ゆったりとした天文趣味の話(4)…P.H.ゴス・前編2012年01月09日 00時51分08秒


(Philip Henry Gosse 1810-1888。Wikipediaより)

天文趣味と博物趣味。そこから連想するのは、博物学の偉大な啓発家、フィリップ・ヘンリー・ゴス(1810-1888)です。彼はビクトリア朝時代における、博物学ブームの立役者の一人で、そのことは以前ちらりと書きました。

■磯遊びの思い出… P.H.ゴス、『海辺の一年』(2)
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2011/04/09/5789446

その中で、リン・メリルの『博物学のロマンス』から次の一節を引用しました。

「彼は標本を「固定」し昆虫をピンで止めたり、広口瓶、平鉢、水槽〔アクアリウム〕のなかで海洋生物を飼育することの達人であった。なんと言っても、水槽は彼の発明品である。彼の家は魚飼育用の水槽、植物栽培容器、瓶、昆虫用キャビネット、星座を眺めるための望遠鏡や動物を調べるための顕微鏡などでごったがえしていた。」

私はここで、「星座を眺めるための望遠鏡」をゴスが手にしていたことを知って、おや?と意外に思ったのですが、今回改めて調べてみて、ゴスと天文学のかかわりは、なかなか容易ならぬものがある…ということを知りました。

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ゴスの息子である、詩人のエドムンド・ゴス(1849-1928)が著した伝記フィリップ・ヘンリー・ゴスの生涯(1890)が、現在オンラインで読めますが↓、それによるとゴスが死んだのは、まさに天体観測が原因だったのだそうです。

(ゴス父子、1857年。同上)

例によって適当訳ですが、以下、「第10章 デヴォンシャーでの文筆活動 1857~1864」から抜き出してみます。

 「父は長年愛し続けてきた女主人、すなわち動物学を投げ出し、代わりに天文学と植物学に熱中し始めた。これら2つの新しい興味が目覚めたのは、1862年の4月のことである。前者は、「タイムズ」紙に、父の想像力を強く刺激した彩星coloured stars〔=色彩の鮮やかな恒星〕に関する観測記事を発表したことが発端であり、また後者はシンクレア卿の熱帯産のランのコレクションを見たのがきっかけだった。父はいつもの情熱で、これら目新しい分野に精魂を傾け、ランを育てる温室を建てたかと思うと、非常に値の張る奇妙で魅力的な植物たちをせっせと集めては、そこに並べ始めた。」

1862年とは、ゴスが52歳を迎えた年です。ゴスは1888年に78歳で亡くなりますが、人生の後半に入ってから急に天文づき、その趣味は没するまで続きました。以下は「第11章 晩年 1864~1888」の記述から。

 「とはいえ、これらの年月は決して不活発だったわけではない。その間、父はアマチュアとしての活動に専心しており、その中でもランの栽培と天文学の研究は突出していた。フィリップ・ゴスが還暦を迎えたとき、彼の身体はすっかり健康になり、ひょっとしたらそれまで以上に人生を楽しんだかもしれない。」

その死の前年、1887年になっても、彼の知的好奇心は依然旺盛で、天文熱も続いていました。

 「10月になると、ティステッドの教区牧師、F.ハウレット師の訪問を受けたことがきっかけとなって、父と母は再び晴れた晩に天文学の研究をするようになった。22日の日記にはこう記されている。『20年余り前と同様に、我々は恒星たちの間で忙しく過ごしている。特に、魅力的な二重星を夢中で探しまわっている。今は夜でも惑星が見えない』。 父は時折、以前よりも弱々しい感じがしたし、明らかに寡黙になっていたとは言え、家族の者たちは、父について特に心配はしていなかった。

 だが1887年も暮れようとする頃、とても寒い晩に、新しく買ったばかりの望遠鏡用機材が外れて、庭に落ちるという事件があった。このささいな出来事による心の動揺と、レンズが落ちた場所を確認するために、しばらく身をかがめたことによって気管支炎の発作が起こり、この持病は何とか収まったものの、父が健康を取り戻すことは二度となかった。」

こうして床に伏せりがちになったゴスは、翌1888年8月23日、ひっそりと息を引き取りました。苦しむことなく逝ったことは幸いだったと、息子は記しています。

(記事が長いので、ここで2つに割ります)

ゆったりとした天文趣味の話(5)…P.H.ゴス・後編2012年01月09日 19時20分53秒

(前回のつづき)

このゴスの伝記は、息子のエドムンドの目を通して叙述されていますが、巻末にはゴスの妻(前妻をガンで失った後に迎えたイライザ)の手記が付録として収められています。同じような内容ですが、こちらも見てみます。

