驚異の部屋さまざま ― 2012年01月19日 23時12分17秒
昨日の記事で、「こういう驚異の部屋のパスティーシュを、どこまで真面目に受け取るべきか?」というようなことを書きました。それについて考えてみます(ヒマですね)。
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いにしえの「元祖・驚異の部屋」は、「世界全体を我が物とする」ことを目的に、あらゆる珍物を蒐め、結果的に驚異の部屋ができあがったのだと思います。
(↑元祖・驚異の部屋を彷彿とさせる、ヤン・ブリューゲル(父)とルーベンスによる合作「五感の寓意」より「視覚の寓意」(部分)、1617)
ランベルサード氏の場合はプロセスがだいぶちがいます。
彼は最初から「驚異の部屋的な空間を作り、それを興がる」ことが目的で、いかにもそれっぽい物を、ときには自らデッチ上げることも厭わず― むしろそれを創作行為として積極的に行い― そこで結果的にできあがったものは、「驚異の部屋をテーマとしたアート作品」です。
したがって、最初から目指すものが違うので、「こんなもの、驚異の部屋のまがいものに過ぎん!」と指弾するのは的外れです。その「作品」は、もともと「現代における驚異の部屋」たることを目指しているわけではなく、どこまでも「作品」であり、アートの文脈でとらえるのが妥当です。そしてアートの文脈において、やはりこれは真面目に受け取るべきです。
アートとして成功しているかどうか、それが氏の「好奇心の部屋 Mon Cabinet de Curiosités」を評価する唯一のポイントなのでしょう。
(アート、アートと、なんとかの一つ覚えのように言っていますが、アートの正体も自明ではないので、それはまた別に考えないといけないですね。)
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私の場合は、アートを志向しているわけではありませんが、「驚異の部屋的な空間を作り、それを興がる」という目的においては似ています(より正確には、目指すのは「理科室的な空間」であり、「興がる」というよりは「古びた学問の佳趣を愛でる」という点に力点があります)。
ただ、世界を手中にするという発想にも、同時に惹かれるものがあって、ランベルサード氏ほど割り切って考えることができません。何となく中途半端です。結局、その妥協点が「理科室」であり、さらには「理科室‘風’」ということかなあ…と思います。
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ここで言葉を変えると、広義の驚異の部屋には、「元祖・驚異の部屋」、「アートとしての驚異の部屋」、「インテリアとしての驚異の部屋」…etc、多様な形があると言ってもいいでしょう。
驚異の部屋の魅力とは何ぞや?というのは、上に挙げた類型によっても異なるし、また同じ類型であっても、人によってかなり違うと思いますが、すべての驚異の部屋に共通する性格は、強烈なモノへのこだわり、オブジェ志向ということではないでしょうか。
モノにパワーを認めるという点で、これは一種の物神崇拝(フェティシズム)であり、アニミズム的態度なのだと思います。
(↑1598年にその淵源を持ち、18世紀前半に整備された、ハレ(ドイツ)に残る「人工物と自然物の部屋(Kunst- und Naturalienkammer)」。出典:Patrick Mauries(著)『Cabinets of Curiosities』、Thames & Hudson、2002)
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