところでしょうか。私はこの中で 6) に至ったジジョーにひどく興味をおぼえます。
_ 玉青 ― 2012年04月30日 07時36分23秒
ややや!どうもお久しぶりです。
例のwikipediaの記述、海の向こうのことだと思って、遠慮なくツッコミを入れましたが、まさかBay Flamさんが、グローバルな活動をされていたとは思いもよらず。
ぶしつけな物言いをしましたこと、どうぞご海容ください。
さて、ガーネット・スターをめぐる事実を分かりやすく整理していただき、ありがとうございました。
本当に、この種の「伝説」は多いですね。基本的に人間はものぐさなので、記憶の節約のために、事実を分かりやすいストーリーに書き換えてしまうことが、こうした伝説の生まれる背景にあるのでしょう。
ハーシェルに関して言うと、「ハーシェルが天王星を発見した」、「銀河系が凸レンズ型をしていることを見出したのもハーシェル」というのも、本当は注釈を入れないと100%の真実とはちょっと距離があると思いますが、もうこういうのは面倒くさいので、ハーシェル研究者でもそのまま「事実」として流通させている気配があります。
科学史上の発見はたいていそうかもしれません。
(まあ、「分かりやすいストーリー」に飛びつくというのは、科学史に限らず、目の前で起きている内外の情勢報道などもそうでしょうけれど。…すみません、ちょっと話題がずれました。)
例のwikipediaの記述、海の向こうのことだと思って、遠慮なくツッコミを入れましたが、まさかBay Flamさんが、グローバルな活動をされていたとは思いもよらず。
ぶしつけな物言いをしましたこと、どうぞご海容ください。
さて、ガーネット・スターをめぐる事実を分かりやすく整理していただき、ありがとうございました。
本当に、この種の「伝説」は多いですね。基本的に人間はものぐさなので、記憶の節約のために、事実を分かりやすいストーリーに書き換えてしまうことが、こうした伝説の生まれる背景にあるのでしょう。
ハーシェルに関して言うと、「ハーシェルが天王星を発見した」、「銀河系が凸レンズ型をしていることを見出したのもハーシェル」というのも、本当は注釈を入れないと100%の真実とはちょっと距離があると思いますが、もうこういうのは面倒くさいので、ハーシェル研究者でもそのまま「事実」として流通させている気配があります。
科学史上の発見はたいていそうかもしれません。
(まあ、「分かりやすいストーリー」に飛びつくというのは、科学史に限らず、目の前で起きている内外の情勢報道などもそうでしょうけれど。…すみません、ちょっと話題がずれました。)
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ところで、賢治さんのお父上の家業は質屋・古着商だったと言うことですが、想像するに質屋をしていると宝石が持ち込まれることもあったはずで、父上は宝石の取引の知識もあった、ということはないのでしょうか。