「この時期〔引用者註:晩年の数年間〕のこととして、夫が天体の研究に打ち込んだことを述べないわけにいきません。私たちは良い望遠鏡を持っていました。秋晴れの、星がいっぱいの晩には、それを使って主要な星座や二重星、それに星雲に関して、しっかり学ぶことができました。

この望遠鏡は、ある事故のせいで台無しになってしまいましたが、バザーの折に、ロチェスターの牧師さんから、もっと性能の良い望遠鏡を手に入れることができたので、それを使って私たちは、遠い遠い世界の素晴らしい光景を、さらに眺めることができるようになりました。このきわめて興味深い探究は1887年の終わりまで続きましたが、私にとって貴重な暮らしは、そこで幕を閉じたのです。

その年の冬の晩は冷え込んでいました。開け放った窓辺で熱心に立ったまま望遠鏡の調整をしていたせいで、夫は気管支炎の発作を起こし、1888年の初めには、深刻な病状になっていました。医者によって心臓の具合が悪いことも見つかり、それでも二人でちょっと散歩に出たり、ごく短い時間、田園まで馬車で出かけることはありましたが、夫の健康がすっかりだめになっていることが分かるのに、時間はかかりませんでした。」

夫婦で仲良く天体観測に励んだ様子が、何ともほほえましい。
ゴスは天文学に関しては完全に素人でしたから、上のこと(=夫婦で仲良く)は、当時の一般的なアマチュア天文ライフの一端を物語るものとも言えそうです。おそらく、この時期、天体観測は一般の女性も参画できる趣味として、徐々に認知されてきたのでしょう。

ゴスが天文趣味に目覚めた1862年というタイミングも興味深いです。
これはちょうどウォード夫人の『望遠鏡指南』(1859)が出て、好評を博していた時期にあたります。一般的に、この頃から天文趣味の裾野がぐんぐん広がり始めたので、ゴスもその波に乗った形です。かつての啓発家が反対に啓発されたわけで、当時の天文趣味の勢いを物語る話ではあります。

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限りない創造の驚異は、何の補助具もない肉眼では見えずとも、顕微鏡の助けを借りれば十分視野に入ってくる。その驚異へと至る小道を切り開くことこそ、本書の目的であり、その取り扱う内容である。

すべての目に見える事物において、神の力と智慧の顕現は偉大かつ華麗であるが、同様にこれらの栄光は、さらに予想もつかないほどの広がりを見せており、ただ光学機器製作者の技術がそれを明らかにするまでは、打ち捨てられ、見過ごされてきたのだと断じても差し支えあるまい。

まるで東洋の伝説に出てくる強力な魔神の所業のように、この真鍮の筒こそは、それまで見えなかった驚異と美に満ちた世界への錠を開ける鍵であり、それを一目見た者は、決してそれを忘れることはないし、感嘆の言葉が尽きることもないだろう。」

ゴスが、まだ天文趣味に目覚める前の1859年に著した『顕微鏡とともに過ごす夕べ Evenings at the Microscope』の序文の一節です(1896年のアメリカ版から訳出しました)。ゴス自身が、天体観測について何か本を書いた話は聞きませんが、上の文中の「顕微鏡」を「望遠鏡」に置きかえれば、彼が天文趣味に何を求めていたかは明らかです。

ゴスが使った機材や、その天文活動の詳細は不明ですが、「魔法の筒」を駆使して、博物学と天文学に熱狂した、もう1つの実例として、ここではゴスに注目してみました。


(↑過度に装飾的なヴィクトリア時代のプレパラート。
背景はゴスの『顕微鏡とともに過ごす夕べ』、1896)

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さて、ここまで書いてきて、ふと思ったのですが、天文趣味と他の興味関心―博物学でも、古物趣味でもいいですが―を両立させた人を挙げるとなると、賢治も、足穂も、抱影もそうですし、さらに言えば、アリストテレスも、ニュートンも、フックも、ハーシェルも…となって、話が終わらなくなります。

以下は、改めて話のポイントをしぼって、驚異の部屋への志向性と天文趣味が併存した例に内容を限定することにします。

ちなみに、古物の陳列室や「珍品のつまったキャビネット」を自慢したジョン・リーはその資格十分です。ウォード夫人やゴスの場合も、博物標本や採集・観察用具が山積した様は、きっと現代の目からすれば十分「驚異の部屋」的香気を放ったことでしょう。

次回は少し毛色の変わった例を見ることにします。

(このシリーズは少し間を開けてさらに続きます。なお、「ジョバンニが見た世界」も、画像の準備ができたら再開の予定です。)